遠藤龍之介。 遠藤龍之介の嫁(妻)や年収は?

ボクらの時代 阿川佐和子×檀ふみ×遠藤龍之介 作家の子供達

遠藤龍之介

来歴・人物 [ ] 父親の仕事の都合で幼少時代をで過ごした。 帰国後の12歳の時に伯母の影響で夙川を受けた。 1941年入学、在学中同人雑誌「上智」第1号に評論「形而上的神、宗教的神」を発表した(1942年同学中退)。 その後、に入学。 慶大卒業後は、1950年にのへ留学。 帰国後はとして活動するが、1955年半ばに発表した小説「白い人」がを受賞し、小説家として脚光を浴びた。 の一人。 キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作に『』『』『』『』などがある。 初頭に大病を患い、その療養のために転居してからは「 狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り、ぐうたらを軸にしたユーモアに富むも多く手掛けた。 無類の悪戯好きとしても知られ、全員素人による劇団「」や素人囲碁集団「宇宙棋院」など作家活動以外のユニークな活動を行う一方で、数々の大病の体験を基にした「心あたたかな病院を願う」キャンペーンやを立ち上げるなどの社会的な活動も数多く行った。 『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けた。 の熱烈な支持が知られ、候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われ、『スキャンダル』がポルノ扱いされたことがダメ押しとなり、受賞を逃したと言われる。 狐狸庵先生などと称される愉快で小仙人的な世間一般の持つ印象とは異なり、実物の遠藤周作は、おしゃれで痩身長躯すらりとした体つき(戦後間もない時代に183cm)の作家であり、豪放磊落開放的な態度で一般とも接するのを常としていた。 生涯 [ ] 出自 [ ] 1923年3月27日、(現在の)に、に勤めていた銀行員とヴァイオリン科の学生郁(旧姓・竹井)の次男として生まれた。 父・常久は独法科在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。 同年に長男の、その2年後に次男の周作が誕生した。 かつて下浅津(現・下浅津)にあった遠藤家は、にのに御典医として仕え、維新後同地に移り住んだ開業医だった。 後期から後まで当地で医業に当たったのは遠藤河津三で、長和田(現・湯梨浜町長和田)には出張診療所も設け繁盛した。 しかし、河津三には子どもがなかったため、鳥取市生まれの常久を養子に迎えた。 父・常久は後にの社長などを歴任する実業家となる。 軽井沢の泉の里に持っていた別荘から白水甲二という筆名を編み出し、『きりしたん大名 大友宗麟』という作品を遺している。 母・郁は現在の出身で、岡山県のを遠祖に持つ。 後に周作は、この遠祖の地(現在の岡山県美星町歴史公園)に「血の故郷」と題した石碑を建立している。 幼少時代 [ ] 1926年、常久の転勤(第三銀行から)で、一家は関東州に移る。 1929年に遠藤は大連市大広場小学校に入学。 この頃、郁が指先を血まみれにしながらを練習する姿やのお手伝いさんに優しくする姿を見て敬意を抱く一方、常久からは勉強がよく出来る正介と比較して説教されることが多く、強烈な劣等生意識を抱いた。 小学校4年のときに、作文「どじょう」が大連新聞に載る。 1932年前後に常久に愛人が出来てから両親の仲が微妙になりはじめ、遠藤は暗い少年時代を送った。 翌1933年、遠藤が10歳のときに両親は離婚した。 ただし、正式な協議離婚届を提出したのは1937年で、その直後に常久は郁を常久の父・遠藤河津三の養女として迎え入れている。 その数ヵ月後に常久は16歳下の女性と再婚した。 遠藤は郁に連れられて帰国し、伯母(郁の姉)の家で同居生活を始めた。 同年8月にのに転入。 この頃から伯母の影響でにある聖テレジア大聖堂に一家で通い始めるようになった。 カトリックの公教要理を学び始めるようになると、一家は教会に近い池の畔に転居した。 1935年、遠藤は私立に入学。 にあるで音楽教師として勤め始めた郁がそこの大聖堂で5月29日に洗礼を受け、6月23日には兄弟そろってカトリック夙川教会聖テレジア大聖堂で洗礼を受けた。 郁のはマリア、周作の洗礼名はパウロ。 正介の勉強指導の成果もあり、灘中入学当初は優秀生徒のクラスに入ったが、映画狂・読書狂・ジョーク好きなど様々な要因により、徐々に成績が低下、卒業前には成績最下位のクラスに在籍していた。 江戸時代の滑稽本を好み、特にの『』に熱中し、弥次喜多に憧れ、自分も彼のような人物になりたいと考えていた。 1939年に一家は西宮市仁川に転居した。 この時すでに、正介は四修でに合格し、寮生活を始めている。 この頃、郁は宗教的・精神的支柱になったドイツ人宣教師と出会い、新居に併設した音楽レッスン場を聖書講話やミサの場として開放するようになる。 学生時代(1939年 - 1949年) [ ] 遠藤は1939年に正介の影響もあり、四修で [ ]を受験するが敢えなく失敗している。 1940年、再び三高を受験するが失敗、広島高も失敗。 この為、等の広高出身者に対しては尊敬の念を抱いていたらしい [ ]。 遠藤は同年に183名中141番の成績で灘中学校を卒業し、浪人生活に入った。 なお、同年、正介が一高を卒業し東京帝国大学法学部に入学。 正介は郁の帰国から数年遅れて帰国した常久の、世田谷経堂の家に身を寄せている。 1941年に再び広島高などを受験して失敗。 同年4月に甲類(独語)に入学するが、翌1942年2月9日に退学している。 同年、ととを受け、全て失敗している。 この頃に肺を病み、喀血している。 遠藤は郁にこれ以上の経済的負担をかけることを恐れ、1942年に東京帝大を卒業しへ入省した正介の仲介で、常久の家に移った。 常久が出した同居の条件は「か予科のどちらか」に入学することだった。 しかし、遠藤は、予科、予科、医学部予科に不合格となり、医学部予科には自信がなかったため、常久に告げず同大の文学部予科を受験、補欠合格。 翌1943年4月に慶應義塾大学文学部予科に入学する。 医学部予科を受験したものと思っていた常久は真相を知らされ激怒、遠藤を勘当した。 生活基盤を失った遠藤は、友人の宅に居候し、などのアルバイトで生活費を稼ぐことになった。 まもなく、が舎監を務めるカトリックの学生寮に入寮した。 学生寮での生活は、遠藤にとって初めての開けた世界だった。 吉満の影響で ()、寮内で出来た友人松井慶訓の影響でなどを読み耽った。 また、吉満の紹介で、、などと知り合うことになった。 堀辰雄との出会いは、ひとつの転機となり、自他ともに認める劣等生だった遠藤は猛烈な勢いで読書を始め、一夜にして勉強家と化した。 の日本の戦局の悪化に伴い、徐々に予科での授業は少なくなり、その期間、のの工場などで働くことを余儀なくされた。 寮内での影響を多大に受けたフランス志向にさらに拍車を掛けたのが、で偶然購入したの『フランス文学素描』で、1945年4月に、慶應義塾大学文学部仏文科(佐藤朔が講師を務めていた)に進学した。 この頃、戦局の悪化は日本国内にも大きな被害を与えるようになっていた。 後の大作家・遠藤周作を生み出す土台となった白鳩寮はで焼失した。 なお、遠藤はでは第一乙種だったが、などで入隊期間が大幅にずれ、入隊直前に終戦を迎えた。 終戦後は大学に戻り、、などのフランスのに傾倒した。 大学の一年先輩のとの知遇も得た。 1946年になり、遠藤が慶應義塾大学文学部仏文科に入学したのを知った常久は、態度を軟化させ勘当を撤回した。 学生寮から焼け出されて再び生活基盤を失っていた遠藤は、この誘いを受けて常久の家に戻った。 1947年12月、初めて書いた評論「神々と神と」がに認められて、角川書店の『四季』第5号に掲載され、批評家としてデビューした。 その後、佐藤朔の推挙で評論「カトリック作家の問題」を『』上で発表したのをきっかけに、佐藤朔の推挙で『三田文学』、神西清の推挙で『』などで評論を多数発表している。 1948年末もしくは1949年初頭には正式に『三田文学』となり、、、、、との知遇を得ている。 1948年に慶應義塾大学文学部仏文科を卒業。 卒業論文は「における詩論」。 大船撮影所の助監督試験を受けたが、敢えなく不採用に終わっている。 その後、佐藤朔の紹介での嘱託として働き始め、また、神父が主催する雑誌『』の編集作業に、正介・郁(小林聖心女子学院を依願退職して上京した)とともに携わっている。 同年、評論活動とこれらの仕事の合間に、小林聖心女子学院のシスターから依頼を受けて、初の戯曲「サウロ」を書き上げている。 留学時代(1950年 - 1953年) [ ] 1950年6月4日、遠藤はフランスのカトリック文学をさらに学ぶため、戦後初のフランスへの留学生として渡欧した。 フランス船 ()で横浜港を出航し、7月5日にマルセイユに着く。 新学期までの建築家ロビンヌ家に滞在し、9月にに入学した。 留学時代には勉強の合間に通常の評論活動に加え、フランスでの見聞などをエッセイや小説風のルポルタージュにまとめた。 それらはの厚意で『群像』、そして『カトリック・ダイジェスト』誌などで発表された。 1951年夏にはの『 ()』の舞台になったフランス南西部を徒歩旅行するなどし、フランスでの生活を満喫したが、翌1952年初夏にを起こし、吐血。 6月から8月まで ())の国際学生療養所に入所する。 退所後にに移ったものの12月に再び肺結核が悪化し、ジュルダン病院に入院した。 病状の悪化でフランスでの生活に見きりをつけ、の博士論文の作成を断念する。 翌1953年1月に、日本船で帰国の途に着いた。 翌月に日本着。 帰国後、遠藤は企業家の長女、慶應義塾大学文学部仏文科に在籍していた岡田順子と交際を始めた。 体調は相変わらず優れなかったが、7月に留学時代のエッセイをまとめた『フランスの大学生』をから処女出版し、批評家の道をゆっくりながら踏み出した。 12月に敬愛する母がで急死する悲劇に見舞われた。 駆け出し作家時代(1954年 - 1962年) [ ] 1954年4月からの講師を務めた。 の紹介で、谷田昌平とともに構想の会に参加し、、、、、、らとの知遇を得た。 遠藤はこの年から、本格的に作家として活動を始める。 の依頼でに創刊号から参加するなど駆け出しとしては上々と思われた。 1954年末に執筆した、初の小説「アデンまで」は仲間内で高い評価を受けた。 続いて執筆した小説「白い人」は、翌1955年7月に、一足飛びに第33回を受賞した。 同年9月、岡田順子と2年半の交際を実らせ、結婚した。 交際当初、岡田の父は「文士風情」「肺に病気を抱えている」などの理由でこれを認めなかったが、遠藤周作の文章を早い時期から評価し、なおかつ、岡田家とも繋がりがあった小林正が説得に当たったという。 結婚後は、一時期父の家に順子夫人が家入りする形で同居したが、まもなく松原に転居した。 1956年6月、長男の龍之介が誕生しささやかにも家庭を築き始めると、遠藤の父に対する敵意は本格的な物になっていった。 芥川賞を受賞し、作家としては順風満帆な駆け出しかと思えたが、当時の生活は決して楽なものではなかったという。 1956年から文学部の講師を務めた。 1957年、(相川事件)を主題にした小説「海と毒薬」(文学界、6・8・10月)を発表し、小説家としての地位を確立した。 『海と毒薬』は、翌1958年4月に新社から出版され、12月に第5回、第12回を受賞した。 9月末にに出席するため、、、らとともに渡ソ。 10月にのでの会議に参加した後、を廻り、12月に帰国した。 同1958年、第六次に編集委員として参加。 他の委員は、、、、、。 1959年11月には、の勉強/さらに理解を深めるために、順子夫人を同伴して、フランスに旅行した。 遠藤はこの時に、マルキ・ド・サドの研究家、 ())、との知遇を得た。 その後、、、、からを廻り、翌1960年1月に帰国した。 帰国後に体調を崩し、4月にが再発した。 東京大学伝染病研究所病院に入院し、治療を試みたがなかなか回復せず、年末に慶應義塾大学病院に転院した。 翌1961年に、3度にわたり肺の手術を行った(1月7日、1月21日前後、12月末)。 危険度が高い3度目の手術の前日、とある見舞い客が持ってきた紙で出来たを見たという。 一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復した。 翌1962年5月にようやく退院することになった。 狐狸庵先生(1963年 - ) [ ] この節のが望まれています。 1963年に駒場から玉川学園に転居したころ、雅号を「雲谷斎狐狸庵山人」とする。 ちなみに「狐狸庵」とは「狐狸庵閑話」が関西弁で「こりゃあかんわ(=これはダメだな)」の意味のシャレであり、「狐狸庵閑話」が先に出来ての「狐狸庵」である。 1966年に第七次で編集長となる。 戦国三部作(1988年-1991年) [ ] 「武功夜話」をベースにした小説『反逆』を読売新聞に連載(1988年1月26日 - 1989年2月7日)、同じく小説『決戦の時』を山陽新聞などに連載(1989年7月30日 - 1990年5月31日)、同じく小説『男の一生』を日本経済新聞に連載した(1990年9月1日 - 1991年9月13日)。 のちに講談社から単行本として再発行される。 この3作品は遠藤周作の戦国三部作と呼ばれる。 ベースになった「」は、1959年9月愛知県江南市の吉田家の土蔵から偶然発見されたと言われている21巻その他付録からなる文書群だが、古文書ではなく近世になって創作されたものだ、との疑いもあり論争中である。 この節のが望まれています。 深い河(1990年 - ) [ ] 映画化された作品。 同名の小説を原作として、インドの母なる大河ガンジス(ガンガー)を舞台に、愛と悪と魂の救済がテーマとされている。 インド政府の協力により、日本映画初のインドでの長期ロケーションが実現した。 既にこの小説は冒頭から「」を扱っているが、1992年8月、「朝日新聞」に連載していた随筆「万華鏡」の「人生の偶然」で遠藤は、 ()の『シンクロニシティ』を絶賛し、同書はそのためベストセラーに躍り出た。 これはカトリック作家としては異例の事態だったが、なおオカルトへの好意的言及はエッセイやホラー小説の分野では古くから行われている。 死の床で(1993年 - 1996年) [ ] 1993年5月にの手術を行った。 一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。 最初はなかなか苦痛に耐えられず、愚痴や泣き言を繰り返していたが、自分との境遇を重ね合わせ、「の評論を書く」と決心してからはそれがなくなった。 1996年4月、腎臓病治療のために入院 、同年9月に脳出血。 同月28日には昼食を喉に詰まらせ、肺に誤嚥し呼吸停止に陥った。 それはすぐに取り除かれたが、そこから病原菌が広がり、肺炎を併発した。 それは肺を片方しか持たない人間には致命的な事態だった。 翌9月29日午後6時36分、による呼吸不全で同病院で死去した. 73歳だった。 は三田文学1996年夏季号に掲載されたの追悼文()だった。 の評論を書く希望は遂に叶えられなかった。 死後(1996年 - ) [ ] この節のが望まれています。 は遠藤文学の最大のテーマであり、神学者ではなく、神学教育は受けていないにも関わらず、また、必ずしも正統とは言い難い思想もあるにも関わらず、日本のキリスト教分野を代表する人物とされている。 小説以外の形式でも、「私のイエス」「私にとって神とは」などを発表しており、キリスト教関係者の間でもしばしば賛否両論含めた論評の対象になる。 日本人とキリスト教の矛盾 遠藤は家がであり、旧制中学時代にカトリックの洗礼を受けている。 さらに1950年からフランス留学をしている。 この留学ときに感じ、そして遠藤の人生最大のテーマとなった葛藤が 「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」であった。 遠藤は後年、自分の信仰に関する思索を、「だぶだぶの洋服を和服に仕立て直す作業」と表現している。 このテーマは最期まで貫かれており、晩年の「深い河」へもつながっていく。 キリスト教の持つ救済の力 キリスト教の持つ最大の救いの能力は、聖書に描かれるゴルゴダを登るキリストであるとしている。 罪人として拷問の末汚れにまみれ、自分を磔る十字架を背負い、しかも衆人から激しい罵声を浴びつけられる姿が歴史上もっともみじめな、しかし美しい人間であるとしている。 誰にも認められず、汚く惨めな自分をどこまでも無限に傍らにいて見守る人、それがキリストであるとしている。 この特徴的なキリスト教解釈は高い評価と共に、異端であるとも見做されることもある。 キリシタン時代 遠藤は戦国時代から江戸時代にかけてのいわゆるキリシタン時代に強い関心を持ち、小説・評伝などの数多くの作品を残している。 やなど、実在の人物を下敷きにした作品も多い。 「沈黙」「侍」などは日本にやってきた宣教師をモチーフに描かれている。 宣教師たちが長年の努力でいくらかの信者を集めたにもかかわらず、彼らは社会が変わればあるいは空気が変わるだけで全く簡単に棄教してしまう。 このことが何故なのか、キリスト教社会にとっては決定的に理解しがたい日本人像であった。 …キリスト教の原理を理解し守っていた日本人信者は実は現世や来世で単に幸せになりたいだけであり、キリスト教にとっての神の教えの真の尊さは関係がなかったのである。 教義を理解していても真の信仰は無かったのである。 日本人は結局、個人もしくは(これが重要だが)集団として現世・来世に不利益と思えば思想そのものを大きく変更しても構わない、この原理は日本人に取りあらゆる哲学や宗教原理よりも強いことが生々しく描かれる。 そして信者(実は信仰していないにもかかわらず)や宣教師は日本社会そのものに棄教(『沈黙』)に追い詰められたり、死(『侍』)に追いやられたり、堕落(『黄色い人』)に追いやられてしまう。 遠藤は、キリシタン時代に関心を持つ理由として自らが戦争時代に敵性宗教を信じる者として差別を受けた経験があったからとしている。 『』において 現世利益的な日本人像は『海と毒薬』で人体実験をする医師・看護師達として描かれている。 これらに関わっている人間は、良心の呵責を感じながらも、誰でもあるような人生の移り変わりのたまたまのタイミングで人体実験への参加を呼びかけられ、強い反発もせずに漫然と関わってしまう。 このことも結局キリスト教の様な倫理的性質をもつ行動原理が日本人には存在せず、集団心理で平凡な人格の持ち主たちがなんとなくに非道に転んでしまうことを主張している。 『』において 日本人とキリスト教の矛盾に苦しんでいた遠藤は、晩年の作品『深い河』において「日本人のもつべきキリスト教像」「汎世界的なキリスト教像」を提示している。 遠藤は元来から、キリスト教のみを至上の宗教とする、排他的な思想の持ち主ではなかった。 西洋のキリスト教が唱えてきた、キリスト教を唯一の正しい宗教であるとする考えとの乖離は、キリスト教信徒である遠藤にとって大きな矛盾となっていたのである。 そんな遠藤にとって衝撃を与えたのは、イギリスの宗教哲学者のであった。 あらゆる諸宗教を等しく価値あるものとみなすこの思想は、遠藤が苦しんでいた矛盾を解決する光となった。 遠藤が興味を惹かれていたインドを舞台にして、新たなキリスト教像を提示したこの作品は、大きな反響を巻き起こした。 監督によって映画化され、また、歌手のは、この作品に影響を受け、「」という楽曲を発表している。 エディプス・コンプレックスと「母なるもの」 [ ] この節のが望まれています。 幼少時に抱いたは後年まで後を引き、様々な作品に影響を与えた。 母はヴァイオリン科にいたこともあり、芸術に対しても自分に対しても厳しい人だった。 父とは異なるタイプの厳格さを持ち、子供たち(周作・)を叱ることこそしなかったが、ただひとつ「それは ()ではない」 [ ]という言葉を子供たちにかけた。 それは子供心に非常にこたえる言葉だったが、不思議と素直にそれを受け入れる事ができた。 子供たちは母を慕った。 父が母を棄てた事をどうしても許せず、死に目に会えなかった母に対する贖罪の意識と、順子夫人と結婚し一児をもうけ家庭を築き、その大事さを実感した事があいまって、別居後は父を激しく敵視・憎悪した。 父との和解をすすめた順子夫人を「両親の揃った家にぬくぬくと育ったお前に、俺の苦しみなんて分かってたまるか」 [ ]と 斬り捨て [ ]、兄が急死した時には「俺は孤児になった、孤児になった」 [ ]と嘆き、悲しんだ。 1977年、兄が急死した後「母と同じ墓に入りたい」という兄の生前の希望を叶えるため、母の墓を掘り起こし 、火葬場で遺体を焼いて、お骨にし骨壺に入れた。 兄の墓が出来るまでの猶予期間、遠藤周作はその骨壺を預かる事になり、その骨壺を音楽会に持ち込み、「母」と音楽会を楽しんだ。 子供の頃に母に連れられていったの来日公演の記憶は鮮明に残っていた。 実際には喧嘩をする事も多かったが、長い年月をかけて、母の記憶は美化・純化されていた。 父の晩年には、「親父も孤独な奴だということがわかったよ。 自分の女房と、息子たちの子供時代の話ができないのは辛いだろうな」 [ ]と、その意識を軟化させ、入院中の父を見舞うようになった。 しかし、義母(父の再婚相手)に対しては、「親父をおじいちゃんと呼んでもいいけれど、二度目の母のことをおばあちゃんと呼ぶな」 [ ]と、順子夫人と息子・龍之介に強制し、義母を「おやじのかみさん」と呼び続けた。 「心あたたかな医療」 [ ] この節のが望まれています。 1980年代半ばから始めた「心あたたかな医療」運動は、自らの大病歴から生まれたものでもあったが、それを提唱する直接のきっかけとなったのは「お手伝いさんの死」だった。 20代半ばのお手伝いさんがで亡くなった。 医者から1ヶ月の命と宣告され、お手伝いさんが入院した時、遠藤自身も、の手術の後で、の疑いがあるということで、検査のため同じ病院に入院していた。 不確定な死の陰に怯える男が、確実に死ぬと分かっている彼女のために出来ることは、彼女に嘘をついて励ますこととせめて、安楽に死なせてやってほしいと交渉することだけだった。 自らも、彼女の苦しみを少しでも和らげるためならとを決意、実行した。 彼女の死後/自らの上顎ガンの疑いが晴れた後、延命治療の方法論や医者の無神経から発する行為に疑問を抱き、それらは是正すべきものであるという「心あたたかな医療」運動を展開した。 現在、その活動は確かに引き継がれ、根を張り始めている。 「狐狸庵」先生としての遠藤周作 [ ] 狐狸庵とは、一般に遠藤周作が40代を過ごすことになった自称柿生の山里(正確には玉川学園)の庵(住まい)をさすものと認識されているが、随筆の中で、柿生に移る前の東京都渋谷区の住いをはじめて狐狸庵と称したとしており、柿生の狐狸庵は新しい狐狸庵であるとしている。 カトリックと日本人との関わりを歴史的経緯の中で追求していくよう学生時代の恩師や先輩から勧められたことを小説家としての出発点とし、かつライフワークとして取り組むことが、純文学作家遠藤周作のテーマであった。 いっぽう謹厳な宗教分野のテーマを追求する純文学作家としての姿を自ら離れ、いわゆるぐーたら物を中心とした身辺雑記等を書き連ねる随筆作家としての自身が創造した別のキャラクター(花鳥風月を愛し、ぐうたらでなまけものの権化、しかし言いたいことは言う)が狐狸庵山人ということになった。 ただしいずれの分野の作品もすべて公式には遠藤周作著で統一されているので、作品中で自称しているだけのユーモアである。 親友の北杜夫らとともにユーモア文学ないしユーモア作品と呼ばれる数々の随筆群を発表し、この分野の旗手と目されブームを築いたこと、またTVのCMに「狐狸庵先生遠藤周作」としてたびたび登場した経緯から、世間一般に周知されることとなった。 したがって遠藤の純文学作品が取り上げられるときに限っては「狐狸庵山人」や「狐狸庵先生」という呼称は用いられることはない。 文学以外の分野では、素人劇団「樹座(きざ)」やしか入団できない団「コール・パパス」、素人集団「宇宙棋院」を組織したりと活動は多岐に亙った。 は遠藤周作と対談した際、どんな真面目な内容か緊張していたが、年齢を10歳偽るなど最初から最後まで掴みどころのないジョークで翻弄されてしまい、最後に渡された「ぼくの電話番号」に翌日電話するように言われて約束通り電話したところ、それはの営業所の番号であったというエピソードをエッセイで語っている。 なお、遠藤は中間小説の分野ではユーモア、ナンセンスもの以外にホラー、サスペンスも得意とした。 専門のエンタテインメント作家のものに比べると スキルの面での難点も見られるが いずれも異色であり、うち2作が映画化されるなど人気も高い。 これは純文学作家遠藤周作とも狐狸庵先生とも異なる第3の顔と見なすこともできる。 カトリックの評価 [ ] この節にはが含まれているおそれがあります。 問題箇所をしして、記事の改善にご協力ください。 議論はを参照してください。 ( 2017年2月) 遠藤は、ヨーロッパで触れたキリスト教が父性原理を強調するあまり日本人の霊性に合わないと不満を持ち、キリスト教を日本の精神的風土に根付かせようと試みた。 遠藤自身はそれを「日本人としてキリスト教信徒であることが,ダブダブの西洋の洋服を着せられたように着苦しく,それを体に合うように調達することが自分の生涯の課題であった」と語っている。 晩年にはの提唱すると出会って影響を受け、『深い河』の登場人物である大津を通して「神(イエス)は愛、命のぬくもり、もしくはトマトでもタマネギと呼んでもいい」といっている。 このため、遠藤に対するカトリック教会での評価は賛否が大きく分かれることとなった。 遠藤と共にフランスで学んだ神父は、「遠藤周作氏の著作『死海のほとり』と『イエスの生涯』は、そのイエス像に賛成すると否とにかかわらず、初めて深く日本の精神的風土にキリスト教がっちりとかみ合った作品だと言えるでしょう」 と高く評価している。 また、カトリック新聞にも遠藤が「キリスト教を広めた」という評価する記事が掲載された。 遠藤が踏絵のキリストの顔が「早くふむがいい。 それでいいのだ。 私が存在するのは、お前たちの弱さのために、あるのだ」と言っている気がしたとカトリック新聞1972年1月23日付の記事に書いたことに対し、神父は反論を書いている。 遠藤氏の場合、自分や肉親のいのちを救わんがために、踏絵に足をのせた人々に向かって、キリストだったら何を言うであろうかと、氏自身キリストに代わって答えたつもりであろう。 遠藤氏は、自分の肩には重すぎる荷を、せおったのではあるまいか。 その荷は、氏のみならず、誰にとっても重すぎるにちがいない。 キリストは、人間世界の現実と、人間の考え方や生き方について、大抵の場合、思いもよらない、時には人をぎょっとさせ、不安に陥し入れるような冷酷とも思われる解答を提出している。 本当のことを言えば、われわれには、決してキリストを理解し切ることはできないはずである。 それは、キリストの叫びの次元が、われわれのとはちがうからである。 キリストは、人間の目と同時に神の目を、人間の心と同時に神の心をもっていた。 したがって遠藤氏の言うキリストは、かれ自身の次元にとどまるキリストにすぎないという強い印象を私はうけている。 しかしながら、遠藤は初期の留学経験などから西欧との深い溝、そして日本人と(東洋的)汎神論の避け難い結合を意識し、キリスト教という宗教を文化背景に持たない日本において、救い主キリストが日本人にどのように提示され得るかという問題意識を持つに至った。 この認識、 そして第2公会議における「すべての民族の独自性は伝統文化に照らし合わせ適応され受け入れられる」(教会の宣教活動に関する教令)という宣言を考慮することなしに、『沈黙』から『侍』に至る彼の母性的な「同伴者イエス」のビジョンを理解することが難しい、ということを、上に引用された批判は計らずも明らかにしているのである [ ]。 略年譜 [ ]• 1923年(大正12年) 3月27日 - 東京巣鴨に生まれる。 1926年(大正15年・昭和元年) 父の転勤により、関東州、に移る。 1929年(昭和4年) 大連市の大広場小学校に入学。 1933年(昭和8年) 父母のにより母に連れられて兄とともに日本に帰国しの六甲小学校に転校する。 1935年(昭和10年) 私立に入学。 4月 - 母は宝塚市のの音楽教師になり5月29日。 6月 - 周作も兄とともにので受洗。 ポール。 1940年(昭和15年) 灘中学校卒業。 1941年(昭和16年) 4月 - 予科甲類に入学し籍を置くが、なお旧制高校をめざして受験勉強を続ける。 1942年(昭和17年) 2月 - 上智大学予科を退学。 旧制高校受験の失敗が続くが、母の経済的負担を考え、経堂の父の家に移る。 1943年(昭和18年) - 文学部予科に入学。 しかし父が命じたを受けなかったためされ、父の家を出てアルバイト生活を続ける。 友人宅にころがりこんだ後、学生寮に入る。 1945年(昭和20年) 慶應義塾大学文学部仏文科に進学。 1946年(昭和21年) 父の家に戻る。 1947年(昭和22年) 12月 - 処女評論『神々と神と』がに認められ、『四季』第5号(角川書店)に掲載。 1948年(昭和23年) 3月 - 慶應義塾大学仏文科卒業。 大船撮影所の助監督採用試験に失敗。 1949年(昭和24年) 6月 - のになり、外国文学辞典編纂に従事したが、同社はまもなく。 カトリック・ダイジェスト社で働く。 になる。 1950年(昭和25年) 6月 - 戦後初のフランスへの留学生として渡欧。 10月 - に入学。 1951年(昭和26年) 夏 - の『テレーズ・デスケイルウ』の舞台であるランド地方を徒歩旅行。 1953年(昭和28年) パリに移る。 体調を崩し入院。 2月 - 帰国。 7月 - 『フランスの大学生』を早川書房より刊行。 12月 - 母郁死去。 1954年(昭和29年) 4月 - の講師を務める。 の紹介でに参加し、知己を広げる。 の紹介でに参加し、6・12月号に『マルキ・ド・サド評伝』を発表。 11月、三田文学に処女小説『アデンまで』を発表。 1955年(昭和30年) 7月 - 『』で第33回を受賞。 9月 - の長女、順子と結婚。 父の家で短期間同居の後、世田谷区松原に転居。 1956年(昭和31年) 6月 - 長男誕生。 上智大学文学部の講師を務める。 1958年(昭和33年) 10月 - アジア・アフリカ作家会議に参加。 12月 - 『』で第5回、第12回を受賞。 1959年(昭和34年) 11月 - の勉強/さらに理解を深めるために夫人を同伴してフランスに旅行、翌年1月に帰国。 1960年(昭和35年) 4月 - 帰国後に体調を崩し、東京大学伝染病研究所病院に入院。 年末に慶應義塾大学病院に転院。 1961年(昭和36年) 1月 - 3回にわたり肺の手術を行なう。 一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。 1962年(昭和37年) - 5月、退院。 1963年(昭和38年) 3月 - に転居。 新居を「狐狸庵」と名付け、以降「狐狸庵山人」という雅号を使い始める。 1965年(昭和40年) - 新潮社の書き下ろし小説『』制作のための下調べ/取材で、とともに長崎・平戸を数回旅行。 1966年(昭和41年) 3月 - 『』を刊行。 成城大学の講師を務める( - 1969年) 5月 - で戯曲『黄金の国』(演出:)初演。 10月、『沈黙』で第2回を受賞。 1967年(昭和42年) 8月、ポルトガル大使の招待を受け、で行われたの300年祭で記念講演。 その後、、パリ、を廻り、9月に帰国。 1968年(昭和43年) - 三田文学の編集長に就任( - 1969年)。 4月 - 劇団「樹座」を立ち上げ、での『』を上演。 1969年(昭和44年) 1月 - 新潮社の書き下ろし小説『薔薇の館・黄金の国』制作のための下調べ/取材で、に旅行し、2月に帰国。 4月 - アメリカ国務省の招待を受け、アメリカに旅行し、5月に帰国。 1970年(昭和45年) 4月 - 、、とともにイスラエルに旅行し、5月に帰国。 1971年(昭和46年) 11月 - 戯曲『メナム川の日本人』制作のための下調べ/取材で、タイのアユタヤに旅行。 その後、、、ストックホルム、パリを廻り、同月帰国。 からを受ける。 1972年(昭和47年) 3月 - 謁見のため、、とともにローマを旅行。 その後、書きかけの小説『死海のほとり』を仕上げるため、イスラエルに立ち寄り、4月に帰国。 10月 - 日本文芸家協会常任理事に就任。 遠藤周作作品が欧米で翻訳され始める。 この年には『海と毒薬』がで、『沈黙』がオランダ、スウェーデン、スペイン、ノルウェー、フランス、ポーランドで翻訳出版された。 1973年(昭和48年) 3月 - 「遠藤周作氏と行くヨーロッパ演劇の旅」で、ロンドン、パリ、ミラノ、スペイン()を廻り、4月に帰国。 1974年(昭和49年) 5月 - 仕事場を代々木富ヶ谷に移す。 10月 - 新潮社の書き下ろし小説『彼の生き方』制作のための下調べ/取材で、メキシコに旅行し、同月に帰国。 1975年(昭和50年) - 2月、北杜夫、とともにロンドン、フランクフルト、ブリュッセルで在留日本人のための講演旅行、同月に帰国。 1976年(昭和51年) 1月 - の編集長に就任( - 6月)。 6月 - 『鉄の首枷-小西行長伝』の取材でへ旅行し、、、、、を廻り、同月帰国。 9月にはの招待を受け、アメリカに旅行。 ニューヨーク]講演した後、ロサンゼルス、サンフランシスコを廻り、同月帰国。 12月 - を受賞。 授賞式参加のため、のに旅行、その後を見学し、同月に帰国。 1977年(昭和52年) 1月 - 芥川賞選考委員に就任( - 1987年)。 5月 - 兄死去。 1978年(昭和53年) 6月 - 『イエスの生涯』でを受賞。 1979年(昭和54年) 2月 - 『キリストの誕生』で第30回評論・伝記賞を受賞。 『王国への道-山田長政』の取材でタイのアユタヤに旅行し、同月帰国。 3月 - に旅行。 46年ぶりに幼少時代の想い出の地を訪れる。 同月帰国。 4月 - 翻訳出版のトラブル解消のため、イギリスロンドンに旅行。 その後、パリ、ローマを廻り、同月帰国。 を受賞。 1980年(昭和55年) 5月 - 劇団「樹座」のニューヨーク公演。 ジャパン・ソサエティで『カルメン』を上演。 『侍』で第33回を受賞。 1981年(昭和56年) - 会員になる。 1985年(昭和60年) 4月 - イギリス、スウェーデン、フィンランドを旅行し、同月に帰国。 ロンドンのホテルでと鉢合わせし、文学論を交わした。 6月 - 第10代会長に就任( - 1989年)。 の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行。 その後、ので講演を行ない、同月に帰国。 1986年(昭和61年) 2月 - 代々木富ヶ谷の仕事場を仮住まいにする。 劇団「樹座」のロンドン公演。 ジャネッタ・コクラン劇場で『蝶々夫人』を上演。 11月 - 台湾のの招待を受け、台湾に旅行。 「宗教と文学の会」で講演を行い、同月に帰国。 1987年(昭和62年) 5月 - の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行し、同月帰国。 10月 - の招待を受け、大韓民国に旅行し、同月帰国。 との知遇を得る。 1988年(昭和63年) 4月 - 夫人を同伴してロンドンに旅行し、同月帰国。 8月 - のソウル大会出席のため、大韓民国に旅行し、翌月帰国。 に選出される。 1989年(昭和64年・元年) 12月 - 父死去。 1990年(平成2年) 2月 - 『深い河』の制作のための下調べ/取材で、インドに旅行し、同月帰国。 7月 - 仕事場を上大崎に移す。 10月 - アメリカのを受賞。 1991年(平成3年) 1月、三田文学会理事長に就任( - 1995年)。 5月 - ()の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行。 その後、と『沈黙』の映画化について話し合い、同月帰国。 12月 - の名誉博士号を受けるため、台湾に旅行、同月帰国。 1993年(平成5年) 5月 - の手術を行う。 一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。 以後、入退院を繰り返すことになる。 1995年(平成7年) 9月 - 脳内出血でに入院。 11月 - 受章。 12月 - 退院。 1996年(平成8年) 4月 - 腎臓病治療のため、に入院。 9月29日 - 午後6時36分、肺炎による呼吸不全で死去。 家族・親族 [ ] 遠藤家 [ ] (、) 家系• 初代・元衛(元哲) 遠藤家は代々東分知家の御医師で、初代を元衛(元哲)といい、の町医師であった が14年(1764年)3月四代に召抱えられ、名も元哲と改めた。 明和3年(1766年)侍医となり四人扶持を受けた。 続いて五代の侍医となり、明和9年(1772年)に詰江戸を命ぜられ、二十俵支配と詰高五俵の二十五俵の加増を受けた。 二代目・玄益 元哲にとする男子なく、藩医のである玄益をとした。 4年(1775年)6月病没した。 玄益は養子のため、三人扶持を受けて相続し、8年(1788年)より藩邸や城中勤務をした。 勤務良好とあって翌元年(1789年)には四人扶持となっている。 そして御近習医師に昇格し、詰江戸を命ぜられ寛政6年まで江戸三田邸に勤務した。 その後も度々江戸詰を命ぜられ五人扶持二十五俵の加増となり、寛政12年3月から七代の御匕代役をした。 2年に諸役から退き7年(1810年)正月に病没した。 三代目・玄里 三代玄里は玄益の実子で四人扶持を継いだ。 2年(1819年)より藩邸、城中勤務をし、江戸詰も度々命ぜられている。 2年同じ東分知家医師であった石原玄碩長男の隼見を養子とした。 玄里は翌安政3年(1856年)9月病没した。 四代目・玄益 四代玄益は父玄碩や本藩の大島秀洞(本道、二〇〇石)に学んでおり、医術もよくできた。 養子のため四人扶持十九俵を受けたが、翌年より城中勤務となり、安政6年には九代の御匕役 を勤めた。 玄益に子供がなく2年(1866年)6月中村鼎斎の門人で、田島村の岡田新左衛門の子である岡田謙三をに入れた。 元年(1868年)よりその謙三に代番勤めをさせている。 しかし明治2年(1869年)より再び藩に勤務している。 後の経歴は明らかでないが、河村郡下浅津村で開業していた。 そして医業のかたわら創立して間もない浅津学校の兼を勤めた。 明治13年(1880年)に没した。 謙三の子たち 謙三の子に又蔵、河津三、隼見の三子がいた。 又蔵はとならず理学部を卒業して早稲田のの教師となり、三男隼見は、東大経済学部を卒業してに勤務した。 謙三の二男河津三 二男河津三は、岡山の三高医学部を卒業して東京に出て済生学舎で修行し明治33年(1900年)に合格した。 一時横浜十全病院に勤めたのち明治35年(1902年)下浅津村に帰り、父の跡をついで医業をした。 医業は多忙を極め、その上、需められ東郷池の向う花見村長和田に出張診療所を設けて日夜診療に明け暮れたという。 河津三は郡医師会理事もつとめ、戦時中は満州開拓団の医師として2年ばかり夫婦で渡満し、帰国後再び浅津、長和田地区の診療をした。 24年(1949年)2月病没した。 父 (銀行員) 養子は医師とならず東大法学部を卒業して安田銀行に勤務した。 母 郁• 義母 秀子 - 父親の再婚相手。 兄 東京大学法学部卒、総務理事。 妻 順子(実業家の娘。 俳優の従妹) 、慶應義塾大学仏文科卒業。 遠藤周作の死後、思い出を語った作品を数作残している。 長男 芥川賞受賞にちなんで龍之介と命名。 父周作は「大学受験は、なんの役にも立たない。 そんなものに貴重な青春時代を浪費するのは愚の骨頂だ 」といって、龍之介には大学受験を勧めなかったという。 に入社し、現在。 父周作との子どものころの約束は3つあり「うそをつかない。 ともだちを裏切らない。 弱い人間を馬鹿にしない」だった。 また会話は、敬語を用い、周作からは含みを残す言い回しや比喩を用いた表現を常としたとの回想がある。 作品一覧 [ ] 日本 [ ] 単著 [ ]• 『フランスの大学生』(1953年、)のち、ぶんか社文庫• 『カトリック作家の問題』(1954年、早川書房)• 『』(1955年、一古堂)「堀辰雄覚書」講談社文芸文庫• 『白い人・黄色い人』(1955年、)のち文庫、、• 『神と悪魔』(1956年、現代文芸社)• 『青い小さな葡萄』(1956年、)のち、文芸文庫• 『タカシのフランス一周』(1957年、)• 『恋することと愛すること』(1957年、)• 『月光のドミナ』(1958年、)のち新潮文庫• 『』(1958年、新社)のち角川文庫、講談社文庫、新潮文庫• 『恋愛論ノート』(1958年、東都書房)• 『恋の絵本』(1959年、)のち・女性論文庫• 『おバカさん』(1959年、)のち角川文庫、、ぶんか社文庫• 『蜘蛛 周作恐怖譚』(1959年、新潮社)• 『若い日の恋愛ノート』(1960年、)「恋愛とは何か」角川文庫• 『新鋭文学叢書6 遠藤周作集』(1960年、)• 『火山』(1960年、文藝春秋新社)のち角川文庫• 『あまりに碧い空』(1960年、新潮社)• 『聖書のなかの女性たち』(1960年、)のち講談社文庫• 『ヘチマくん』(1961年、新潮社)のち角川文庫• 『結婚』(1962年、講談社)のち文庫• 『宗教と文学』(1963年、南北社)• 『』(1964年、文藝春秋新社)のち講談社文庫 新装版 2012• 『浮世風呂』(1964年、講談社)• 『一・二・三! 』(1964年、中央公論社)のち文庫• 『偽作』(1964年、)• 『留学』(1965年、文藝春秋新社)のち新潮文庫• 『狐狸庵閑話』(1965年、)のち新潮文庫『狐狸庵閑話』(「古今百馬鹿」「現代の快人物」も併録)• 『哀話』(1965年、講談社)のち文庫、文芸文庫• 『』(1966年、新潮社)のち文庫• 『金と銀』(1966年、)のち• 『楽天主義のすすめ』(1966年、青春出版社)• 『協奏曲』(1966年、講談社)のち文庫• 『さらば、夏の光よ』(1966年、桃源社)のち講談社文庫• 『闇のよぶ声』(1966年、)のち角川文庫、ぶんか社文庫• 『遠藤周作のまごころ問答』(1967年、コダマプレス)• 『ぐうたら生活入門』(1967年、未央書房)のち角川文庫• 『キリシタン時代の知識人-背教と殉教』(1967年、)• 『現代の快人物-狐狸庵閑話巻之弐』(1967年、桃源社)のち角川文庫• 『』(1967年、講談社)のち文庫• 『私の影法師』(1967年、桂書房)• 『古今百馬鹿-狐狸庵閑話巻之参』(1967年、桃源社)のち角川文庫• 『影法師』(1968年、新潮社)のち文庫• 『周作口談』(1968年、)「ぐうたら交遊録」(1973年、講談社• 『それ行け狐狸庵』(1969年、文藝春秋)のち文庫• 『遠藤周作ユーモア小説集』(1969年、講談社)のち文庫• 『』(1969年、新潮社)のち文庫• 『薔薇の館・黄金の国』(1969年、新潮社)• 『楽天大将』(1969年、講談社)のち文庫• 『遠藤周作怪奇小説集』(1970年、講談社)のち文庫• 『愛情論-幸福の手帖』(1970年、虎見書房)• 『遠藤周作の本』(1970年、KK)• 『石の声』(1970年、)• 『切支丹の里』(1971年、)のち中公文庫• 『母なるもの』(1971年、新潮社)のち文庫• 『黒ん坊』(1971年、)のち角川文庫• 『埋もれた古城』(1971年、新潮社)のち• 『遠藤周作シナリオ集』(1971年、講談社)• 『ただいま浪人』(1972年、講談社)のち文庫• 『狐狸庵雑記帳』(1972年、毎日新聞社)• 『ぐうたら人間学』(1972年、講談社)のち文庫(狐狸庵閑話)• 『牧歌』(1972年、番町書房)のち新潮文庫• 『狐狸庵型』(1973年、番町書房)のち角川文庫• 『灯のうるむ頃』(1973年、講談社)のち角川文庫• 『ぐうたら愛情学』(1973年、講談社)のち文庫(狐狸庵閑話)• 『死海のほとり』(1973年、新潮社)のち文庫• 『メナム河の日本人』(1973年、新潮社)• 『ぐうたら会話集』(1973年、角川書店)のち文庫• 『イエスの生涯』(1973年、新潮社)のち文庫• 『遠藤周作第二ユーモア小説集』(1973年、講談社)のち文庫• 『ぐうたら怠談』(1973年、毎日新聞社)• 『ぐうたら好奇学』(1974年、講談社)• 『ピエロの歌』(1974年、新潮社)のち文庫• 『周作快談』(1974年、毎日新聞社)• 『 遠藤周作文庫』〈全51冊〉(1974-78、講談社)• 『口笛をふく時』(1974年、講談社)のち文庫• 『うちの女房、うちの息子』(1974年、講談社)• 『喜劇 新四谷怪談』(1974年、新潮社)• 『最後の殉教者』(1974年、講談社)のち文庫• 『恋愛作法』(1974年、社)• 『日本人を語る』(1974年、)• 『 遠藤周作文学全集』〈全11巻〉(1975年、新潮社)• 『君たちの悩みにまじめにお答えします』(1975年、)• 『彼の生き方』(1975年、新潮社)のち文庫• 『この人たちの考え方』(1975年、)• 『怠談』(1975年、番町書房)• 『身上相談』(1975年、毎日新聞社)「小説身上相談」文春文庫• 『ぼくたちの洋行』(1975年、講談社)のち文庫• 『吾が顔を見る能はじ』(1975年、北洋社)• 『観客席から』(1975年、番町書房)のち角川文庫「観客席から 私の大好きな映画と芝居」• 『続・日本人を語る』(1975年、小学館)• 『遠藤周作ミステリー小説集』(1975年、講談社)• 『ボクは好奇心のかたまり』(1976年、新潮社)のち文庫• 『勇気ある言葉』(1976年、毎日新聞社)のち集英社文庫• 『私のイエス-日本人のための聖書入門』(1976年、)• 『砂の城』(1976年、)のち新潮文庫• 『』(1977、新潮社)のち文庫• 『鉄の首枷-伝』(1977年、中央公論社)のち文庫、ぶんか社文庫• 『走馬燈-その人たちの人生』(1977年、毎日新聞社)のち新潮文庫• 『旅は道づれ世は情け』(1977年、番町書房)• 『自選作家の旅』(1977年、)• 『日本人はキリスト教を信じられるか』(1977年、講談社)• 『愛情セミナー』(1977年、集英社文庫)• 『ウスバかげろう日記』(1978年、文藝春秋)のち文庫、河出文庫• 『人間のなかのX』(1978年、中央公論社)のち文庫• 『キリストの誕生』(1978年、新潮社)のち文庫• 『ぐうたら会話集』第2-3集(1978、80年、角川書店)のち文庫• 『王妃』全3巻(1979-80年、朝日新聞社)のち新潮文庫• - 2006年に化され、にてドイツ語でも上演された。 『銃と十字架』(1979年、中央公論社)のち文庫• 『十一の色硝子』(1979年、新潮社)のち文庫• 『異邦人の立場から』(1979年、)のち講談社文芸文庫• 『周作怠談・12の招待状』(1979年、主婦の友社)• 『お茶を飲みながら』(1979年、小学館)のち集英社文庫• 『ぐうたら社会学』(1979年、集英社文庫• 『結婚論』(1980年、主婦の友社)• 『天使』(1980年、角川書店)のち文庫• 『』(1980年、新潮社)のち文庫• 『狐狸庵二十面相』(1980年、文藝春秋)• 『父親』〈上・下〉(1980年、講談社)のち集英社文庫、講談社文庫、集英社文庫• 『かくれ切支丹』(1980年、角川書店)• 『作家の日記』(1980年、)のち講談社文庫、福武文庫、講談社文芸文庫• 『遠藤周作による遠藤周作』(1980年、青銅社)• 『』(1980年、新潮社)のち文庫• 『狐狸庵うちあけ話』(1981年、集英社文庫)• 『愛と人生をめぐる断想』(1981年、)のち• 『王国への道-』(1981年、)のち新潮文庫• 『名画・イエス巡礼』(1981年、文藝春秋)「イエス巡礼」文庫• 『僕のコーヒーブレイク』(1981年、主婦の友社)• 『女の一生』(1982年、朝日新聞社)のち新潮文庫• 『足のむくまま 気のむくまま』(1982年、文藝春秋)のち文庫• 『自分をどう愛するか〈生活編〉』(1982年、青春出版社)のち文庫• 『冬の優しさ』(1982年、文化出版局)のち新潮文庫• 『あべこべ人間』(1982年、集英社)のち文庫• 『遠藤周作と考える-幸福、人生、宗教について』(1982年、)• 『悪霊の午後』(1983年、講談社)のち文庫• 『私にとって神とは』(1983年、光文社)のち文庫• 『よく学び、よく遊び』(1983年、小学館)のち集英社文庫• 『イエス・キリスト』(1983年、新潮社) - 『イエスの生涯』『キリストの誕生』の合本• 『イエスに邂った女たち』(1983年、講談社)のち文庫• 『自分づくり-自分をどう愛するか〈生き方編〉』(1984年、青春出版社)のち文庫• 『生きる学校』(1984年、文藝春秋)• 『快人探検』(1984年、青人社)• 『私の愛した小説』(1985年、新潮社)のち文庫• 『何でもない話』(1985年、講談社)のち文庫• 『ほんとうの私を求めて』(1985年、)のち集英社文庫• 『宿敵』〈上・下〉(1985年、角川書店)のち文庫 ,• 『狐狸庵が教える「対話術」』(1985年、光文社)のち文庫• 『心の夜想曲(1986年、文藝春秋)のち文庫• 『ひとりを愛し続ける本』(1986年、青春出版社)のち講談社文庫• 『スキャンダル』(1986年、新潮社)のち文庫• 『風の肉声』(1986年、大和出版)• 『狐狸庵が教える「対談学」 その方法と実地指導』(1986年、光文社)• 『私が見つけた名治療家32人』(1986年、祥伝社)• 『遠藤周作のあたたかな医療を考える』(1986年、読売出版社)• 『あなたの中の秘密のあなた』(1986年、ハーレクイン・エンタープライズ支社)のち• 『男感覚女感覚の知り方』(1986年、青春出版社)のち文庫• 『わが恋う人は』(1987年、講談社)のち文庫• 『死について考える-この世界から次の世界へ』(1987年、光文社)のち文庫• 『新 ぐうたら怠談』(1987年、光文社)• 『ピアノ協奏曲二十一番』(1987年、文藝春秋)のち文庫• 『眠れぬ夜に読む本』(1987年、光文社)のち文庫• 『あまのじゃく人間へ』(1987年、青春出版社)のち文庫• 『妖女のごとく』(1987年、講談社)のち文庫 監督で「妖女の時代」として映画化)• 『遠藤周作と語る-日本人とキリスト教』(1988年、)• 『こころの不思議、神の領域』(1988年、PHP研究所)のち文庫• 『ファーストレディ』〈上・下〉(1988年、新潮社)のち文庫• 『その夜のコニャック』(1988年、文藝春秋)のち文庫• 『春は馬車に乗って』(1989年、文藝春秋)のち文庫• 『こんな治療法もある』(1989年、講談社)• 『反逆』〈上・下〉(1989年、講談社)のち文庫 ()• 『落第坊主の履歴書』(1989年、日本経済新聞社)のち文春文庫、日経文芸文庫• 『変るものと変らぬもの』(1990年、文藝春秋)のち文庫• 『心の海を探る』(1990年、)のち角川文庫• 『考えすぎ人間』(1990年、青春出版社)のち文庫• 『生き上手 死に上手』(1991年、海竜社)のち文春文庫• 『決戦の時』〈上・下〉(1991年、講談社)のち文庫 織田信長、)• 『男の一生』〈上・下〉(1991年、日本経済新聞社)のち文春文庫、日経文芸文庫• 『ヘンな自分を愛しなさい』青春出版社、1991 「ちょっと幸福論 あなたの中の未知のあなたへ」文庫• 『狐狸庵対談 快女・快男・怪話』(1991年、文藝春秋)のち文庫• 『心の砂時計』(1992年、文藝春秋)のち文庫• 『王の挽歌』〈上・下〉(1992年、新潮社)のち文庫 ()• 『対論 たかが信長 されど信長』(1992年、文藝春秋)のち文庫• 『異国の友人たちに』(1992年、読売新聞社)• 『狐狸庵歴史の夜話』(1992年、牧羊社)のちPHP文庫• 『万華鏡』(1993年、朝日新聞社)のち朝日文芸文庫• 『』(1993年、講談社)のち文庫• 『遠藤周作編 キリスト教ハンドブック(1993年、)• 『心の航海図』(1994年、文藝春秋)のち文庫• 『「遠藤周作」とShusaku Endo』(1994年、)• 『「深い河」をさぐる』(1994年、文藝春秋)のち文庫• 『女』(1995年、講談社)のち文春文庫• 『戦国夜話』(1996年、小学館)• 『風の十字路』(1996年7月、小学館)• 『 遠藤周作歴史小説集』〈全7巻〉(1996年、講談社)• 『なつかしき人々』1・2(1996年、小学館)• 『生きる勇気が湧いてくる本』(1996年、騎虎書房)のち祥伝社黄金文庫、青志社• 『最後の花時計』(1997年、文藝春秋)のち文庫• 『無鹿』(1997年、文藝春秋)のち文庫• 『好奇心は永遠なり』(1997年、講談社)• 『「深い河」創作日記』(1997年、講談社)のち文庫、講談社文芸文庫• 『夫婦の一日』(1997年、新潮社)のち文庫• 『心のふるさと』(1997年、文藝春秋)のち文庫• 『ルーアンの丘』(1998年、)のち増補版• 『信じる勇気が湧いてくる本』(1998年、祥伝社)のち黄金文庫• 『愛する勇気が湧いてくる本』 1998 のち祥伝社黄金文庫• 『 遠藤周作文学全集』〈全15巻〉(1999-2000年、新潮社)• 『十頁だけ読んでごらんなさい。 十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。 』(2006年、海竜社)のち新潮文庫• 『遠藤周作短篇名作選』講談社文芸文庫 2012• 『人生の踏絵』新潮社 2017• 『沈黙の声』青志社 2017• 『 遠藤周作全日記』(2018年、)、2巻組 講演録 [ ]• CD版 遠藤周作講演選集〈全6巻〉、2002年3月 共著 [ ]• 『狐狸庵 vs マンボウ』(1974年、講談社) - 共著: のち文庫• 『狐狸庵 vs マンボウ PART II』(1975年、講談社) - 共著:北杜夫 のち文庫• 『まず微笑』、共著、PHP文庫、1988年• 『人生の同伴者』共著(1991年、春秋社)のち新潮文庫 海外 [ ] この節のが望まれています。 当然ながら国ごとにタイトルは違うはず。 海と毒薬 The Sea and Poison(1972年、イギリス)• 沈黙 Silence(1972年、オランダ・スウェーデン・スペイン・ノルウェー・フランス・ポーランド)• おバカさん Wonderful Fool(1974年、イギリス、Peter Owen Publishers)• イエスの生涯 A Life of Jesus(1978年、イタリア、クエリニアナ出版社)• 火山 Volcano(1978年、イギリス、Peter Owen Publishers)• わたしが・棄てた・女 The Girl I Left Behind(1978年、ポーランド、パックス出版社)• 口笛をふく時 When I Whistle(1979年、イギリス、Peter Owen Publishers)• イエスの生涯 A Life of Jesus(1979年、アメリカ、ポーリスト出版社)• 侍 The Samurai(1982年、イギリス、Peter Owen Publishers)• 十一の色硝子 Stained Glass Elegies(1984年、イギリス、Peter Owen Publishers)• スキャンダル Scandal(1988年、イギリス、Peter Owen Publishers)• 留学 Foreign Studies(1989年、イギリス、Peter Owen Publishers)• 深い河 Deep River その他の活動 [ ] 主な出演 [ ] テレビ番組• (、解答者)• (、解答者・初期)• (制作・TBS系列、とと共演)• (制作・TBS系列、15周年記念大会決勝・シルエットクイズのゲスト)• 「孤独な週末」() ほか• (1970年、系) - 医者役() CM• ゴールドブレンドCM(1972年。 2008年のCMは合成映像でと共演。 電子漢字字典(1982年)• CM(1992年) 映画• (1969年、日活) - 医者役()• (1969年、日本ヘラルド) - 女奴隷市の野次馬役() 未発表作品 [ ] 、未完成の中編小説が書かれたノートが長崎市の遠藤周作文学館で発見されたことが報じられた。 2020年2月、長崎市遠藤周作文学館で未発表の完成した小説「影に対して」が発見された。 1963年3月より後、40歳以降に執筆されたと推測される、自伝的作品。 関連人物 [ ]• - ガストン・ボナパルト(『おバカさん』、『』、『』に登場する人物)のモデルとなった神父• - 遠藤周作研究者• - 旧知の仲で、よくエッセイの中で、登場し「瞬間湯沸かし器」と遠藤は評している。 - 旧知の仲で、共著を2冊出している。 - 学生時代以来の親友で、遠藤の影響でカトリックへ入信。 - 生前、遠藤周作と会食をした際、散々からかわれたと著書で述べている。 - 先輩作家で、遠縁に当たる。 遠藤は彼の家に居候していたこともあるほか「君(遠藤)が黒ミサで生まれた子にしろと言ったからの設定が決まった」(柴田が雑誌で遠藤と対談した際の発言)という。 - 戦後間もない、学生時代に「ランボォ」という店で初めて会ったらしい。 互いにいたずらの腕を競い合った。 梅崎春生の死後、色んな思い出話をエッセーで遠藤は語っている。 - テレビ、ラジオでも活躍中の女医。 彼女の学生時代、遠藤の「トキちゃん肛門科医になったらどうだい?」の言葉に大きな感銘を受ける。 - 時代の国語教師。 「」1974年4月6日号にて遠藤と対談(対談は『伝説の灘校教師が教える一生役立つ学ぶ力』(日本実業出版社 2012年)p. 201-214に再録されている)。 - 『沈黙』を自身の台本でオペラ化した( を参照)。 - 『黄金の国』を自身の台本でオペラ化した。 - コメディアンとして売れ始めた頃、ものまねのレパートリーとしていた。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 遠藤周作は上智大学時代のことに触れられることを極度に嫌がった。 浪人時代の回想エッセイなどを数多く発表しているが、上智時代の事には全く触れていない。 自作年譜にも載せていない徹底ぶりである。 この時期の評論はが詳しい。 この試験の際に採用されたのがである。 「海と毒薬」に対する一部からの反発は強く、発表後、遠藤家に「死ね」と書かれたや、「日本の恥部を抉ってどうするつもりだ」という、果てにはが送り付けられた。 1953年死去、当時はまだ土葬だった。 医師によれば「の諸身分について、江戸時代には封建制上の身分によって大別すれば、・町医師・在医師の区別があった。 藩医は、によって召し抱えられたである。 それに準ずる身分としての場合、東西両分知家と着座家に召し抱えられた医師、即ち陪臣医があった。 町医師は、鳥取城下・・等の町で支配を受けた医師である。 藩医には御医師、無足医師の区別があった。 御医師は詰を命ぜられた医師である。 藩臣の礼席上の地位では、御近習の次席に置かれたので、御近習医師とも呼ばれた。 次に、格医師の初級の者が無足医師である。 町医師から抜擢されて藩に召し抱えられ取り立てとなった際、まず無足医師とされ、五人扶持を与えられるのが普通であった。 医師によれば「御近習医師の筆頭が御匕役で、の医師のうち特に業務の勝れた者が選ばれた。 御匕役は大体2人か3人で、の日常の健康管理、投薬、膳部の毒味などに当たった。 出典 [ ]• 現代ビジネス 2011年8月17日. 2019年12月22日閲覧。 湯梨浜町企画情報課, 編纂. 「」『広報ゆりはま』2007年1月号、鳥取県東伯郡湯梨浜町、2007年、 2019年3月15日閲覧。 , p. 54 [ ]• 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)50頁• さくらももこ『さるのこしかけ』(集英社、1992年)25-30頁。 , pp. 27-28. 遠藤周作文学全集 vol. 12所収,「合わない洋服」(1967)• 79-100. , p. カトリック新聞 1979年4月8日付• ご存じですか 41 キリスト者の信条 踏絵について デルコル神父・フェデリコバルバロ神父著 世のひかり社, 4-6頁 [ ]• ご存じですか 41 キリスト者の信条 踏絵について デルコル神父・フェデリコバルバロ神父著 世のひかり社, 25-26頁• 『朝日新聞』1979年3月6日(発行)朝刊、22頁。 , pp. 15-16. , p. - 『』• - 『』• Yahoo Japan Corporation.. 2016年3月4日時点のよりアーカイブ。 2019年3月15日閲覧。 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター. 2019年3月15日閲覧。 参考文献 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2019年3月)• 『伝説の灘校教師が教える一生役立つ学ぶ力』(2012年2月、日本実業出版社)• 遠藤順子『夫・遠藤周作を語る』文藝春秋〈文春文庫〉、2000年9月。 『遠藤周作』慶應義塾大学出版会、2006年10月。 兼子盾夫「 」 『比較思想研究』第22号、大正大学、1995年、 27-33頁。 ほか『遠藤周作の世界』(1997年9月、朝日新聞社)• 長谷川 間瀬 恵美「 」 『金城学院大学キリスト教文化研究所紀要』第12号、2008年、 79-100頁。 『遠藤周作のすべて』(文藝春秋、1998年)• 森納『因伯の医師たち 続』、1985年。 森納『因伯洋学史話』富士書店、1993年12月。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 第43回 「夜と霧の隅で」• 第44回 「」• 第45回 該当作品なし• 第46回 「」• 第47回 「美談の出発」• 第48回 該当作品なし• 第50回 「感傷旅行 センチメンタル・ジャーニィ」• 第52回 該当作品なし• 第53回 「玩具」• 第54回 「北の河」• 第55回 該当作品なし• 第56回 「夏の流れ」• 第57回 「カクテル・パーティー」• 第58回 「徳山道助の帰郷」• 第60回 該当作品なし• 第62回 「」 1970年代• 第64回 「杳子」• 第65回 該当作品なし• 第69回 「鶸」• 第71回 該当作品なし• 第73回 「祭りの場」• 第75回 「」• 第76回 該当作品なし• 第80回 該当作品なし• 第82回 「モッキングバードのいる町」• 第83回 該当作品なし• 第84回 「父が消えた」• 第85回 「小さな貴婦人」• 第86回 該当作品なし• 第87回 該当作品なし• 第89回 該当作品なし• 第90回 「杢二の世界」、「光抱く友よ」• 第91回 該当作品なし• 第92回 「青桐」• 第93回 該当作品なし• 第94回 「過越しの祭」• 第95回 該当作品なし• 第96回 該当作品なし• 第97回 「鍋の中」• 第99回 「尋ね人の時間」• 第101回 該当作品なし• 第103回 「村の名前」• 第104回 「」• 第106回 「至高聖所アバトーン」• 第107回 「運転士」• 第108回 「犬婿入り」• 第109回 「寂寥郊野」• 第110回 「石の来歴」• 第112回 該当作品なし• 第113回 「この人の閾」• 第114回 「豚の報い」• 第115回 「蛇を踏む」• 第117回 「水滴」• 第118回 該当作品なし• 第120回 「」• 第121回 該当作品なし• 第125回 「中陰の花」• 第126回 「猛スピードで母は」• 第127回 「パーク・ライフ」• 第128回 「しょっぱいドライブ」• 第129回 「ハリガネムシ」• 第131回 「介護入門」• 第132回 「グランド・フィナーレ」• 第133回 「土の中の子供」• 第134回 「」• 第135回 「八月の路上に捨てる」• 第136回 「ひとり日和」• 第137回 「アサッテの人」• 第138回 「」• 第139回 「」• 第140回 「」• 第141回 「終の住処」• 第142回 該当作品なし 2010年代• 第143回 「」• 第145回 該当作品なし• 第147回 「冥土めぐり」• 第148回 「」• 第149回 「爪と目」• 第150回 「穴」• 第151回 「」• 第152回 「九年前の祈り」• 第155回 「」• 第156回 「」• 第157回 「」• 第159回 「送り火」• 第161回 「むらさきのスカートの女」• 第162回 「背高泡立草」• 第9回:• 第13回:• 第15回:• 第27回:• 第33回:• 1943:• 1948:• 1951:• 1953:• 1954:• 1955:• 1956: ・• 1957:• 1958: ・ ・• 1959: ・• 1960: ・・• 1961: ・・・• 1962: ・・• 1963: ・• 1964:• 1965: ・• 1966: ・• 1967: ・• 1968:• 1969:• 1970:• 1971:• 1972:• 1973:• 1974:• 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遠藤龍之介フジテレビ新社長!将棋の師匠は加藤一二三って本当?wikiプロフィール

遠藤龍之介

「社会脳」と「発想脳」を育ててくれた慶應義塾に感謝しています。 在学中に学んだことを紐解いてみると、幼稚舎以来育まれた「社会脳」と「発想脳」が、現在のお仕事にも大きく役立っていました。 どのような経験を重ねて、どのような学びを得てきたのか。 遠藤君へのインタビューをご覧ください。 1 幼稚舎でのご経験について教えてください。 愛情深い先生に見守られながら、社会のルールを教えてもらいました。 幼稚舎では6年間、クラス替えもなく、ずっと同じクラスメイトたちと生活を共にする中で、生涯を通しての友達がたくさんできました。 また、幼稚舎の先生には今でも深く感謝しています。 親以外で自分を無条件に愛してくれる人、それが幼稚舎の先生でした。 いつも安心感がありました。 基本的には児童の自由にさせてくれるんですが、子どもだから、やってはいけないことをやってしまう。 そういう局面では、本気で叱ってくれるんです。 最後の、本当に許せないところだけ怒る。 だからこそ、とてもこたえて真剣に受け止めることができました。 私の両親も、嘘をつくなとか友達を裏切るなとか、大事なことは教えてくれていました。 ただ、私の場合一人っ子だったんで、それは概念でしかなかったんですよ。 学校に入るとそれが実践になる。 毎日40人50人の同世代の子と暮らしていたら、「あ、こういうことが『裏切る』ということなんだ」と学ぶことができる。 先生方には親とは違う意味で社会のルールを教えてもらった。 そういうことにとても感謝しています。 2 普通部・高校・大学を通した、在学中のご経験について教えてください。 様々な経験が、「社会脳」と「発想脳」を育ててくれました。 普通部、そして高校へ上がると、受験を経験した新しい仲間が入ってくる。 文化が混ざるんですね。 これがまたすごくいい。 ある種の厳しさ、ある種の社会性みたいなものがちょっとずつ混ざってきて。 幼稚舎っていうのはみんなどこか違うようで どこか似ているんです。 生徒のタイプというか、感じというか。 根を詰めて勉強するというようなことは、あまりない世界だったりします。 そんな中に、受験勉強をしっかりした方が入ってきてね。 「なんでこんなことまで知ってるんだろう?」と思うスーパーマン、スーパージュニアハイスクールボーイみたいな人がどんどん入ってくる。 とてもいい刺激をもらいました。 大学では文学部の2年生から三田に通いました。 三田はいろいろな意味であこがれの場所でしたね。 中学・高校とずっと男子校でしたから、女子学生と触れ合うというのがとても新鮮でした。 「あー、キャンパスライフってこういうことなんだな」と思いましたね。 18歳・19歳の年頃の男の子と女の子の違いは大きかったと思います。 女の子はもう大人になりかけていますけど、男の子はまだニキビが残っている。 女の子を眩しく感じて、最初の頃はスッと入れず、近付けなかったりもしましたね。 大学時代は色々と遊びました。 旅行のサークルに入って、スキーバスを仕立てて苗場に行くとか。 今で言う合コンのはしりみたいなものです。 ……大丈夫ですかね? 慶應の取材記事でこんなこと話しちゃって。 楽しい青春時代を送らせてもらえたので、今でも三田キャンパスの前を通ると懐かしい気持ちになります。 慶應義塾のシステムはとてもいいと思います。 安心感のある幼年時代、少しピリッとした中学・高校時代、大学では自分の意思で自分のやりたいことを自分の専攻として選べる。 6・3・3・4というのは過不足なく配分された学校制度だと感じます。 私は決して優等生というわけではなかったんですけれども、本当にいろんなことを学ばせていただきました。 人間の脳は3種類あると思っています。 勉強をする「勉強脳」。 社会に適応する「社会脳」。 そして、新しい発想を生み出す「発想脳」。 今、慶應義塾の教育を振り返ってみると、もちろん勉強もするんですが、社会脳と発想脳は特に慶應義塾に育ててもらったと思っています。 勉強だけでは得られない、この2つの脳を育てる力は、他と比べても慶應義塾に大きなアドバンテージがあると思いますね。 3 ご卒業されてからは、どのような時に慶應義塾との関わりを感じられましたか。 会社に入って仕事をし始めてから、慶應の良さを体感することは増えてきました。 在学中から、先輩と後輩の結びつきが強い校風だなと思っていました。 慶早戦で慶應が勝って、三角帽をかぶっていたら、顔も知らない先輩が「おい、ご馳走してやるよ!」って言ってくれたりね。 社会人になってからも、仕事で交流させていただいたり、人脈ができてきたりする中で、慶應の良さを改めて体感することが多いですね。 なんとなくね、慶應の人かもなって、聞かなくても分かるんですよ。 やたらスポーツ観戦が好きとか、やたらレジメンタルタイをしめているとか、同じバーにみんなで溜まりたがるとかね。 ビジネス面で具体的なディールがあるということはありませんが、あの人知っていますよ、同級生ですよ、なんていうことが色んな事を円滑にしますよね。 4 長い慶應生活を経て、福澤諭吉先生の理念をどう感じていらっしゃいますか。 現代のセンスというものを百何十年も前からお持ちだったことに驚愕します。 幼き日の思い出として、2月の福澤先生のご命日は、担任の先生の引率で元麻布の善福寺へ行ったことを未だに覚えています。 福澤先生がしたことを今の時代に照らし合わせると「今風」だったと言えると思います。 外国の文化を日本に輸入してくることに対して、ものすごく熱心な方だった。 グローバリズムをどう日本にフィットさせるか。 ……こういう真面目なこともちゃんと言っておきたいので言いますけど。 西欧の列強から日本をどう守るか、といったことにもすごく腐心された。 フェミニズムと言ったら変かもしれませんが、男女の格差みたいなものにも、早い時期に着目して、今では当たり前の一夫一婦制を当時から仰っていた。 現代のセンスを百何十年も前に持たれていたことに驚愕します。 時代が新しくなればなるほど、福澤先生の感覚というのは色褪せずにより輝く感じがしますよね。 時代の転換点に生きているが故に、波をかぶることも多かったと思うし、儒教的なものに対する反駁も、当時はとても勇気が必要だったと思うんですよ。 官学だったんですから。 意志の強さをお持ちだったと思うし、自分もこの歳になって自分の人生と重ね合わせて見ると、改めて福澤諭吉先生の偉大さを感じますね。 5 普通部の生徒に「目路 めじ はるか教室」を実施されたご感想を聞かせてください。 ピュアでグラデーションのある反応が面白かったです。 普通部の在校生に卒業生が、自分の仕事について講演をして、所属する職場の見学もしてもらうというのが「目路はるか教室」です。 私の時は中学1年生が対象でした。 テレビ局に来た生徒たちは喜んでいましたね。 その後生徒たちが書いた感想を文集として発行するんですが、内容は基本的にピュアで面白いながら実に幅広かったです。 ものすごく大人っぽいことを書いてくる子もいます。 「時代の境目に置かれたテレビの現状がよくわかりました」みたいな。 と思えば、別の子は「大好きなアイドルグループの話が聞けてウルッときました」とか。 大学でも寄附講座を行ったことがあります。 その時も同じようにレポートが学生から提出されたのですが、受けた印象は普通部生徒のそれと同じでした。 丸文字で「有名俳優の話が聞けて良かったです」という人もいるし……随分内容にグラデーションがあるんだな、と思いましたね。 6 テレビ局で働こうと思われた理由を教えてください。 映像の世界に興味がありましたが、映画会社は採用がなかった。 フジテレビでは突然の嵐が吹いていて、楽しかったですね。 映像、特に映画の世界に行きたいと思って、大学時代に松竹でアルバイトをしていました。 「男はつらいよ」の制作現場で、助監督の一番下みたいなことをやらせてもらいました。 いい体験でしたね。 映像業界に対する自分の憧れというものが具体的になったと思います。 しかし当時、映画会社では採用がなかったんです。 制作部門だけでなく、映画会社全般で採用がありませんでした。 それでテレビ会社を受けました。 フジテレビで一番長く勤めたのは編成という部署です。 様々な番組の企画を取捨選択してテレビの時間割にあたる番組表を決めます。 フジテレビは当時から柔軟に若手に権限委譲をしていましたので、20代30代の人間がテレビの放送スケジュールを自分たちで決められる環境でした。 若手ながらチャンスを与えてもらって楽しかったですね。 入社した1981年は視聴率があまり良くなかったんですが、その次の年から一気に良くなったんですよ。 私が入社した時のフジテレビのキャッチコピーは「母と子のフジテレビ」という非常にオーソドックスなものでした。 それが入社して半年ぐらい経ったら突然変わって「楽しくなければテレビじゃない」に。 概念が根底から変わった感じがしましたね。 プロダクションにいた方を全員社員として採用するなど組織体制上でもドラスティックなことをやり、こちらの面でも翌年ぐらいから効果が出てきました。 何も知らずに入ったら、突然嵐が吹きだした。 すごい時に入ってきちゃったなと思いました。 でも、楽しかったです。 若者は変化しているところに入るのが楽しいものなんですよね。 7 慶應義塾で学ばれたことは、ご活躍の助けになりましたか? 愛されるための技術。 これは慶應義塾メソッドだと思います。 あるべきものの考え方とか、社会性とか、そういうことが身についていて、会社に入ってから慶應義塾に対してすごく感謝しました。 入社してまだひと月目ぐらいに電話番をやっていたんですよ。 「俺は悪くないけど、謝りにいくべきだろうな」と思って、報道局長のところに行きました。 「大変失礼いたしました。 新入社員の遠藤と申します」って。 その人にはその後ずっと可愛がってもらいました。 これこそが慶應義塾メソッドだと思いますよ。 そういうことがすごく役に立っている。 慶應義塾出身の人は社交性、社交スキルが高い人が多いですよね。 70歳近くになった僕の先輩が、80歳ぐらいの先輩に「おじちゃま」とか言ったりしている。 社会脳の半分ぐらいを占めているのは愛されるための技術ですよね。 そういうのが上手い人が多い気がします。 8 放送業界を目指そうという塾生の皆さんに対してメッセージをお願いします。 放送業界はコンテンツ業界になります。 好きなものだけでなく、裾野も見てみましょう。 放送業界は早晩コンテンツ業界になると思っています。 放送業界というのは、テレビ局やラジオ局といったフレームがあって、テレビやラジオを通じてエンターテインメントを届けると考えられていると思うのですが、近年は動画配信サービスやゲームなど、さまざまなコンテンツがあって、これらがせめぎ合っています。 だからコンテンツの出し口は地上波のテレビだけではなく、多岐に渡ります。 テレビ局と言っていますが、テレビだけをやっているわけではない、言うならばコンテンツ局だと思って欲しいのです。 「『作り手が自分の心に忠実なソフトを作り、それをお客様に提供して心を動かしていく』というビジネス。 」そういう概念で見てほしいと思っています。 アマデウス・モーツァルトみたいな天才じゃない限り、多くの経験と豊富な知識がないとクリエイティブなものは生まれてこないと思うんですよ。 経験と知識が触媒となって発想が生まれてくる気がします。 老婆心ながら言うと、自分が好きな物を検索することは尊いんだけれども、それだけだと情報が単一的になります。 ある程度裾野の方も見ないと、発想ってどこかで止まっちゃうんじゃないかなと。 検索するのもいいけど、新聞を見ると自分が関心のない情報も載っている。 Amazonで買ってもいいけど、本屋さんに行くと「あ、こういう本もあるんだ」という発見がある。 無駄かもしれないけど、そういう経験もやってもらいたいなと。 今はSNSで会話ができるので、直接人と会う機会が少なくなっている人も多いと思います。 でも、面倒くさいかもしれないけれども、会うことを大事にしてほしい。 面倒くさい時間も決して無駄ではないですよということは言っておきたいですね。 9 今後の慶應義塾に期待することを教えてください。 学生と企業の間の橋渡しを一緒にやっていきたい。 慶應義塾のスタイルというのは素晴らしいと思います。 その上で敢えて言うなら、インターンシップとはまた違った、社会に出るための実験プログラムとかセミナーとか、そういうのをやってもらえたらありがたいという感じがしますね。 インターンシップはその業界独自の知識と技術を身につける点では効果的ですが、それとはまた違うものも必要だと感じています。 今の20代と40代50代の価値観には当然ギャップがあるので、その間を埋めていく作業というのかな。 例えば、私が今一番気になっているのは「大丈夫です」という言葉なんです。 「飯食いに行こうよ」と若い方を誘ったら「大丈夫です」って言うんで、会社の出口で待っていたんですよ。 来るのかと思っていたら、それは「誘ってくれなくても大丈夫です」という意味だったとかね。 働き方に対する概念も違うじゃないですか。 ある程度、会社側も学生側も分かって就職した方が、お互いにとってハッピーな感じがしますよね。 企業の方も努力しないといけない。 学生と企業の間に良い橋渡しができるように、一緒にやっていけたらいいと思っています。

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フジ・メディアHD社長に金光修氏 フジテレビ社長は遠藤龍之介氏

遠藤龍之介

遠藤龍之介の経歴や大学 遠藤龍之介(えんどう りゅうのすけ)さんは、 1956年6月3日に 東京都に生まれました。 前述した通り、 お父さんは遠藤周作さんです。 芥川賞作家ですからね〜 ものすごいビッグネームです! 遠藤龍之介さんは、 幼稚舎から慶応義塾に通い、 高校も、 大学も慶応義塾のまま。 エスカレーターですね〜 慶応義塾大学では、 文学部仏文科を専攻しました。 父の周作さんも、 仏文科でした。。 お父さんへの憧れが、 強かったのでしょうか? 大学卒業後は、 フジテレビに入社。 ディレクターでした。 その後、 順調に出世していきます。 編成制作局編成部副部長 同企画担当部長 編成部長、、、 2003年6月から広報局広報部長 その後管理職を歴任し、 2012年常務取締役になります。 2013年6月27日付で現職の専務取締役に就任します! 会社でもエスカレーターに乗ってますね! こんなわかりやすい人生って、 あるのでしょうか?? 所属している組織が、 生まれてから2つしか無いなんて!! おもしろいですね〜 スポンサーリンク 遠藤龍之介の家族や息子 遠藤龍之介さんの家族や息子さんについて調べてみたのです。 するとなんと、 遠藤周作の息子としての遠藤龍之介さんしか出て来ない!!! どんだけ 「息子・遠藤龍之介」は有名なんですか!!? なので、 遠藤龍之介さんご自身が作られた家庭のことについては、 調べられませんでした。 こんなことって、、あるんだ。。 とはいえ、 遠藤龍之介さんの大学時代の彼女ばなしで、 父のせいでもめちゃった・・ みたいな対談記事もありましたので、 きっとステキなご家庭があるのだと思います。 父のせいで揉めちゃったのは、 昔は家電しかなかったので、 いつも家にいる父・遠藤周作さんが電話をとり、 いわんでも良いことを言ってしまうということです。 鈴木さんじゃない女性からかかって来た電話に、 「あー、あなたが息子と旅行に行った鈴木さんね」とか。。。 万事休す・・ なかなか大変な青春時代ですね〜 関連記事:.

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