河合美智子 学歴。 グルメ・クッキング: 河合美智子 ヌード動画!?

河合美智子の脳出血の原因はお酒?若い頃の前兆と支える夫が凄い

河合美智子 学歴

NHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」(1996~97年)で、通天閣を頭にのせた演歌歌手「オーロラ輝子」役を演じた女優河合美智子さん(51)が昨秋から兵庫県豊岡市に移住し、活動を続けている。 3年前に脳出血で倒れ、右半身にまひが残ったが「病気を受け入れると世界が広がった」と話し、自然豊かな土地でエネルギーを受けながら舞台出演などの活動を続けている。 (石川 翠) 河合さんは2016年8月、東京都内の稽古場で、立ち上がろうとすると右足に力が入らず、倒れ込んだ。 「しびれたのかな」と思っていると、異変に気付いたプロデューサーが「右足首の向きが変だ。 すぐに救急車を呼んだほうがいい」と声を上げた。 駆け付けた救急隊員との会話が途中から「あー」「うー」と言葉にならなくなり、右手から肩へと固まっていく。 何が起こったのか分からないまま、集中治療室(ICU)に運び込まれた。 血圧を下げる薬の投与で手術はせずにすんだが、5カ月間入院した。 入院中、ショックや悲しいという感情はなく、不思議な感覚が芽生えた。 寝返りを打とうと動いて服がはだけた時、恥ずかしいという気持ちが一瞬よぎったが「宇宙からみたらちっぽけなこと。 生きてるだけで十分」と穏やかな気持ちになったという。 夫の俳優峯村純一さん(51)の支えも大きかった。 毎晩面会に来て、その日あったささいなことを面白おかしく話して笑わせてくれた。 峯村さんの好きな喜劇王チャプリンの名言は「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇になる」。 河合さんは「カメラの位置を変えれば物事は全然違って見える。 いい方向に誘導してくれた」と感謝する。 リハビリを続け、ある程度は手足が動くようになったが、右足は少し引きずるような歩き方になり、日によっては右手で物がつかめない。 素早い動きも難しく、女優としての道は大きく変わることを自覚した。 病気のことは退院まで公表していなかった。 入院中にテレビの歌番組への出演依頼があり、生中継で「オーロラ輝子」として千人の観客の前で歌うことに。 肺活量を戻すため、毎日外出届を出してカラオケボックスで練習した。 本番中に右足首が曲がって少しよろけたが「頭の上の通天閣がよっぽど重かったのだろうと思われたみたい」と笑う。 倒れる前年、イベント出演で出石永楽館(同市出石町柳)を訪れたことがあり、歴史ある建物の中を澄んだ空気が抜けていく感じに心引かれたという。 「出会う人たちはほどよい距離感で親切にしてくれ、居心地がとてもいい。 仕事柄いろんな土地を訪れたけど、初めて住みたいと思った」 劇作家平田オリザさんが劇団ごと移住し、専門職大学の開校が予定されるなど、同市が「演劇のまち」を掲げていることも知り、移住を決断。 症状が落ち着いた18年10月に引っ越した。 舞台公演中は大阪や東京に数週間滞在するが「帰ってくると、とても落ち着く。 緑色にはこんなに種類があるのかと何度見ても感動する」と話す。 同じ経験をした人への講演の機会も増えた。 「他人や過去の自分と比べると悲しくなってしまうので、『乗り越える』ではなく『受け入れる』ことを伝えている」という。 自身も病気を通して世界が広がったという。 テレビや映画は撮影が短時間勝負なので難しいが、舞台は準備期間があり、工夫次第。 「動きが制限される分、観客からどのように見えるかを意識するようになり、演出家のような視点が強くなった。 もともと演じるより見るほうが好きだったので、今後は演出の仕事もしてみたい」と目標を語った。 28日にはJR江原駅(同市日高町)周辺で開かれる「日高夏まつり」のステージで歌を披露する予定。 【かわい・みちこ】1968年生まれ、神奈川県出身。 14歳の時、映画「ションベン・ライダー」(相米慎二監督)のヒロイン役でデビュー。 「ふたりっ子」で歌った「夫婦(めおと)みち」は大ヒットし、NHK紅白歌合戦にも出場した。 舞台や映画、ドラマなどで演技派女優として活躍。 9月中旬から全国公開される映画「みとりし」(白羽弥仁監督)にも峯村さんとともに出演している。

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河合美智子の元旦那や子供&脳出血の闘病まとめ!若い頃から現在まで徹底紹介

河合美智子 学歴

1940年(昭和15年)頃の正田美智子 (昭和9年)、会長の・冨美((昭和56年)に富美子と改名した)夫妻のとして(現・東部)ので誕生。 、を経て、(昭和16年)に雙葉学園に。 (昭和19年)、のため、の乃木高等女学校附属小学校(現・)、の館林南(現・)、(昭和20年)5月には、の軽井沢第一国民学校(初等科5年に、同年9月まで) とを繰り返し、にて終戦を迎えた。 雙葉学園を受験する際、本郷区大和郷の旧居に、一時在住したこともある。 小学生時代の性格は、担任の回想では「真面目な女子児童」、「活発で勝ち気だった」、「神経質な性格だった」とされていて、が得意な女子だった。 また、・・、も習っていた。 (昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校をするが、当時はに在住しており通学に不便なことからへ入学する。 (昭和28年)3月、を卒業。 中高時代も成績はトップクラスで、当時の愛称はのであったのようなだったことから「 テンプルちゃん」や 「 ミッチ」「 ミチ」 と呼ばれていた。 (昭和32年)文学部外国語外国文学科(現・英語英文学科専攻)を首席で卒業。 在学中はクラスの福祉委員(ウェルフェア・メンバー)委員長 、プレジデント(全学自治会会長)としても活動していた。 ではとして答辞を読んだ。 自身は進学も希望していたが、両親の意向もあり家庭に入る。 クラブ活動では部・英語劇クラブ・テニス部に所属していた。 テニスでは在学中に新進トーナメントに優勝して、学生ランキングの第4位にランクインした。 昭和29年度(1954年度)の記念の主催の感想文では2位に入選した。 のは、『ゴーズワージーのフォーサイト・クロニエル』( by )。 大学卒業後にの習得をしながらのの研究を続けていた。 同年8月、ので開催されたのトーナメント大会にて当時だったと出会う。 にちなんだ「テニスコートの出会い」として知られる。 その後もテニスを通して交際を深めたといわれる。 明仁親王は正田美智子(当時)のを「女ともだち」と題して職員のに出品したが、「には旧・から選ばれるのが当然」と考えられていた時代であり、誰も彼女を「お妃候補」とは思わなかったようである。 (昭和33年)、にて開催された「聖心世界同窓会第1回世界会議」の日本代表として出席し、各国に訪問旅行する。 同年11月27日、皇太子明仁親王と正田美智子のが(議長:・)においてで可決された。 同日、両親の正田英三郎と富美子夫人とのにて、から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」と回答。 これは当時の流行語にもなった。 また第一印象について「ご清潔な方」とした。 皇太子明仁親王と正田美智子の巨大な写真がデパートに飾られる・「美智子さまぬりえ」が発売されるなどの が起こる。 結婚への反発 [ ] 1955年ごろの呉竹寮。 「(将来のとなる)は「(後の)か(以上)といった特定の旧に属する女性から選ばれる」ということが習わしとされており、「から妃を迎える」ということが考えられなかった時代で、(昭和33年)の正田美智子の結婚は、旧皇族・旧華族らに強く反対された。 旧皇族出身で姑ともなる(当時)は夏に、の に、、らを招き、「 東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん」と当時の侍従と数時間懇談し、妃の変更を訴えたとされる。 しかし11月の皇室会議では、猛反対をした一人であった秩父宮妃勢津子も賛成し、全員一致で可決した。 旧皇族の は、明仁親王と正田美智子の婚約発表が行われた同年11月27日付の日記に、「 朝からよい晴にてあたたかし。 もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。 日本ももうだめだと考へた」と記している。 ただ、この結婚に理解を示した義理の姪の配偶者(伊都子の夫梨本宮守正王の兄が久邇宮邦彦王であり香淳皇后の父)であるの意向もあり、伊都子は以後は表立って批判することはなくなった。 皇太子妃時代 [ ] 1987年(昭和62年)10月、訪時に夫妻と (昭和34年)、皇太子明仁親王と結婚する。 同日の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まった。 お印は夫妻の出会いの場だったにちなんでとした。 晴れがましい成婚・民間での祝福ムードとは対照的に、であることや選に漏れた他の候補者に北白川肇子など元皇族の令嬢がいたことなどの理由から、一部の・女官に受け入れられず、元皇族・元華族の婦人らからもさまざまな非難を受けたとされる。 美智子妃は1969年に、昭和天皇の侍従に対し「(香淳皇后は)出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか」と尋ねたという。 一方、もと内親王であり、美智子妃の義理の姉にあたるより自宅のホームパーティーに招待されるなど、好意的な旧皇族も存在した。 またパレードの際には暴漢が馬車を襲撃 して取り押さえられる事件が起こった。 (昭和35年)に第一子・第一男子が誕生した。 出産後、、より「ごくろうさまでした。 しっかり、静養するように」と労いの言葉をかけられた。 また、後の第126代天皇となる浩宮徳仁の命名は祖父・昭和天皇が行った。 親王の存在は美智子妃の心の支えとなった。 美智子妃は当時、側近である東宮侍従に「どのようなときでも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの」との言葉を語っている。 同年 - 、より数えての百周年を記念し、より招待され訪米。 にも招待され、大統領夫妻と会談した。 この折、浩宮は出生後7か月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称「ナルちゃん憲法」を与えて養育を委ねる。 (昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ。 1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同年3月10日の香淳皇后の還暦祝いを欠席し、同11日にが美智子妃の生い立ちを書いた、雑誌『平凡』連載の小説『美智子さま』の連載と単行本発行中止を宮内庁がに申し入れ、連載は中止された。 直後の3月22日にに緊急入院、と診断され翌23日の午後にの処置手術が行われた。 全国紙各紙は美智子妃の不調を週刊誌報道や小説問題と関連づけ、『平凡』ほか雑誌をバッシングしたが、胞状奇胎がストレスで起こることはなく、小説の内容は東宮御所筋から得ていたと小山は証言しており、対立する宮内庁側からの圧力とされる。 このとき流産の件をある宮妃に責められることがあったため、その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月間ひとりで静養する事態となった。 7月8日から皇太子・皇孫浩宮とともに軽井沢で過ごしたあと、9月1日に帰京し、9月13日の(山口国体)から、段階的に公務に復帰した。 (昭和36年)夏頃、キリスト教に心酔していることに昭和天皇が激怒し、美智子妃が「絨毯の上にひれ伏して謝ったが、天皇のお怒りは容易に静まらなかった」と『文藝春秋』が報じた。 (昭和39年)皇太子明仁親王と共に にて (昭和40年)、第二子・第二男子誕生。 (昭和44年)、皇太子明仁親王との第三子・第一女子誕生。 苦労の多い美智子妃にとって、唯一の娘である紀宮の存在は大きな心の支えとなったとされる。 1977年(昭和52年)から10年間は、毎年2人で陵墓・史跡訪問を含む小旅行を行なっていた。 これら子女の出産にあたり、皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、制度、傅育官制度を廃止した。 (昭和59年)、となる結婚25周年の会見で「夫婦としてお互いに何点をつけるか」との問いに対し、皇太子が「点数をつけることはできないが努力賞ということで」と答えたのを聞いて、美智子妃は「私も差し上げるのなら、お点ではなく感謝状を」と答え、同席していた記者たちからも感嘆の声があがった。 (昭和61年)3月、のを受ける。 このため同時期に予定されていた訪米は翌年に延期、訪は中止になった。 手術の際も夫・皇太子の公務の妨げとなることを好まず、中止の判断は極限まで下されなかった。 退院の際、玄関前で皇太子の胸に顔をうずめる姿がみられた。 晩年の昭和天皇一家の写真にて、嫁・美智子妃が腰を悪くしていた姑・香淳皇后の体を支えている写真が複数公表されている。 とはともにを観戦した姿も目撃・報道された。 また次男の文仁親王と長女の清子内親王はと関係が深く、孫のようにかわいがられていたといわれる。 皇后時代 [ ] 2009年(平成21年)7月10日、訪問時(、) (昭和64年)、義父のが崩御し夫の明仁親王即位に伴い、皇太后となった姑のを引き継ぎ立后する。 即位・立后後の記者会見においては、皇太子となり東宮仮御所にて独立する長男の徳仁親王について「時たまでよろしいから、を聴かせにいらしてくださると、うれしいと思います」とのコメントを発している。 (平成5年)10月20日、満59歳のににて倒れる。 同年の『』1993年8月号には「皇室の危機-『菊のカーテン』の内側からの証言」として、「宮内庁職員・大内糺」を称する人物による記事が掲載されていた。 のまとめによれば、その中で大内を名乗る人物は、天皇夫妻をやに比して、「華美で風な生活を送り、よりもに親和性が高く(元々、皇后がではなくの出でもあることから)、国民の望むの主としてふさわしくない」という批判をし、それを皮切りに『週刊文春』などにも平成の皇后に対するバッシング記事が掲載された。 宮中の最高権力者の一人となった皇后への、守旧派の「最後の反撃」と国民の「漠たる反感」が背景とされる。 このため皇后は精神的な苦痛からとなった。 これに対し、およびの関係者宅に何者かが銃弾を撃ち込む騒動が起き、このショックと皇后がを熱心に行ったことで事態は沈静化したが、前代とは違う形のが明らかになったとされる。 翌年に回復し「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメントを発表している。 (平成6年)10月20日、を迎える。 (平成7年)1月31日、天皇と共に夫妻でによる発生後のを見舞い(行幸啓)、同市の菅原市場にその日から自ら切って持参した黄色と白のを供えた。 この水仙は関係者によって永久保存処置が取られ、同市内で展示されている。 被災地の避難所を訪問し、被災者一人一人に声をかけ、時には手を握り、時には抱きしめて被災者の労をねぎらう様子が大きな反響を呼ぶ。 また、一人の病身の被災者のために自ら布団を敷いた。 (平成10年)、・で開催された「(IBBY)」に際してによる講演を行い、に触れ、の妃の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来の胸中を語った。 (平成14年)、IBBYの本部がある・で開催されたIBBY50周年記念大会に、IBBYとして出席し祝辞を述べた。 これが唯一の単独での海外公務となっている。 (平成14年)、皇后の満68歳の誕生日に際し宮内記者会の質問に対する文書ご回答で、次のようにについてコメントした。 「の訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみとともに、無念さを覚えます。 なぜ私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることができなかったかとの思いを消すことができません。 今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います。 」 (平成17年)、降嫁前の記者会見では子供たちに対する思いを語り、が優しく、よく励ましの言葉をかけてくれたこと、が細心な心配りを忘れない一方で自分が真実を見失わないようにも注意していたということ、清子内親王誕生の折には曇りなき晴天に朝から吉兆を感じたこと、清子内親王のおおらかでのどかな性格などを回想しつつ語った。 婚礼の朝には、民間へ降嫁する愛娘を気遣い、抱きしめて励ましたという。 (平成19年)、体調を崩し腸壁から出血。 性のものと診断された。 通常の公務と並行して療養した結果、病状は回復したと発表された。 同年5月21日からは、天皇とともに訪問の途についている。 8月8日にはでの静養を中止し、天皇とともにの被災地を訪問。 (平成21年)、米国・の戦没者慰霊碑に礼をして。 しかしながら、(平成20年)で皇后も74歳の高齢となり、健康上の理由から公務軽減が検討された。 (平成23年)3月30日、 天皇とともに夫妻で、同年3月11日発生のによるの被災者約290人が避難している()を訪問し(行幸啓)、膝をつきながら、一人ひとりを親しく激励した。 (平成27年)7月29日、皇后は6月末ごろから胸の痛みを訴え、その頻度が週に数回程度から徐々に増えてきたため、同月24日に24時間の心電図検査を受けた。 その結果、心臓の筋肉に血流が不足する心筋虚血を疑う所見がみられたという。 は29日、心筋虚血の疑いがあるため、同年8月9日に、で精密検査を受診すると発表した。 同病院で冠動脈の状態をCT検査で確認し、治療を受け、以後体調は安定している。 上皇后時代 [ ] (平成28年)に国民に向けたビデオメッセージとして全国放送された「」の録画収録の際には、その場にも同伴した。 (平成29年)にが成立、202年ぶりとなる天皇 が実現することとなった。 これにより夫・が2019年(平成31年)4月30日で退位し、翌(元年)5月1日に長男の皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位することに伴い、皇太子徳仁親王妃雅子が立后した。 美智子の称号は「 (じょうこうごう)」となった。 前皇后の称号については、夫帝の生死に関わらず歴史的に用いられてきた「 (こうたいごう)」、あるいはその略称である「 太后(たいこう)」の称号を用いるべきであるとする反対意見もあったが、「退位したが健在にもかかわらず、(皇室史上においても)崩御により夫と死別した未亡人というイメージが強い皇太后の称号を使用することは避けるべき」という見解が出たため、新称号を創設する運びとなった。 上皇后となって1ヶ月が経過した後、2019年(令和元年)6月8日にで心臓の検査を受けた。 この検査はの手術を受けるために行われた血液検査において、心不全の診断指標であるBNP値が上昇していたことから実施された。 専門医による診断の結果、中等度の三尖弁逆流症、軽度の僧帽弁逆流症及び不整脈の所見が認められた。 その後、上皇との同伴で京都府での「孝明天皇山陵及び明治天皇山陵に親謁の儀」を済ませた後の6月16日に右眼の白内障手術を、6月23日に左眼の白内障手術を受けた。 (令和2年)、夫の上皇明仁、天皇徳仁と皇后雅子および他の皇族らと共に、での新年一般参賀に参加。 上皇后となって以降、初めて公の場で姿を見せた。 同年3月31日、上皇と共に仮住居となる(高輪仙洞仮御所)に引越した。 年譜 [ ]• (昭和9年)10月20日、(現・)のにて誕生。 (昭和14年)、に入園()。 1939年(昭和14年)、に編入園()。 (昭和16年)、に入学。 (昭和19年)、乃木高等女学校附属小学校(現・)に編入学()。 館林南国民学校(現・館林市立第二小学校)に編入学。 (昭和20年)5月、軽井沢第一国民学校(現・軽井沢町立東部小学校)に編入学。 (昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業。 (昭和28年)3月、を卒業。 (昭和30年)3月、を卒業。 (昭和32年)、文学部外国語外国文学科(現・英語英文学科英語英文学専攻)を卒業。 (昭和34年)、(当時)と成婚。 同日付でを受章。 (昭和64年)、義父の崩御。 皇太子明仁親王のによる第125代天皇に伴い皇后冊立(立后)。 (令和元年)、の退位に伴い(による)、となる。 外国訪問 [ ] 単独訪問 [ ] (昭和62年)上皇(当時:皇太子)と共に アメリカ・、にて• (平成14年) - 、 旅行。 (IBBY)、・州政府からの招待により、同準州州都でIBBYの本部があるで開催される「国際児童図書評議会創立50周年記念大会」に同会のとして出席のため。 (平成26年) - 、 訪問。 元・の王妃であるが12月5日に死去し、12月12日に首都行われる葬儀に参列するため。 明仁との訪問 [ ] 皇太子妃時代 [ ] 親王時の外国訪問 年 出国 帰国 訪問地 同行 備考 1953 03月30日 10月12日 (立寄り) (立寄り) (立寄り) (立寄り) (立寄り) (立寄り) (立寄りした国は合計13カ国) 英女王戴冠式参列、天皇 1960 09月22日 10月 07日 皇太子妃 日米修好100年記念 11月12日 12月 09日 (立寄り) 皇太子妃 国際親善(名代) 1962 01月22日 02月10日 皇太子妃 国際親善(名代) 11月 05日 11月10日 皇太子妃 国際親善(名代) 1964 05月10日 05月17日 (立寄り) 皇太子妃 国際親善(名代) 12月14日 12月21日 皇太子妃 国際親善(名代) 1967 05月 09日 05月31日 皇太子妃 国際親善(名代) 1970 02月19日 02月28日 (天皇名代) 皇太子妃 国際親善 1971 06月 03日 06月12日 (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善(名代) 1973 05月 06日 05月23日 皇太子妃 国際親善 10月11日 10月22日 (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 1975 02月20日 02月28日 (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 ネパール国王戴冠式参列 1976 06月 08日 06月25日 (名代) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 1978 06月12日 06月27日 (立寄り) 皇太子妃 70周年記念式典参列 1979 10月 05日 10月14日 (名代) (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 1981 02月27日 03月 07日 (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 07月26日 08月 02日 (立寄り) 皇太子妃 英結婚参列 差遣 1983 03月10日 03月25日 (名代) (立寄り) (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 1984 02月25日 03月 08日 (名代) (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 1985 02月23日 03月 09日 (名代) (立寄り) (立寄り) 皇太子妃 国際親善 06月 01日 06月15日 (名代) 皇太子妃 国際親善 1987 10月 03日 10月10日 皇太子妃 国際親善 皇后時代 [ ] 在位中の外国訪問 年 出国 帰国 訪問地 同行 1991年 平成3 09月26日 10月 06日 皇后 国際親善 各国からの招待 1992年 平成4 10月23日 10月28日 皇后 国際親善 中国からの招待 1993年 平成5 08月 06日 08月 09日 皇后 国王の参列 09月 03日 09月19日 (立寄り) 皇后 国際親善 各国からの招待 1994年 平成6 06月10日 06月26日 皇后 国際親善 アメリカからの招待 10月 02日 10月14日 (立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 1997年 平成9 05月30日 06月13日 (立寄り) (立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 1998年 平成10 05月23日 06月 05日 (立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 2000年 平成12 05月20日 06月 01日 (立寄り) (立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 2002年 平成14 07月 06日 07月20日 (立寄り) (立寄り) 皇后 国際親善 両国からの招待 2005年 平成17 05月 07日 05月14日 (立寄り) 皇后 国際親善 ノルウェーからの招待 06月27日 06月28日 皇后 平和祈念 戦没者慰霊 2006年 平成18 06月 08日 06月15日 (立寄り) 皇后 国際親善 シンガポールからの招待 タイ国王即位60年記念式典臨席 2007年 平成19 05月21日 05月30日 皇后 国際親善 各国からの招待 2009年 平成21 07月 03日 07月17日 皇后 国際親善 カナダからの招待 ハワイ州皇太子明仁親王奨学金財団50周年記念行事 2012年 平成24) 05月16日 05月20日 皇后 女王即位60周年の記念午餐会招待 2013年 平成25 11月30日 12月 06日 皇后 国際親善 インド政府からの招待 2015年 平成27 04月 08日 04月 09日 皇后 戦没者慰霊 平和祈念 パラオ国の招請 2016年 平成28 01月27日 01月30日 皇后 国際親善 フィリピン政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念 2017年 平成29 02月28日 03月 06日 (立寄り) 皇后 国際親善 ベトナム政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念 タイ国前国王の弔問 皇子孫 [ ] 皇子女 [ ] 夫のとの間に、2男1女の3子を出産しもうける。 誕生時の 生年月日 現在 ( なるひと ) 親王 2月23日(60歳) 浩宮 ( ひろのみや ) (第1子) ( 第126代) 小和田雅子と結婚。 后妃: 子女:1女 1人。 親王 11月30日(54歳) 礼宮 ( あやのみや ) 第2皇男子(第2子) (あきしののみや)当主かつ(順位第1位) 川嶋紀子と結婚。 后妃: 皇嗣妃 子女:1男2女 3人。 内親王 4月18日(51歳) 紀宮 ( のりのみや ) 第1(第3子) と結婚。 黒田家に降嫁し 以後、 (姓読み:くろだ)。 子女:無し。 皇孫 [ ] 1男3女の孫がいる。 (昭和10年)頃の正田一家。 右から父・英三郎、兄・巌、美智子、母・富美子。 高祖父: - 創業者。 祖父: - 創業者。 議員、会長、()理事長、勲三等・。 祖母: 正田きぬ - 正田醤油社長・文右衛門の長女。 弟・卓治は会長。 父: - 日清製粉。 母: 正田富美子 - ・副島家出身。 常務理事・副島綱雄の長女、(現・)生まれ。 妹・ 恵美子(社長・の夫人)• 弟: - 日清製粉グループ本社取締役会長、監査役、取締役。 夫人は・の孫。 叔父: - 数学者。 6代総長、学長、。 従兄: - 名誉教授、教授。 従兄: - 東京大学助教授、専務。 従兄: - 学長。 瑞宝中綬章。 系譜 [ ]• 『正田貞一郎小伝』9 - 21頁によると、• 「のであるの伝えるところによれば、正田家の祖先はの生田隼人 となっている。 年間、生田義豊はに謁し、新田、徳川の郷土に関する旧記由緒を上申して知行を受け、命により生田を正田と改めた。 後世、世良田にいた正田家の人が館林に移ってとなり、これが館林における正田家の始まりである。 それは、、のころといわれ、四代を経て正田文右衛門と称し、以後累代これをした。 正田家は代々「米文」ののもとにを家業とし、上州および近郊きっての富商であった。 「米文」の名声ははいうまでもなく、方面まで聞こえていた。 のころ( - )にはの職にあり、を許されていた。 元年()7月に生まれた文右衛門(3代目)は正田家「中興の祖」といわれている。 文右衛門は6年()を辞め、を始めたという。 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』(、)385-386頁によると、• 「そもそも正田家のルーツは館林の在。 郷土史家によれば「正田家の祖先はの孫、の重臣、生田隼人 までいきあたる」というが、入手した文献で確認できるのは、300年前の庄田六三郎(2年没)からである。 この六三郎が館林における正田家の始祖である。 四代を経て正田文右衛門という人物が登場し、庄田を正田にあらため以後代々、正田家の当主は文右衛門をするに至っている。 は「米文」の屋号で代々を営んでいたようで、深川や堂島のを動かす、近郊きっての豪商だったと伝えられる。 大繁盛したであったが、6年、の曾祖父にあたる三代目文右衛門は突然家業をやめ、「亀甲正」という商号で新しくを始めたという。 正田家の系図 [ ] 文右衛門 3代目 美智子の高祖父、美智子の祖父の祖父 旧正田邸跡地の公園。 (2007年) 皇后が家族とともに、出生から結婚までの半生を過ごした正田邸は、昭和初期に皇后の父である正田英三郎が構え、によって建設された洋館である。 竣工当時は、比較的シンプルなデザインであったが、重層的な増築により屋根などの装飾が複雑に重なり、天窓などのの要素も加えられた。 近世イギリスのの英国風の屋根や、当時流行した木組みを表面に見せる北欧ののデザインは典型的な上流邸宅としても建設された。 邸内は客室兼書斎の中央にが備わっており、居間にはなどもあり、和室なども存在した。 約70年間保存されてきた貴重な建造物であったが、(平成15年)3月に老朽化を理由に解体された。 (平成16年)8月26日に、「旧正田邸跡地」「皇后美智子の生家跡」とされ、のちに自由公園であるが建設された。 現在では、公園用地としてが運営している。 公園名は、皇后が聖心女子学院高等科時代に作った詩である「ねむの木の子守歌」にちなんで名づけられた。 旧正田邸の門扉を模した正門、正田邸にあった庭石などがあり、暖炉の煙突をモチーフにしたガス灯などが配されている。 園内には、皇后がで詠んだ、、や、皇后のであるなどが植えられている。 また、皇太子妃時代に、イギリスから贈られた薔薇も、初夏と秋に咲いている。 栄典 [ ] 日本 [ ]• (宝冠大綬章) - 外国 [ ]• : オーストリア共和国勲章 -• : レオポルド勲章 -• : エレファント勲章 -• : シバの女王勲章 -• : -• : 大公ヴィータウタス勲章 -• : ナッサウ家金獅子勲章 -• : ラム・クラウン勲章 -• オヤイランニャ勲章 -• ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハメダル• : オランダライオン勲章 -• : -• : ガブリエラ・シラン勲章 -• : 白鷲勲章 -• : ソード・セントジェームス勲章 -• : -• イザベラ・カトリック勲章 -• チャールズ3世勲章 -• : セラフィム勲章 -• : 救い主勲章 -• : -• :ウイサム・アラウアイト勲章 名誉役職 [ ]• 名誉総裁 :1989年(昭和64年)1月7日 — 2019年(平成31年)4月30日• 名誉総裁• 国際児童図書館名誉会員 著作 [ ] 和歌・発言集 [ ]• 『ともしび-皇太子同妃両殿下御歌集』 編、、12月• 『瀬音-皇后陛下御歌集』 、4月、 / 新装版 、• 『あゆみ-皇后陛下お言葉集』 侍従職監修、、10月、• 改訂版 3月、/増訂版 3月、• 『道--天皇陛下御即位十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会、10月 / 新装版 、• 『道--天皇陛下御即位二十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会、9月、• 『道--天皇陛下御即位三十年記念記録集』 宮内庁編、、3月、 児童関連楽曲・書籍 [ ]• 『はじめての やまのぼり』絵・武田和子 至光社 、• 『 』 Denon、(作詞した「ねむの木の子守歌」を収録)• 『愛のゆりかご 日本の子守歌』 中目徹編、東亜音楽社、(楽譜、19曲目に作詞曲を収録)• 『どうぶつたち The Animals :詩集』 選・英訳:皇后美智子、絵:、すえもりブックス、、• 『ふしぎなポケット The Magic Pocket :まど・みちお詩集』 選・英訳:皇后美智子、絵:安野光雅、すえもりブックス、、• 『橋をかける--子供時代の読書の思い出』 すえもりブックス、 / 特装版、、• 『バーゼルより--子どもと本を結ぶ人たちへ』 すえもりブックス、、(第2版) 作詞 [ ]• ねむの木の子守歌(作曲:)• 、()と()、()の競作でシングルレコードとして発売。 やをはじめ多くの歌手にカバーされている。 逸話 [ ] 少女時代 [ ]• 非常に優れたの持ち主で、学生時代にはの選手などに選ばれることが多かった。 この当時は勝気な性格であったと伝えられる。 学生時代に学校において出会った人のたちに深い思いを寄せており、一人ひとりの顔と名前を今なお鮮明に思い出すことができるという。 天皇に関するもの [ ]• (平成21年)に皇居の宮殿石橋の間で行われた「天皇陛下御即位二十年に際しての天皇皇后両陛下の記者会見」での自身の発言より。 「戦後()により、天皇のご存在が『象徴』という、私にとっては不思議な言葉で示された(昭和22年)、私はまだ中学に入ったばかりで、これを理解することは難しく、何となく意味の深そうなその言葉を、ただそのままに受け止めておりました。 に上がって50年がたちますが、『象徴』の意味は、今も言葉には表し難く、ただ、陛下(=自身の夫)が『国の象徴』また『国民統合の象徴』としての在り方を絶えず模索され、そのことをお考えになりつつ、それにふさわしくあろうと努めておられたお姿の中に、常にそれを感じてきたとのみ、答えさせていただきます。 皇后に関するもの [ ]• (平成14年)、自身の68歳の誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書での回答 より。 「皇后の役割の変化ということが折々に言われますが、私はその都度、の開国期に、激しい時代の変化の中で、皇后としての役割をお果たしになったのお上を思わずにはいられません。 「御服装も、それまでの五衣や袿袴に、皇室史上初めて西欧の正装が加えられ、宝冠を着け、お靴を召されました。 そのどちらの御服装の時にも、毅然としてお美しいことに胸を打たれます。 外国人との交際も、それまでの皇室に前例のないことでした。 新しい時代のにもたずさわられ、日本初期の留学生、、、始め一人一人の上に、当時の皇后様のお気持ちが寄せられていたと思われます。 皇室におけるとの関係も明治の時代に作られました。 「欧化思想とそれに抗する思想との渦巻く中で、日本の伝統を守りつつ、広く世界に御目を向けられた昭憲皇太后の御時代に、近代の皇后のあり方の基本が定まり、その後、、がそれぞれの時代の要請にこたえ、さらに沢山の新しい役割をお果たしになりました。 どの時代にも皇后様方のお上に、歴代初めての体験がおありになり、近年では、香淳皇后の、皇后のお立場での外国御訪問が、皇室史上例のない画期的なことでございました。 先の時代を歩まれた皇后様方のお上を思いつつ、私にも時の変化に耐える力と、変化の中で判断を誤らぬ力が与えられるよう、いつも祈っています。 」 女性皇族に関するもの [ ]• 2002年(平成14年)10月20日、自身の68歳の誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書での回答 より。 「これからの女性皇族に何を望むかという質問ですが、人は皆個性を持っていることであり、どなたに対しても類型的な皇族像を求めるべきではないと思います。 それぞれの方らしく、御自分の求める女性像を、時と思いをかけて完成していっていただくことが望ましいのではないでしょうか。 そして皇室の長い間のしきたりであり、また、日本人のしきたりでもある御先祖のお祀りを皆して大切にし、これまでどおり、それぞれのなさり方で陛下をお支えになって下されば、私は大層心強く思います。 」 成婚に関するもの [ ]• (昭和30年)- (昭和31年)ごろ、・の小料理店「井上」2階にて、独身時代のと見合い風の対面をしている(同店女将・井上つる江談。 その後、皇太子妃時代の• に嫁ぐ際、お印が白樺に決まると、実家の庭にから取り寄せたその苗木を自ら植えた。 成婚に際してはのが「」を作曲した。 この曲はのちに長女のが民間家庭へする際、からへ出発するを送迎するためにも演奏された。 国民から盛大な歓迎と祝福を受けたが、このことに関し(16年)の誕生日に次のように発表した。 「私は今でも、昭和34年のご成婚の日のお馬車の列で、沿道の人々から受けた温かい祝福を、感謝とともに思い返すことがよくあります。 東宮妃として、あの日、民間から私を受け入れた皇室と、その長い歴史に、傷をつけてはならないという重い責任感とともに、あの同じ日に、私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大勢の方々の期待を無にし、私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもまた、その後の歳月、私の中に、常にあったと思います」。 結婚の儀当日から授けられた守り刀は、(昭和30年)に、刀剣では最初の保持者()に認定された刀工の作。 ・の守り刀も彼の作である。 家庭・育児に関するもの [ ]• 成婚時に「殿下にお料理を作って差し上げたい」と希望し、新造の奥公室に小さなを設置。 のちに幼少期の浩宮徳仁親王、礼宮文仁親王、紀宮清子内親王らの離乳食やもこの厨房で自ら作ったこともある。 皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止。 3人の子をすべて自らの手で育てた。 とりわけ浩宮徳仁親王は誕生に際し、が発給されたことでも知られ、「乳が足りない際には(乳母を立てず)人工栄養で育てるよう」指示がなされた。 なお、のちの礼宮文仁親王、紀宮清子内親王の誕生の際には(母親学級に参加する際の警備上の問題などもあって)、母子手帳の発給を受けることはなかった。 いわゆる「ナルちゃん憲法」に関して、皇后自身は「書き溜めたメモの溜まったものに過ぎない」としている。 祭祀・公務などに関するもの [ ] (平成17年)12月、の一般参賀にて天皇と共に• 天皇の際には、ほぼ常に妻として同行している(行幸啓 )。 そのときの服装は、訪問地に縁のある花をあしらった帽子や、同様の意味合いを持つ色の服を着るなどの配慮をしている。 例えば(平成19年)の訪欧時には、各国の国旗の色をあしらった服や、コサージュを着用した。 の、の、のが行ってきた(皇后御親蚕)を継承している。 においてから飼育され続けてきたの品種「」の飼育中止が検討されたとき、これを残すことを主張して同種を救った。 小石丸は今日では全国で飼育されるに至り、各種美術品の修復にも用いられている。 養蚕によって作られた絹糸で、皇后のドレスを仕立てたこともある。 近年では、眞子内親王・佳子内親王が養蚕を手伝っており、たちの着物に仕立てられたという。 特徴ある活動としては、児童への図書普及への取り組みが挙げられる。 (平成10年)、で開催された「」におけるビデオによる基調講演「子供時代の読書の思い出」 では、の妃・の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来のその胸中を語り世界中に大反響を呼んだ。 またこの講演では、幼少のころに家族から聞かされた童話としての『』を取り上げ、大人になってからもよく思い出される作品であると紹介した。 講演内容は『橋をかける』という題名で、各国にて出版された。 には、で開催されたIBBY50周年記念大会に、名誉総裁として出席し祝辞を述べた。 なお、その時の祝辞は、『より-子どもと本を結ぶ人たちへ』という題名で出版されている。 皇后が単身日本国外に行啓した史上最初の例である。 戦没者慰霊の地に赴き、を詠んでいる。 他の妃・皇孫に対するもの [ ]• 自身の嫁にあたるは同じく・旧以外の出身であり、彼女に対してそれまでの自分の経験を話し、助言をしていると言われている。 彼女の(当時)との婚約が内定した際には、「またひとつ宝物が増えました」との感想を発表している。 の際には、皇太子妃雅子(当時)にの指輪を贈った。 この指輪は自身の結婚の際、姑のから贈られたものであった。 また、の結婚の際には、にの指輪を贈った。 (平成18年)2月、秋篠宮妃紀子の第三子懐妊時には、友人に秋篠宮および同妃が、一人で悩んでいる天皇の胸中を思って懐妊を決断したのだろうという、天皇への思いを語ったとされる。 また、紀子妃がでが必要なことが分かると、それを心配する言葉を寄せた。 無事に自身の4人目の孫にあたるが誕生すると、祖母の皇后は白いベビーシューズを携えて見舞いに訪れた。 このベビーシューズはで大切に保管されていたとみられ、悠仁親王の1歳の誕生日写真においてソファ脇の机に飾られていた。 また、同年の誕生日においては、との面会や彼女の「着袴の儀」を楽しみにしている旨を発表。 なお、この年を境に、コメント・会見の際に「敬宮(読み:としのみや)」と呼ばずに「愛子(読み:あいこ)」と呼んでいる。 その他 [ ] 1987年(昭和62年)、と皇太子妃美智子(当時)• 間の交流を持つのディクソン社からというバラを献呈されており、皇居の庭にも植えられている。 ほかにというバラが皇后冊立後4周年記念に献呈されたが、「プリンセス・ミチコ」の方がフロリバンダの品種として優れており「美智子さまの薔薇」と言えばこちらを指すのが一般的である。 皇太子妃時代、庶民からの羨望の気持ちを込めて「同じ服は二度と着ない」などとも いわれて [ ]いたが、実際には丁寧に管理され、時には仕立て直しなどをして繰り返し着用しているという。 公務の際は、洋装に日本独自のもの(佐賀錦など)をあしらったり、国内では訪問先の・花などを身につけたり、を意識した配色の衣服を着用するなどの気配りを見せている。 そのファッションセンスは、日本のみならず世界的にも高く評価されており、皇太子妃時代の(昭和60年)・(昭和63年)、皇后時代の(平成2年)の三度、国際ベストドレッサー賞を受賞している。 らがデザイナーとして知られる。 (平成4年)に、において開催された秋の(、通称:べにばな国体)の開会式臨席の際、暴漢が発煙筒を投じたところ、とっさに片手を挙げ身を挺して隣にいた天皇をかばうなど 、常に天皇を気遣っている。 音楽に造詣が深く、学生時代からが得意とされる。 訪問の際の音楽会では、即興での『』の伴奏を弾いた。 自宅でじかに演奏に接したのは、あれだけ想いの深い演奏をするは日本にはいない、もしピアニストになっていたら自分には出番がなかっただろう、と最大級の讃辞を送っている。 またピアニスト・の演奏を愛し、(平成8年)に田中が急逝したときには深い悲しみを表している。 このほかも得意としており、ハープを演奏する写真も撮影されている。 2009年(平成21年)の訪問時に訪れたの小児病院では、子どもたちを前に、子育てのとき子どもたちに歌って聞かせた「」(作詞、作曲)を歌唱した。 (昭和33年)、ピアノを演奏する皇后美智子(正田美智子)• (平成11年)、父・の死去に伴い、五丁目(通称「池田山」)の生家正田邸がの対象になった際は、を放棄。 正田邸跡地は小公園「」になっている。 元・宮内庁担当記者のは、皇太子妃時代の記者会見で彼女がクッキーを手作りすることを疑う質問をすると、次の機会で記者らに手作りクッキーを出して笑顔で勧めたり、明仁皇太子の語学に関する話題で不用意な発言をし気まずくなった板垣をかばい、彼のタバコに火をつけながらフォローする言葉をかけてくれて、母校の聖心で「あっ、やばい! 」などと下世話なかけ声をかけながらをするという皇后の人柄を、聡明でユーモアがあると好意的に評した。 板垣は夫妻の訪問時に、明仁皇太子に美智子妃の報道に関する相談を受けたこともある。 発言 [ ] 成婚前・皇太子妃時代(昭和) [ ]• 「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」 - (昭和33年)11月27日、婚約決定記者会見での明仁親王評。 「難しいこともたくさんありましたし、辛いこともあります。 いつになったら慣れるのか見当がつきません。 (中略)時には八方ふさがりのような気持ちになることもあります」 - (昭和35年)4月11日、結婚一周年の記者会見で。 「わたくしも差し上げるのならお点ではなく、感謝状を」 - (昭和59年)4月10日、銀婚記者会見にて。 明仁親王の「点数をつけることはできないが努力賞ということで」をふまえ。 皇后時代(平成) [ ]• 「平成初めての大会にあたり、(昭和22年)以来、42年の長い年月にわたって名誉総裁の責務をお果たしになったに、わたくしどもの深い感謝をお奉げしたいと思います」 - (平成元年)5月31日、平成元年全国赤十字大会にて。 「皇室も時代と共に存在し、各時代、伝統を継承しつつも変化しつつ、今日に至っていると思います。 この変化の尺度を量れるのは、に連なる方であり、配偶者や家族であってはならないと考えています。 伝統がそれぞれの時代に息づいて存在し続けるよう、各時代の天皇が願われ、御心をくだいていらしたのではないでしょうか。 きっと、どの時代にも新しい風があり、またどの時代の新しい風も、それに先立つ時代なしには生まれ得なかったのではないかと感じています」「(皇室観について)私の目指す皇室観というものはありません。 ただ、陛下のお側にあって、全てを善かれと祈り続ける者でありたいと願っています」 - 以上、(平成6年)10月20日、還暦文書回答にて、「皇后美智子が天皇とともに皇室に新風を吹き込んだ」という指摘に対して。 「国民の叡智がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するよう祈り続けていることが、皇室存在の意義、役割を示しているのではないかと考えます」 - (平成7年)10月20日、誕生日の文書回答にて• 「常に国民の関心の対象となっているというよりも、国の大切な折々に、この国に皇室があってよかったと、国民が心から安堵し喜ぶことのできる皇室でありたいと思っています」 - (平成8年)10月20日、誕生日の文書回答にて。 「不思議な波が、私たちの少し前で何回かとまり、左手の子供たちが、心配そうにこちらを見ておりましたので、どうかしてこれをつなげなければと思い、陛下のお許しをいただいて加わりました」 - (平成10年)10月20日、誕生日の文書回答にて、長野パラリンピックでのウェーブ参加に関して。 「どの時代にも皇后様方のお上に、歴代初めての体験がおありになり(中略)先の時代を歩まれた皇后様方のお上を思いつつ、私にも時の変化に耐える力と、変化の中で判断を誤らぬ力が与えられるよう、いつも祈っています。 これからの女性皇族に何を望むかという質問ですが、人は皆個性を持っていることであり、どなたに対しても類型的な皇族像を求めるべきではないと思います」 - (平成14年)10月20日、誕生日の文書回答にて。 「は、私が何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしているときに、まずそばに来てドンマーインと、のどかに言ってくれる子どもでした」 - (平成17年)10月20日、誕生日文書回答にて、数日後に控えた清子内親王の降嫁を前に。 「の公務復帰については、専門医の診断を仰ぎながら、妃自身が一番安心できる時を待って行われることが大切だと思います。 あせることなく、しかし、その日が必ず来ることに希望をもって、東宮妃も、またも、それまでの日々、自分を大切にして過ごしてほしいと祈っています」 - (平成18年)10月20日、誕生日の文書回答にて• 「(かくれみのを用いて)混雑する駅の構内をスイスイと歩く練習をし、その後、学生のころよく通った神田やの古本屋さんに行き、もう一度長い時間をかけて本の立ち読みをしてみたいと思います」 - (平成19年)5月14日、欧州諸国歴訪前の記者会見にて、「身分を隠し好きなところで一日を過ごすとしたら」という問いに対し。 「皇太子妃の健康についての質問ですが(中略)妃は皇太子にとり、また、私ども家族にとり、大切な人であり、『妃の快復を祈り、見守り、支えていきたい』という、私の以前の言葉に変わりはありません」• 「このごろと一緒にいて、もしかしたら愛子と私は物事や事柄のおかしさの感じ方が割合と似ているのかもしれないと思うことがあります。 周囲の人のちょっとした言葉の表現や、話している語の響きなど、『これは面白がっているな』と思ってそっと見ると、あちらも笑いを含んだ目をこちらに向けていて、そのようなとき、とても幸せな気持ちになります。 思い出してみると、眞子や佳子が小さかったころにも、同じようなことが、たびたびありました」 - (平成20年)10月20日、誕生日の文書回答にて。 「このたびも私はやはり感謝状を、何かこれだけでは足りないような気持ちがいたしますが、心を込めて感謝状をお贈り申し上げます」 - (平成21年)4月8日、結婚50周年記者会見にて。 先の25周年記者会見での発言をふまえ• 「東宮もも孫としてのおそばで過ごす機会をたびたびにいただき、また成人となってからは、陛下をお助けするなかでそのお考えに触れ、日々のお過ごしようをつぶさに拝見し、それぞれの立場への自覚を深めてきたことと思います。 これからも二人がお互いを尊重しつつ、補い合って道を歩み、家族も心を合わせてそれを支えていってくれることを信じ、皇室の将来を、これからの世代の人々の手にゆだねたいと思います」 - 2009年(平成21年)11月11日、天皇即位20年に際する記者会見にて• 「これがですか」 - (平成25年)、・でのLOVE展にて• 「80年前、私に生を与えてくれた両親はすでに世を去り、私は母の生きた齢(とし)を越えました。 嫁ぐ朝の母の無言の抱擁の思い出とともに、同じ朝『陛下と殿下の御心に添って生きるように』と諭してくれた父の言葉は、私にとり常に励ましであり指針でした。 これからもそうあり続けることと思います」 - (平成26年)、皇后誕生日に際し、80年のを迎えて 譲位(上皇明仁の退位)に関して [ ]• 「があり、現在のお気持ちのにじむ内容のお話が伝えられました。 私は以前より、皇室の重大な決断が行われる場合、これに関わられるのはに連なる方々であり、その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので、やともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も、謹んでこれを承りました。 ただ、新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。 それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。 私の感じ過ぎであったかもしれません。 」- (平成28年)、82歳の皇后誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書回答 より。 「の御譲位については、多くの人々の議論を経て、この6月9日、国会でが成立しました。 長い年月、ひたすら象徴のあるべき姿を求めてここまで歩まれた陛下が、御高齢となられた今、しばらくの安息の日々をお持ちになれるということに計りしれぬ大きな安らぎを覚え、これを可能にして下さった多くの方々に深く感謝しております。 」 - (平成29年)、83歳の皇后誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書回答 より。 「約30年にわたる、陛下の『天皇』としてのお仕事への献身も、あと半年程で一つの区切りの時を迎えます。 これまで『全身』と『全霊』双方をもって務めに当たっていらっしゃいましたが、加齢と共に徐々に『全身』をもって、という部分が果たせなくなることをお感じになり、政府と国民にそのお気持ちをお伝えになりました。 5月からはが、陛下のこれまでと変わらず、心を込めてお役を果たしていくことを確信しています。 「陛下は御譲位と共に、これまでなさって来た全ての公務から御身を引かれますが、以後もきっと、それまでと変わらず、国と人々のために祈り続けていらっしゃるのではないでしょうか。 私も陛下のおそばで、これまで通り国と人々の上によき事を祈りつつ、これからとが築いてゆくの安泰を祈り続けていきたいと思います。 「24歳の時、想像すら出来なかったこの道に招かれ、大きな不安の中で、ただ陛下の御自身のお立場に対するゆるぎない御覚悟に深く心を打たれ、おそばに上がりました。 そして振り返りますとあの御成婚の日以来今日まで、どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの、というその時に伺ったお言葉のままに、陛下はこの60年に近い年月を過ごしていらっしゃいました。 義務を一つ一つ果たしつつ、次第に国と国民への信頼と敬愛を深めていかれる御様子をお近くで感じとると共に、(皇太子時代は将来の『象徴』)のお立場をいかに生きるかを模索し続ける御姿を見上げつつ過ごした日々を、今深い感慨と共に思い起こしています。 「皇太子妃、皇后という立場を生きることは、私にとり決して易しいことではありませんでした。 与えられた義務を果たしつつ、その都度新たに気付かされたことを心にとどめていく - そうした日々を重ねて、60年という歳月が流れたように思います。 学生時代よく学長が『経験するだけでは足りない。 経験したことに思いをめぐらすように』と云われたことを、幾度となく自分に云い聞かせてまいりました。 その間、との御姿からは計り知れぬお教えを賜り、陛下には時に厳しく、しかし限りなく優しく寛容にお導き頂きました。 3人の子ども達は、誰も本当に可愛く、育児は眠さとの戦いでしたが、大きな喜びでした。 これまで私の成長を助けて下さった全ての方々に深く感謝しております。 「陛下の御譲位後は、陛下の御健康をお見守りしつつ、御一緒に穏やかな日々を過ごしていかれればと願っています。 そうした中で、これまでと同じく日本や世界の出来事に目を向け、心を寄せ続けていければと思っています。 例えば、陛下や私の若い日と重なって始まるなどは、平成の時代の終焉と共に急に私どもの脳裏から離れてしまうというものではありません。 これからも家族の方たちの気持ちに陰ながら寄り添っていきたいと思います。 「先々には、仙洞御所となる今の東宮御所に移ることになりますが、かつて30年程住まったあちらの御所には、入り陽の見える窓を持つ一室があり、若い頃、よくその窓から夕焼けを見ていました。 3人の子ども達も皆この御所で育ち、戻りましたらどんなに懐かしく当時を思い起こす事と思います。 「赤坂に移る前に、ひとまず高輪の旧邸であったところに移居いたします。 昨年、何年ぶりかに宮邸を見に参りましたが、両殿下の薨去よりかなりの年月が経ちますのに、お住居の隅々まできれいで、管理を任されていた旧奉仕者が、夫妻2人して懸命にお守りして来たことを知り、深く心を打たれました。 出来るだけ手を入れず、宮邸であった当時の姿を保ったままで住みたいと、陛下とお話しし合っております。 「公務を離れたら何かすることを考えているかとこの頃よく尋ねられるのですが、これまでにいつか読みたいと思って求めたまま、手つかずになっていた本を、これからは1冊ずつ時間をかけ読めるのではないかと楽しみにしています。 読み出すとつい夢中になるため、これまで出来るだけ遠ざけていた探偵小説も、もう安心して手許に置けます。 ジーヴス も2、3冊待機しています。 「また赤坂の広い庭のどこかによい土地を見つけ、を作ってみたいと思っています。 こちらの御所に移居してすぐ、陛下の御田の近くに1畳にも満たない広さの畠があり、そこにマクワウリが幾つかなっているのを見、大層懐かしく思いました。 頂いてもよろしいか陛下に伺うと、大変に真面目なお顔で、これはいけない、神様に差し上げる物だからと仰せで、6月の大祓の日に用いられることを教えて下さいました。 大変な瓜田に踏み入るところでした。 それ以来、いつかあの懐かしいマクワウリを自分でも作ってみたいと思っていました。 「皇太子、天皇としての長いお務めを全うされ、やがて85歳におなりの陛下が、これまでのお疲れをいやされるためにも、これからの日々を赤坂の恵まれた自然の中でお過ごしになれることに、心の安らぎを覚えています。 「しばらく離れていた懐かしい御用地が、今どのようになっているか。 日本タンポポはどのくらい残っているか、その増減がいつも気になっている日本蜜蜂は無事に生息し続けているか等を見廻り、陛下が関心をお持ちの狸の好きなの木なども御一緒に植えながら、残された日々を、静かに心豊かに過ごしていけるよう願っています。 」 - (平成30年)、84歳の皇后として最後の誕生日に際しての宮内記者会の質問に対する文書回答 より。 出典・注釈 [ ] 注釈 [ ] []• ただし、それ以前にも民間出身の皇后は多数存在する。 皇族以外で初めて立后したのは、奈良時代の聖武天皇の后のである。 光明皇后は父親が、母親が県犬養橘三千代の、いずれも民間人の子である。 それ以降、公家から皇后・中宮を出す慣例ができた。 しかし、民間人の前例があるとはいえども、「庶民」から立后したのは上皇后美智子が初めてだと思われる。 非かつ非、旧以下の意。 ただし、実家の正田家はの孫の重臣の子孫と伝わっており、まで遡ると家格は決して低くない。 通常は避暑地として使用された秩父宮家の別邸。 午後2時半過ぎ、祝田橋付近で発生。 犯人は長野県長谷村(現)出身で卒業の19歳の浪人生。 走って馬車に接近、一発投石した。 石は外れたもののさらに馬車の幌部分に飛び乗り、護衛官に押さえつけられ引きずりおろされて警視庁に逮捕された。 この模様はそのままテレビで生中継された。 犯人はの東京に50日間拘留され、精神鑑定の結果、精神分裂症と診断され、であったこともあり保護観察処分となり釈放された。 ・の時代より改革が行われ、続く・も制度廃止(それまでの未婚で住み込みとりやめ、既婚女性に自宅からの通勤制で従事させるなど)・乳母は置いたがほぼで育てる・内親王を学齢まで手元で育てる等を行った。 皇太子明仁親王夫妻の改革もこれに続くものである(1977年(昭和52年):昭和天皇・香淳皇后への那須御用邸での記者会見より)。 帰国後、旧制に入学するも(昭和4年)に英三郎に嫁す(仲人は・)。 生田隼人は当主の代々名。 このビデオ講演は、(現)で、国民一般にも放送され、大きな反響を呼んだ。 では、皇后の講演全文を小冊子にして、社頭にて一般に頒布(はんぷ)している。 この時の様子はやも証言している [ ]。 出典 [ ] []• 第四条第二項「上皇后に関しては、に定める事項については、の例による。 歴代皇后125代総覧423頁• 2016年4月11日閲覧。 歴代皇后125代総覧424頁8行目• 歴代皇后125代総覧424頁5行目• 歴代皇后125代総覧424頁11行目• 歴代皇后125代総覧424頁12行目• 歴代皇后125代総覧424頁13行目• 歴代皇后125代総覧424頁14行目• 歴代皇后125代総覧424頁15行目• 歴代皇后125代総覧425頁1行目• 歴代皇后125代総覧425頁5行目• , p. 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"In the picture are left to right , front row, Mrs. Fumi Shoda, her mother; Michiko; Telichiro, her grandfather; Emiko, her younger sister; and Hidesaburo Shoda, her father. Standing in back are left , Osamu, a younger brother; and Iwao, an elder brother. The engagement of the Crown Prince to a commoner breaks more than 2,000 years of Japanese tradition. November 27, 1958. University of Osaka. 2009年3月2日時点の [ ]よりアーカイブ。 『天皇陛下と皇后美智子さま 至高の愛の物語』(、)• blogspot. com. 2016年10月21日閲覧。 Sohanews2. vcmedia. 2016年10月21日閲覧。 S-media-cache-ak0. pinimg. com. 2016年10月21日閲覧。 Noticiasnippon. 2016年10月21日閲覧。 Kunaicho. 2016年10月21日閲覧。 1298. 2012年11月1日閲覧。 Getty Images 1996年10月22日. 2016年10月21日閲覧。 Blog-imgs-62. fc2. com. 2016年10月21日閲覧。 Blog-imgs-54. fc2. com. 2016年10月21日閲覧。 Enjoy. eastday. com. 2016年10月21日閲覧。 2016年10月3日時点のよりアーカイブ。 2016年10月2日閲覧。 Theroyalforums. com. 2016年10月21日閲覧。 emb-japan. 2016年10月21日閲覧。 Omsa. org. 2016年10月21日閲覧。 alamy. com. 2016年10月21日閲覧。 Static3. volkskrant. 2016年10月21日閲覧。 alamy. com. 2016年10月21日閲覧。 Theroyalforums. com. 2016年10月21日閲覧。 GOVPH. 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吉瀬美智子の学歴|出身高校中学校や大学の偏差値と高校時代や経歴

河合美智子 学歴

NHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」(1996~97年)で、通天閣を頭にのせた演歌歌手「オーロラ輝子」役を演じた女優河合美智子さん(51)が昨秋から兵庫県豊岡市に移住し、活動を続けている。 3年前に脳出血で倒れ、右半身にまひが残ったが「病気を受け入れると世界が広がった」と話し、自然豊かな土地でエネルギーを受けながら舞台出演などの活動を続けている。 (石川 翠) 河合さんは2016年8月、東京都内の稽古場で、立ち上がろうとすると右足に力が入らず、倒れ込んだ。 「しびれたのかな」と思っていると、異変に気付いたプロデューサーが「右足首の向きが変だ。 すぐに救急車を呼んだほうがいい」と声を上げた。 駆け付けた救急隊員との会話が途中から「あー」「うー」と言葉にならなくなり、右手から肩へと固まっていく。 何が起こったのか分からないまま、集中治療室(ICU)に運び込まれた。 血圧を下げる薬の投与で手術はせずにすんだが、5カ月間入院した。 入院中、ショックや悲しいという感情はなく、不思議な感覚が芽生えた。 寝返りを打とうと動いて服がはだけた時、恥ずかしいという気持ちが一瞬よぎったが「宇宙からみたらちっぽけなこと。 生きてるだけで十分」と穏やかな気持ちになったという。 夫の俳優峯村純一さん(51)の支えも大きかった。 毎晩面会に来て、その日あったささいなことを面白おかしく話して笑わせてくれた。 峯村さんの好きな喜劇王チャプリンの名言は「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇になる」。 河合さんは「カメラの位置を変えれば物事は全然違って見える。 いい方向に誘導してくれた」と感謝する。 リハビリを続け、ある程度は手足が動くようになったが、右足は少し引きずるような歩き方になり、日によっては右手で物がつかめない。 素早い動きも難しく、女優としての道は大きく変わることを自覚した。 病気のことは退院まで公表していなかった。 入院中にテレビの歌番組への出演依頼があり、生中継で「オーロラ輝子」として千人の観客の前で歌うことに。 肺活量を戻すため、毎日外出届を出してカラオケボックスで練習した。 本番中に右足首が曲がって少しよろけたが「頭の上の通天閣がよっぽど重かったのだろうと思われたみたい」と笑う。 倒れる前年、イベント出演で出石永楽館(同市出石町柳)を訪れたことがあり、歴史ある建物の中を澄んだ空気が抜けていく感じに心引かれたという。 「出会う人たちはほどよい距離感で親切にしてくれ、居心地がとてもいい。 仕事柄いろんな土地を訪れたけど、初めて住みたいと思った」 劇作家平田オリザさんが劇団ごと移住し、専門職大学の開校が予定されるなど、同市が「演劇のまち」を掲げていることも知り、移住を決断。 症状が落ち着いた18年10月に引っ越した。 舞台公演中は大阪や東京に数週間滞在するが「帰ってくると、とても落ち着く。 緑色にはこんなに種類があるのかと何度見ても感動する」と話す。 同じ経験をした人への講演の機会も増えた。 「他人や過去の自分と比べると悲しくなってしまうので、『乗り越える』ではなく『受け入れる』ことを伝えている」という。 自身も病気を通して世界が広がったという。 テレビや映画は撮影が短時間勝負なので難しいが、舞台は準備期間があり、工夫次第。 「動きが制限される分、観客からどのように見えるかを意識するようになり、演出家のような視点が強くなった。 もともと演じるより見るほうが好きだったので、今後は演出の仕事もしてみたい」と目標を語った。 28日にはJR江原駅(同市日高町)周辺で開かれる「日高夏まつり」のステージで歌を披露する予定。 【かわい・みちこ】1968年生まれ、神奈川県出身。 14歳の時、映画「ションベン・ライダー」(相米慎二監督)のヒロイン役でデビュー。 「ふたりっ子」で歌った「夫婦(めおと)みち」は大ヒットし、NHK紅白歌合戦にも出場した。 舞台や映画、ドラマなどで演技派女優として活躍。 9月中旬から全国公開される映画「みとりし」(白羽弥仁監督)にも峯村さんとともに出演している。

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