ロケット マン エルトン ジョン。 映画『ロケットマン』あらすじネタバレと感想。エルトン・ジョンのただの伝記ではなくミュージカル映画だ!

映画『ロケットマン』が伝えるエルトン・ジョンについての10の事実

ロケット マン エルトン ジョン

エルトン・ジョンの名曲ランキング(英ガーディアン紙選出) エルトン・ジョン(Elton John)の名曲ランキングです。 イギリスの高級紙ガーディアンが2018年に選出しました。 Youtube(ユーチューブ)の動画付きで紹介します。 1位は代表曲「タイニー・ダンサー」、 2位は自伝映画のタイトルにもなった「ロケット・マン」、 3位は王道ロック「土曜の夜は僕の生きがい(サタデー・ナイツ・オールライト)」、 4位は日本でも超有名なバラード「ユア・ソング」です。 エルトンは世界史上4番目に多くのレコードを売ったアーティスト(1位はビートルズ、2位はプレスリー、3位はマイケル・ジャクソン)。 歴代の名曲やヒット曲の数は膨大です。 本ランキングは全盛期の1970年代を中心に、80年代、第2黄金期の90年代、そして2000年代の優れた曲がバランスよく入っています。 映画ロケットマンで使用された曲、ディズニー映画「ライオン・キング」の主題歌、ダイアナ妃の追悼歌などもランクインしています。 以下の一覧でお楽しみ下さい。 エルトンの静かなピアノの演奏と歌唱から始まり、 弦楽器が徐々に絡んでいく。 終盤の分厚いバックコーラスとともに静かな躍動感へと導く。 車でドライブ中に流すのに最高の曲とも言われている。 エルトンが24歳のときに発表された。 前年(1971年)に「ユア・ソング」が初めてのヒット作となり、 勢いに乗る中でリリースされた4枚目のアルバム「マッドマン」の冒頭を飾っている。 エルトンの他の大半の曲と同様に、 作曲をエルトン、作詞を相棒のバーニー・トーピンが手掛けた。 米国カリフォルニアに滞在中に書かれたという。 エルトンの才能を最初に見いだしたアメリカへの思いを、若き2人のイギリス人が綴った。 バーニーの歴代の詩の中でも最高傑作の一つと評価されている。 曲名の「Tiny Dancer(とても小さなダンサー)」とは、 バーニーがロサンゼルスで出会った女性マキシンを指している。 1970年秋にエルトンの初の米国公演に同行したバーニーは、 当時18歳だったマキシンと出会い、 恋に堕ちる。 マキシンはそのままエルトンの米ツアーに同行し、 メンバーたちの裁縫師として活動した。 (2人は翌年結婚し、後に離婚)。 「Blue jean baby, L. lady、 Seamstress for the band(青いジーパンのロサンゼルスの女の子、バンドの裁縫師)」で始まる歌詞は、 1960年代から70年代にかけてのカリフォルニアの自由な風土を映し出した詩として親しまれている。 発売から45年後の2017年に制作された公式動画も、カリフォルニアの人たちの日常が描写された。 その長いキャリアの中で100曲近いヒット作を生んだエルトンだが、 この曲は発売当初はヒットしなかった(米国で最高41位)。 ところが、2000年のハリウッド映画「あの頃ペニー・レインと」で使用され、 一躍有名となる。 映画のシーンでは、ロックバンドのツアーバスでこの曲が流れると、 それまで喧嘩していたメンバーたちの雰囲気が変わるという内容。 音楽の持つ力を表現した名場面として絶賛された。 2011年にようやく米国で100万枚売れるミリオンセラーとなった。 2 「ロケット・マン」 (Rocket Man) 1972年3月 エルトンらしいソフトなロックソング。 家族愛や日常生活の悲哀を、切ない歌声とピアノで見事に表現しており、 歴史を超えて共感される曲になっている。 曲名の「ロケットマン」とは、宇宙飛行士のことを指している。 未来を舞台に、 これから仕事で宇宙に出かけようとする飛行士が、 しばらく家族と会えなくなることを嘆いている歌。 まるで電車で長期出張に行くときの現代サラリーマンのようなボヤキに満ちており、 宇宙旅行から連想されがちな夢やSF的な世界はない。 それがかえって聴く側に親近感を与える。 母国イギリスでなかなかヒットシングルに恵まれなかった初期のエルトンにとって、 初めて英チャート2位の成功を果たした。 その後も長期間にわたってじわじわと売れ続けた。 発売から47年の歳月を経て、自伝映画のタイトルとして使用されることとなる。 5枚目のアルバム「ホンキー・シャトー」の先行シングルとして発売された。 ホンキー・シャトーは初の全米1位に輝き、 エルトンの人気を決定的なものにした。 雑誌「レコード・コレクターズ」のでは、「快作」「過去のアルバムになかった開放感が全編に漂っている」(音楽家・和久井光司)と評されている。 3 「土曜の夜は僕の生きがい(サタデー・ナイツ・オールライト)」 (Saturday Night's Alright for Fighting) 1973年7月 エルトン・ジョンのシングルの中で最もハードなロックソング。 エネルギッシュで、ライブ感にあふれている。 若者の泥酔とパーティー、ケンカがテーマ。 エルトンの最高傑作と評価されている7枚目のアルバム「黄昏(たそがれ)のレンガ路」(Goodbye Yellow Brick Road)からの先行シングルとしてリリースされた。 この曲により「メロディアスなシンガー・ソング・ライター」というデビュー以来のエルトンのイメージの幅が広がった。 パワフルなギターのコードが強烈な印象を与える。 その音にかぶせて「サタデー」「サタデー」という言葉が何度も繰り返される。 曲名の「Saturday Night's Alright for Fighting」は「土曜の夜は喧嘩にもってこい」という意味。 「週休1日」が一般的だった時代において、「サタデーナイト」が与えてくれる開放感を存分に伝えてくれる歌になっている。 作詞はバーニー・トーピン。 10代半ばのころ、週末になるとパブやダンスホールで酔っ払い、 若者同士で喧嘩が絶えなかったという思い出を基にしているという。 「俺は労働者階級(ワーキング・クラス)の産物」という歌詞で、 エルトンとバーニーの位置づけが強調されている。 エルトンのコンサートの定番となった。 最後に盛り上げる曲として使われることが多かった。 英バンド、クイーンがコンサートでよく演奏していた曲でもある。 1980年代のツアーで終盤に「隠し玉」として披露されることがあり、 1982年の神戸公演や1985年の大阪公演でも演奏された。 ケビン・コスナー主演の青春映画「ファンダンゴ」(1985年)のテーマ曲として使用された。 この曲を収録した「黄昏のレンガ路」(Goodbye Yellow Brick Road)は、 2枚組として発売された。 多様な佳作がそろっており、 初期エルトンの集大成とされる。 米ビルボードの週間チャートはもちろん、年間チャートでも1位となった。 ベスト盤を除けばエルトンにとって最も売れたアルバム。 ローリングストーン誌が選んだで91位に選ばれている。 膨大なレパートリーの中で最も有名な曲でもある。 究極のラブソングとして、世界中で愛されている。 相手に愛情を伝えるためにこの曲を歌う人も多い。 エルトンの優しくかげりのある歌声が秀逸。 落ち着いたメロディがクラシック調のピアノで奏でられ、 チェロなどの管楽器の静かな音と重なる。 純愛を繊細なタッチで表現したバーニー・トーピンの歌詞も、涙を誘う。 まさに不朽の名作。 まだ知名度が低く、売れていなかった時代に制作された。 2枚目のアルバム『Elton John(邦題・僕の歌は君の歌)』の冒頭を飾っている。 シングル「Take Me to the Pilot(パイロットにつれていって)」のB面としてリリースされたが、 アメリカのDJたちがB面の方を気に入ったことから、すぐにA面に差し替えられた。 全米ビルボードのチャートで8位まで上昇。 米国での人気につられる形で、母国イギリスでもトップ10入りを果たした。 この曲のヒットを受けて、 アルバムも全米4位のヒットとなった。 天才的なシンガー・ソング・ライターの登場にアメリカの音楽業界は衝撃を受け、 グラミー賞の最優秀アルバム賞と新人賞にもノミネートされた。 5 「ベニーとジェッツ(奴らの演奏は最高)」 (Bennie And The Jets) 1974年5月 エルトンが初めてヒットさせたソウル調の曲。 ファンキーなロック。 当初、エルトン本人はシングルとして出すことに反対したが、 発売したところ、 米国の黒人層向けのラジオで好評を博した。 これまでと違うファンを取り込み、 全米1位に。 1974年の年間チャートでも9位の大成功を収めた。 曲名の「ベニー&ジェッツ」とは、 作詞のバーニー・トーピンが考えた架空のバンド名。 商業主義が目立つようになってきた1970年代前半の音楽業界を皮肉った詩だという。 6 「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」 (Goodbye Yellow Brick Road) 1973年10月 デリケートで美しいバラード。 1970年代に流行した「ソフト・ロック」の一種として位置づけられている。 エルトンの最高傑作といわれるアルバム『黄昏のレンガ路』(Goodbye Yellow Brick Road)のタイトルソング。 アルバムから2枚目のシングルとして発売された。 1枚目のシングル「土曜の夜は僕の生きがい(サタデー・ナイツ・オールライト)」を上回るヒットとなった。 1939年のアメリカ映画「オズの魔法使」から着想を得たという。 映画のなかで、主人公の少女ドロシーは「黄色のレンガ道(Yellow Brick Road)」をたどって、オズの魔法使いを探す旅に出る。 実は、作詞のバーニー・トーピンが生まれて初めて見た映画が、このオズの魔法使だったという。 エルトンと共に超売れっ子となったバーニーだが、 派手なセレブ生活には違和感を感じていたとされる。 この曲の詩には、子供のころの静かな田舎暮らしへの郷愁をにじませたとも言われている。 7 「モナ・リザ・アンド・マッド・ハッター」 (Mona Lisas and Mad Hatters) 1972年1月 エルトン・ジョン自身が「最も好きな曲の一つ」と公言している歌。 シングルカットはされなかったが、ファンの間でも「裏名曲」として愛され続けてきた。 エルトンらしい黄昏のメロディを、最小限の楽器演奏とボーカルでしっとりと聞かせる。 作詞担当のバーニー・トーピンが、初めてニューヨークを訪れたとき、 宿泊先のホテルで窓の外から銃声を聞いた体験が元になっている。 ニューヨークのヒスパニック系住民の地区「スパニッシュ・ハーレム」が、 ソウル歌手ベン・E・キングの名曲「」で描かれたような希望と美談ばかりの街ではない、 ということを悲しそうに綴っている。 題名の「モナ・リザ」には「美しいけどすました女性」「近寄りがたい女性」という意味がある。 一方、「マッド・ハッター」は「ドラッグの売人」という意味がある。 ニューヨークの「911同時テロ」の追悼ライブでも歌われた。 8 「悲しみのバラード」 (Sorry Seems To Be the Hardest Word) 1976年11月 恋にやぶれた男性がひたすら悲しむ失恋ソング。 「どうしたら愛してもらえるの?」という問いかけから始まり、 「悲しいよ」「もうやり直せないのかなあ」などと率直な言葉で嘆く。 曲のタイトルは「『ごめんなさい』という言葉は、世の中で一番辛いんだね」という意味。 このフレーズで曲が締めくくられる。 他の曲と同様、作曲はエルトン・ジョン、作詞はバーニー・トーピン。 この黄金コンビは通常、バーニーが詩を書いた紙をエルトンに渡し、 エルトンがピアノで曲をつくるというのがパターンだった。 しかし、この曲についてはロサンゼルスのマンションに2人でいるとき、 エルトンが先にメロディとサビの言葉を思いつき、 それを気に入ったバーニーが完成させたという。 11枚目のアルバム「蒼い肖像(Blue Moves)」に収録された。 このアルバムは自ら立ち上げたレコード会社「ロケット・レコード」からの第一弾作品で、2枚組。 ツアー活動に疲れ果てたエルトンが、自己を見つめ直しながら制作したとされる。 全体的にトーンが暗い。 本曲が最初のシングルとしてリリースされてヒット。 アメリカの1977年の年間チャートで95位。 ミリオンセラーを達成した。 2002年に英国のボーイバンド「ブルー」が、エルトンを迎えてカバーし、大ヒット。 イギリスで1位になった。 ジョー・コッカーやレイ・チャールズもカバーした。 9 「ソング・フォー・ガイ」 (Song for Guy) 1978年11月 ボーカルがほとんど入らず、楽器だけで演奏されるインストゥルメンタルの曲。 エルトンのピアノの独奏で始まり、ドラムマシーンなどが加わる。 終盤にエルトンが「Life Isn't everything(命がすべてではない)」と静かに語る。 歴代の作品の中でもとりわけ傷心的なメロディの曲として受け止められている。 作曲をしたエルトンによれば、曲のテーマは「死」だという。 ある日曜日、自分自身が死んでいく姿を宇宙から見下ろしている場面が目に浮かんだ。 そして、死という概念にとりつかれながらこの曲を書いた。 翌日、自分たちのもとで働いていた17歳のメッセンジャーボーイが交通事故で前の日に亡くなったことを知った。 この曲はその少年に捧げられている。 アルバム『シングル・マン』から2枚目のシングルとして発売され、 イギリスでヒットした。 しかし、 アメリカでは、インストゥルメンタルであることもあり、 レコード会社MCAが売り込みをしなかったため、 チャートに入らなかった。 エルトンはこのときのMCAの対応が気に入らず、 後に契約を解除する原因の一つになったという。 アルバム『シングル・マン』は、 デビュー当初から一貫して共作者だった作詞家バーニー・トーピンと袂を分かち、 別の作詞家を迎えて制作された。 10 「エンプティ・ガーデン」 (Empty Garden Hey Hey Johnny ) 1982年3月 ジョン・レノンに捧げた歌。 レノンが射殺された1年半後に、曲をエルトン・ジョンが、詩をバーニー・トーピンが書いた。 レノンがいなくなった寂しさを歌う。 曲名のEmpty Garden(だれもいない庭)は、 レノンが住んでいたニューヨークのアパート前に積まれた多数の献花を指している。 また、締めのセリフ「Can't you come out to play? 」はビートルズの曲「ディア・プルーデンス」の歌詞から来ている。 エルトンとレノンは友人だった。 1974年には、レノンがビートルズ時代に作曲した「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」をエルトンがカバー。 レノンはコーラスやギターでレコーディングに参加した。 全米1位の大ヒットとなった。 一方、レノンの1974年の曲「真夜中を突っ走れ(Whatever Gets You thru the Night)」に、 エルトンはピアノとコーラスで参加。 この曲は、レノンのソロとして初めての全米1位に輝いた。 そのお礼にレノンは、エルトンのライブにゲスト出演する。 1974年11月の感謝祭の日に、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで開かれたコンサートで、 「ルーシー・イン・ザ・スカイ~」など3曲を共演した。 レノンはそのころからライブ公演を控えるようになっており、 テレビ出演を除くと、これが生涯において最後の舞台となった。 また、エルトンは、レノンと妻オノ・ヨーコの間に1975年に生まれた息子ショーンの名付け親(godfather)にもなっている。 エルトンはこの曲を歌うと心が痛むため、コンサートではめったに演奏しなかったが、かつて共演したマジソン・スクエア・ガーデンのライブなど、特別な機会で歌っている。 20世紀最大の女優の一人、マリリン・モンローにささげられた曲。 短い生涯をかけぬけたモンロー(本名・ノーマ・ジーン・ベイカー)への献歌として書かれた。 悲哀に満ちたメロディが印象的。 1973年の傑作アルバム『黄昏のレンガ路』に収められた。 「あなたのろうそくは燃え尽きて、伝説だけが残された」と唄う。 歌詞を書いたバーニー・トーピンは当時、この歌について「モンローだけではなく、メディアがスターを虐待、酷使することについて歌ったものだ。 ちょっと言葉を入れ替えれば、ジェームス・ディーンにも当てはまる」と語っていた。 そして、24年後の1997年、交通事故で亡くなったダイアナ英元皇太子の国民葬の前日、エルトンから依頼されたトービンは「さようなら、英国のバラよ、その足跡は英国の緑の大地に永遠に刻まれるでしょう」と全面的に書き換えた。 エルトンは国民葬で歌い上げ、全世界を涙でつつんだ。 この曲をビートルズの親分だったジョージ・マーティンがプロデュースし、「キャンドル・イン・ザ・ウインド ~ダイアナ元英皇太子妃に捧ぐ」として発売されると、 各国で記録的な大ヒットとなる。 日本でも、洋楽では超異例となるオリコン初登場1位に輝いた。 最終的には3300枚という記録的なセールスとなり、になった。 (1位は「ホワイト・クリスマス」)。 売り上げは、すべて「ダイアナ英元皇太子妃記念基金」に寄付された。 CD化にあたって、エルトンは「このうえなく悲しい、考えられないような死です。 世界は、一人の心ある人道主義者を失い、私は一人の特別の友だちを失いました。 このシングルを私からの個人的なささげものとしたい」とのコメントを発表している。 エルトンとダイアナは、エリザベス女王の二男、アンドリュー王子の21歳の誕生パーティーで出会って以来の友人。 エルトンは当時まだチャールズ皇太子の婚約者だったダイアナさんの印象を基に、1982年に「君はプリンセス」という曲を録音してささげていた。 また、ダイアナは亡くなる直前の1997年8月下旬、南仏リビエラにあるエルトンの別荘を訪れた。 このときエルトンは新作『ビッグ・ピクチャー』の試聴用カセットテープを手渡したという。 このアルバムに収録された「」は、 「キャンドル・イン・ザ・ウインド ~ダイアナ元英皇太子妃に捧ぐ」のカップリング曲(両A面)となった。 12 「恋にご用心」 (Are You Ready for Love(Remix)) 2003年8月 ディスコ調のソフトなロック。 ディスコ全盛期の1979年にリリースされた。 それを2003年、イギリスの著名DJアシュリー・ビードルがリミックスして再発売。 全英シングルチャートで1位に輝いた。 アメリカのダンス系のチャートでも1位。 13 「フィラデルフィア・フリーダム」 (Philadelphia Freedom) 1975年2月 エルトンにとって4曲目の全米1位となった。 年間チャートでも3位の巨大ヒット。 アメリカがフィラデルフィアで独立宣言をしてから200周年を控えた時期に発表され、 愛国心をもり立てた。 フィラデルフィア・サウンドも取り入れられている。 曲名の「フィラデルフィア・フリーダム」とは、当時のアメリカのプロのテニスチームの名前。 このチームを率いた国民的な女性テニス選手ビリー・ジーン・キング(通称・キング夫人)に捧げた曲である。 エルトンはキング夫人の友人であり、スポーツ界の性差別と闘うキング夫人をこよなく尊敬していたことから、この曲をつくることにしたという。 エルトンと作詞家バーニー・トーピンのコンビが唯一、 アルバムでなくシングルのためだけに書いた曲とされる。 後に発売されたベストアルバムに収録された。 14 「サクリファイス」 (Sacrifice) 1989年10月 結婚の破局について唄ったバラード。 別れはつらいが、それは決して「犠牲(サクリファイス)」ではない。 別々の道を生きていくことだ、と言い聞かせている。 エルトンが単独で歌った曲としては、母国イギリスで初のシングル1位となった。 (ただ、デュエット曲「恋のデュエット」では1位を獲得していた)。 米国などでは何度も1位に輝いていたエルトンだったが、 母国ではデビューから28年を要したことになる。 15 「僕を救ったプリマドンナ」 (Someone Saved My Life Tonight) 1975年10月 エルトンの自殺未遂について歌った曲。 デビュー前の1968年、エルトンはリンダという女性と婚約し、同棲していた。 しかし、リンダを心から愛することができない自分に気づき、深く悩んでいた。 ある日、エルトンはガスコンロに火をつけたまま床の上で寝るという自殺行為を試みるが、 作詞家のバーニー・トービンが見つけ、救出する。 トービンはこのころ既にエルトンと曲作りでチームを組んでおり、エルトンのアパートに居候していた。 16 「人生とは腐った桃のよう」 (Rotten Peaches) 1971年11月 1970年代の前半に絶えず良好な曲を生みだし続けたエルトンとバーニー・トーピン。 あまりにも曲が多いため、 中には世間に見過ごされてしまった名曲もあるとされる。 その一つがこの曲。 シングルカットもされなかった。 ある囚人の神へ告白や古里への思いが綴られている。 17 「リーヴォンの生涯」 (Levon) 1971年11月 18 「クロコダイル・ロック」 (Crocodile Rock) 1972年10月 とにかく楽しく軽快なロック・ポップ。 歌詞では、主人公の男性が1950年代の初期のロックンロールや恋人のスージーについて想起する。 古き良き時代への哀愁が見事に描かれている。 印象的な高音のバックボーカルも、エルトンが自ら裏声で歌っている。 エルトンはこの曲で、初の全米シングルチャート1位を獲得した。 伝記映画「ロケットマン」では、コンサートで演奏するシーンに使用され、エルトンがピアノを弾きながら宙に舞う。 19 「あばずれさんのお帰り」 (The Bitch Is Back) 1974年9月 エルトンの「ハードロック」の曲としては最高傑作と評価されている。 絶頂期の勢いを感じさせるサウンド。 グラム・ロック調。 エルトンの派手なセレブ生活を自嘲した内容になっている。 ある日、バーニー・トーピンの最初の妻マキシーン(代表曲「タイニー・ダンサー」のモデルになった人)が、 エルトンが不機嫌になったときに、 「ビッチ(メス豚)が戻ってきたよ」とつぶやいた。 バーニーはこれに着想を得て詩を執筆。 エルトンが曲をつけた。 エルトンは「これは私のテーマソングみたいなものだ」と言ったという。 「ビッチ(娼婦)」という言葉が使われていることから、 アメリカの一部のラジオ局で放送禁止となった。 自伝のミュージカル映画「ロケットマン」では堂々の1曲目に使われている。 子供のころのエルトンがこの曲で走り回る。 ここでは、口うるさい母親が「ビッチ的」だと示唆されている。 ビートルズ的なサウンドを、モダンに聴かせる。 エルトンの歌声も渋みを増している。 自伝映画「ロケットマン」では2曲目に採用された。 子供時代のエルトンと両親、そして祖母が歌う。 両親からのより深い愛を欲する子供の心情が描かれる。 このシーンを初めて見たエルトンは泣いたという。 公式ビデオに人気俳優のロバード・ダウニーJrが出演し、話題となった。 グラミー賞のポップ歌唱賞にノミネートされた。 26 「マッドマン」 (Madman Across the Water) 1971年11月 27 「アイム・スティル・スタンディング」 (I'm Still Standing) 1983年7月 1977年に、作詞家バーニー・トーピンとのコンビをいったん解消。 そのあと数年間は他の作詞家と組んだもの、 大きなヒットから恵まれなかった。 結局、バーニーとのコンビを復活させ、 全ての曲をバーニーの詩でそろえたのが1983年のアルバム『トゥー・ロウ・フォー・ゼロ 』。 バックバンドにも初期の仲間たちを起用。 勢いのある作風を取り戻し、エルトンにとって1980年代の最大のヒットアルバムとなる。 このアルバムの中でひときわ輝いているのが、 本曲。 歌詞も「復活」を宣言するような内容になっている。 映画「ロケットマン」でも重要な場面で使われている。 28 「サッド・ソングス」 (Sad Songs Say So Much ) 1984年5月 つらいとき、切ないときに励ましてくれる応援歌。 心の傷を癒してくれる。 「希望をすべて失ったら、ラジオをつけてサッド・ソング(悲しい歌)を聞きなよ」とやさしく語っている。 説得力あふれる名曲。 ノスタルジックなサウンドと歌声が味わい深い。 古き良き時代のオールディーズへの賛歌でもある。 29 「ブルースはお好き?」 (I Guess That's Why They Call It the Blues) 1983年4月 いったん解消していたバーニー・トーピンとのコンビを復活させたアルバム「トゥー・ロウ・フォー・ゼロ」から、 1枚のシングルとして発売された。 全米4位のヒットとなった。 遠距離の恋人を想う歌。 「自分の人生よりも好き」などと相手への気持ちを語ったあとで、 「人はこんな感情をブルースって呼ぶんだろうな」と締めくくっている。 バーニーらしい胸を熱くする歌詞。 スティービー・ワンダーがハーモニカを演奏している。 30 「人生の壁」 (Border Song) 1970年4月 「聖なるモーゼスよ(Holy Moses)」という言葉で始まる宗教的な歌。 ゴルペル調。 平等な社会を祈るという内容。 美しいピアノに加えて、管楽器と合唱がスピリチャルな雰囲気を盛り立てる。 エルトンにとって、アメリカで初めて100位以内のチャートに入った曲。 カナダでは34位に入る すぐにアレサ・フランクリンがカバーして中堅ヒットとなり、 エルトンという新人が業界で広く知られるきっかけとなった。 2作目のアルバム「Elton John(邦題・僕の歌は君の歌)」から最初のシングル。 プロデューサーのガス・ダッジョンとアレンジャーのポール・バックマスターという初期を支えた2人の音楽家と初めて組んだ。 エンディングで使われた。 アカデミー賞の主題歌賞を受賞した。 (グラミー賞やエミー賞も受賞)作詞はミュージカル音楽の達人、ティム・ライス。 この曲の大成功の後、エルトンはミュージカルや映画音楽の活動を勢力的に行うようになり、 新しい世代のファンを獲得。 世界トップ級の売れっ子ミュージシャンとなった。 エルトンが手掛けた他のミュージカルとしては「アイーダ」「ビリー・エリオット~リトル・ダンサー」などが有名。 ライオン・キングでエルトンは作曲家として5曲を提供し、うち3曲を自ら歌った。 このうち本曲と「サークル・オブ・ライフ」が世界各地でヒットした。 1997年に舞台のミュージカルになると、 ニューヨークのブロードウェイで最長ロングランの記録を獲得。 日本でも劇団四季によって大人気の作品となった。 2019年に実写版の映画としてリメイクされた際には、ビヨンセらが本曲を歌った。 32 「スカイライン・ピジョン」 (Skyline Pigeon) 1969年1月 33 「僕の瞳に小さな太陽(ドント・レット・ザ・サン・ゴー・ダウン・オン・ミー)」 (Don't Let the Sun Go Down on Me) 1974年5月 壮大なスケール感のある歌。 シンフォニーな演奏が胸を打つ。 ゴルペル調。 すべてを失った男が「太陽を僕の上に沈ませないでくれ」と願う歌になっている。 グラミー賞の最優秀レコード賞にノミネートされた。 最初に発売されたときは全米2位を獲得。 それから17年後の1991年、当時人気が絶頂だった英歌手ジョージ・マイケルがライブでエルトンと共演。 これがシングルとして発売されると、 アメリカやイギリス、フランスなどで1位となる大ヒットとなった。 エルトンは以前からジョージ・マイケルと個人的に親交があり、 ライブエイド(1985年)でもこの曲をデュエットしていた。 34 「にわとこのワイン」 (Elderberry Wine) 1972年6月 35 「ディス・トレイン」 (This Train Don't Stop There Anymore) 2001年10月 36 「悲しみのニキタ」 (Nikita) 1985年10月 37 「リトル・ジニ-」 (Little Jeanie) 1980年3月 38 「サークル・オブ・ライフ」 (Circle of Life) 1994年8月 39 「女の子、みんなアリスに首ったけ」 (All the Young Girls Love Alice) 1973年10月 40 「グレイ・シール」 (Grey Seal) 1973年10月 | | | | 【出典/参考】 ・.

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エルトン・ジョン自伝映画『ロケットマン』を事実検証

ロケット マン エルトン ジョン

イギリスのロック・ミュージシャン・の半生を描く。 監督、がエルトン・ジョンを演じる。 タイトルはエルトン・ジョンのシングル「」から。 この節にあるあらすじは作品内容に比して不十分です。 を参考にして、 物語全体の流れが理解できるように(も含めて)、をしないよう ご自身の言葉で。 ( 2020年6月)() ロンドン郊外で不仲な両親のもとに生まれ、愛のない家庭に育った少年時代のエルトン・ジョン。 冴えない日々を送る中、音楽的な才能を見出されて国立音楽院に入学する。 やがてロックに傾倒していったエルトンは、レコード会社の公募に応募し、そこで同じ応募者のバーニー・トーピンと運命的に出会い、以来2人は作曲家・作詞家コンビとして幾多の名曲を生み出してく。 こうしてエルトンは稀代のメロディ・メイカーとして一気にスターダムへと駆け上がっていく。 : ()• (): () - エルトンの音楽パートナー。 作詞家。 (): () - エルトンのマネージャー。 アイヴィ: () - エルトンの母方の祖母。 シーラ・アイリーン: () - エルトンの母。 (): - 音楽プロデューサー。 スタンリー: () - エルトンの父。 (): - ()のオーナー。 ディックの旧友。 (): - 若手音楽プロデューサー。 ディックの部下。 フレッド: ()() - シーラの愛人。 2番目の夫に。 ウィルソン: () - 米国の。 製作 [ ] 企画の段階では主演としてが候補に挙がり、監督(最終的にはとしてクレジット)の下で製作が本格的に動き始めた時にはに一旦決まったものの、ハーディの歌唱力不足や役に対して年齢が高すぎたことなどから、プロデューサーのの提案と監督の後押しによってに決まった。 64点を得ている。 によれば、49件の評論のうち、高評価が35件、賛否混在が13件、低評価が1件、平均して100点満点中69点を得ている。 受賞歴 [ ] においてミュージカル・コメディ部門のと()、の3部門にノミネートされ 、主演男優賞と主題歌賞を受賞している。 ()において(タロン・エジャトン)と、 ()、 ()の4部門にノミネートされている。 ではを受賞。 出典 [ ]• D'Alessandro, Anthony 2018年8月23日. Deadline. 2019年3月24日閲覧。 海江田宗 2019年4月25日. シネマトゥデイ. 2019年5月6日閲覧。 2019年5月25日閲覧。 Keegan, Rebecca 2019年3月22日. The Hollywood Reporter. 2019年3月24日閲覧。 2020年5月30日閲覧。 リアルサウンド. 2019年3月25日. 2019年3月25日閲覧。 シネマトゥデイ. 2018年5月25日. 2019年3月24日閲覧。 シネマトゥデイ. 2018年10月2日. 2019年3月24日閲覧。 2019年10月22日閲覧。 猿渡由紀 2019年8月21日. 2019年12月10日閲覧。 2019年12月17日閲覧。 2019年10月3日閲覧。 Ana Maria Bahiana 2019年12月9日. 2019年12月17日閲覧。 2020年1月5日. 2020年1月11日閲覧。 Angelique Jackson 2020年1月12日. 2020年1月13日閲覧。 2020年1月7日. 2020年1月12日閲覧。 Hugh McIntyre 2020年2月9日. 2020年2月10日閲覧。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 英語版ウィキクォートに本記事に関連した引用句集があります。

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映画『ロケットマン』あらすじネタバレと感想。エルトン・ジョンのただの伝記ではなくミュージカル映画だ!

ロケット マン エルトン ジョン

レジナルド・ドワイトという内気な青年が「エルトン・ジョン」としてデビューするには、運命の出会いが必要だった。 その相手とは、作詞家のバーニー・トーピン。 エルトンとバーニーは、それぞれ音楽誌『NME』に掲載された広告を見て、リバティ・レコードが作曲家と作詞家を募集していることを知って応募。 二人はレコード会社で出会った。 ロンドンで生まれ、パブでミュージシャンとしての活動を始めていたシティボーイのエルトンは当時20歳。 かたや、田舎の農場で生まれ、ラジオから聞こえてくる音楽に夢中になったカントリーボーイのバーニーは17歳。 生まれ育った環境はまったく違うが、二人は出会ってすぐに意気投合した。 そして、バーニーが歌詞を、エルトンが曲を書いて、二人は新進気鋭のソングライターチームて活動をスタート。 エルトンがシンガーとしてデビューすると、バーニーは歌詞と友情でエルトンを支えた。 エルトンはバーニーを弟のように思っていたそうだが、そこには恋愛感情もあったはず。 映画ではエルトンがバーニーにキスしようして、やんわりと断られるシーンもあった。 これが実際にあったことかどうかはわからないが、バーニーはエルトンの思いを感じ取っていたに違いない。 それでも、バーニーはエルトンから離れることはなく、エルトンもバーニーを頼りにしていたのは、お互いに才能を高く評価してアーティストとして惹かれ合ったからだろう。 そんな二人の幸福な時期を代表する曲といえば「Your Song(僕の歌は君の歌)」(1970年)だ。 貧しい主人公が贈り物として愛する人に歌をプレゼントする。 当時、貧しかったエルトンとバーニーは、エルトンの実家で共同生活を送っていた。 「いくつかうまく書けない歌詞があって/でも、この曲を書いている間、陽の光はとても優しかった/この歌は、そんな風に僕を照らしてくれる君のような人々のために書いたんだ」と歌うこの曲からは、音楽を通じて二人が強い絆で結ばれていたことがわかる。 こんな歌詞を渡されてエルトンは嬉しかったに違いない。 しかし、バーニーとの付き合いが深まるほど、彼を思うエルトンの胸の内は複雑だっただろう。 そこでバーニーは美しい女性に一目惚れする。 そんなバーニーを寂しげに見つめるエルトン。 その時に流れるのが「Tiny Dancer(可愛いダンサー〜マキシンに捧ぐ)」(1971年)だ。 この曲はバーニーがアメリカで出会って後に結婚する女性、マキシンに捧げた曲。 高揚感に満ちた曲で、映画『あの頃ペニー・レーンと』では、気まずい空気が流れるバンドのツアーバスのなかで、この曲を歌うことでみんなが一体になった。 しかし、『ロケットマン』でのアレンジは寂しげで、エルトンの胸の痛みが伝わってくる。

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