は くす きのえ の 戦い は く そんこう。 白村江の戦い / www.worldfranchising.com

百済|百済の歴史

は くす きのえ の 戦い は く そんこう

韓国の 「国家情報局」とでも訳せる機関 National Intelligence Service の web 情報 辺りかな で、古代朝鮮の歴史報道を見れます。 所謂「三韓時代」には、koguryo 高句麗)、 silla 新羅)と並んで、このpaekche(百済)が出て 来ます。 つまり、「ペクチェ、ハクスヒェ、はくすきのえ」です。 韓国では「百済」とは言わずに「ペクチェ」と呼びます。 日本では「白村江」をわざわざ「はくすきのえ」と呼んで 来たのですね。 歴史は案外、正直なものです。 「白村江の戦い」は つまり、「百済救援の戦」だったのです。 倭国から、幾千艘の船(筏的と云われる)が、兵士ら を載せて、百済を救援の為、艱難辛苦、やって来ました。 そして、この戦は敗戦でしたのです。 その事は覚えておきましょう! なお、知恵袋に、下記の資料があります。

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中大兄皇子(天智天皇)について:中臣鎌足との関係やどんな時代だったか解説

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By Evawen [ or ] 百済 くだら は、朝鮮半島南西部を占めた古代国家。 一般的に、支配階級は北の高句麗王族と同じく、中国満州付近から出た扶余族と見られています。 「隋書」百済伝には、「百済の祖先は高 句 麗国より出づる」とあり、新羅、倭国、また中国からも渡来してきた人が住み、他民族的な国家を形成していたようです。 韓国・朝鮮史上では、およそ紀元前1世紀から紀元後7世紀までの間、半島北部の「高句麗」、南東部の「新羅」、そして南部の伽耶諸国とあわせて南西部の「百済」の三国が支配していた時代を「三国時代」といいます。 温祚は、慰礼城 現在の広州市 南漢山城か? に都を定め、10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼んだのが始まりとされています。 韓国の教科書でも、紀元前18年を百済建国の年として採用しているそうですが、韓国の歴史家の間では、紀元前1世紀から紀元後3世紀まで様々な説があり、日本や中国では3世紀頃の成立という見方が有力です。 そのため聖王は、倭国に援軍を要請、仏像・経典などを送ったのもこの時期です。 聖王は、積極的に仏寺の造営をすすめ、王興寺・定林寺などの寺址が扶余で発見されています。 しかし、聖王は、554年に新羅との戦いで戦死します。 その後、百済は次第に、かつての宿敵・高句麗と同盟を結ぶようになり、百済最後の王となる第31代義慈王は、執拗に新羅に攻め入ります。 国際的にも孤立することとなった新羅は、善徳女王をはじめとして、唐に救援を求めるようになります。 はじめは新羅と百済の和平を求めていた唐ですが、百済 義慈王に和平の意思はなく、唐の3度にわたる高句麗制圧も失敗に終わると、唐は新羅と同盟を結び、百済を攻撃する方針に切り替えていきます。 こうして半島情勢は、「百済-高句麗」VS「新羅-唐」の対立構造となり、日本 倭国 ががどちらに着くかが外交の焦点となりました。 日本 倭国 からも、3万7千人余りの軍が送られ、豊璋らとともに、663年、「白村江」 今の錦江? の河口付近で、唐・新羅の連合軍と戦いますが、結果、大敗に終わりました。 日本史上の「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」です。 百済滅亡についで、唐・新羅連合軍は、668年に高句麗を滅ぼし、これによって三国時代は終わり、統一新羅の時代がはじまりました。

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「白村江の戦い」は、「はくすきのえのたたかい」と読んだ筈。何時、どうい...

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四方を海に囲まれた日本は大陸からの外敵と古くから戦ってきましたが、日本の方から大陸の敵に立ち向かっていった数少ない事例が 『白村江(はくすきのえ)の戦い』です。 当時の朝鮮半島情勢 当時(7世紀)、朝鮮半島には『高句麗(こうくり)』『新羅(しらぎ)』『百済(くだら)』の3つの国が存在。 この3国は4世紀以降三つ巴の争いを繰り返していたのですが、618年に中国の王朝『唐』が成立すると3国にたいして朝貢(貢物を捧げる事)するよう呼びかけます。 3国は『唐』に使いを派遣、『唐』は3国を 冊封体制に組み入れます。 中国,歴代王朝が東アジア諸国の国際秩序を維持するために用いた対外政策。 中国の皇帝が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて君臣関係を結んで彼らにその統治を認める(冊封)一方,宗主国対藩属国という従属的関係におくことをさす。 出典: 「3国仲良く唐の支配下」と思っていたら、642年、『百済』と『高句麗』はこんな密約を交わします。 我が国(百済)も『新羅』から奪い取った城を全て返還するように、と『唐』が言ってきたけど無視! 言う事を聞かない国はお仕置き、と『唐』は隣接する『高句麗』に侵攻。 しかし、『高句麗』は同盟国の『百済』や伝統的に友好関係にあった日本の援助もあり唐の3度に及ぶ侵攻を跳ね返します。 一方、『新羅』は『唐』の風俗や制度を積極に取り入れる『唐風化政策』をとって『唐』と友好関係を築きます。 百済滅亡 660年、『唐』と『新羅』の連合軍20万人が『百済』へ侵攻。 『百済』は滅亡します。 しかし、滅亡後も必死に鬼室副信(きしつふくしん)を中心に抵抗していた『百済』の遺臣達は日本に使者を送り、 「百済が唐と新羅に滅ぼされ、王族が捕虜になった」と報告。 そして、日本に人質として滞在している 「王子の余豊璋(よほうしょう)を王にたてて百済を再興したいから軍を派遣してほしい」と要請します。 なぜ、百済の王子が日本にいるのか? 日本は『百済』の南端に出先機関『任那日本府(みまなにほんふ)』を設置していましたが、過去に『新羅』が『百済』へ侵攻した際に『任那日本府』のある地域を占拠します。 もちろん『任那日本府』はお返し致します。 また、お返しする担保として我が国の王子である余豊璋を日本にお送りします。 『任那日本府』のみならず、人質も差し出すというのです。 唐・新羅 VS 日本・百済遺臣 『百済』の要請を受け、 「百済とは古くから付き合いがあるし、このまま放っておくと唐の圧力が日本に及びかねん」と女帝・斉明天皇(さいめいてんのう)は軍の派遣を決定。 自ら兵を率いて大和から2ヶ月以上かけて九州へ。 2人の息子、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)も妻を連れて参加しました。 この時代、 女性を戦場に連れていく事はタブーではなかったのです。 さて、九州から『百済』へ軍を向けようとした矢先に斉明天皇は病死してしまったため、皇太子である中大兄皇子が政務を引継ぎます。 『百済』へ武器と食料を送り、自らも軍を率い海を渡って『百済』で戦い、『新羅』を圧倒します。 『新羅』としては『唐』の援軍を待っていたのですが、『唐』は以前から『高句麗』と戦争状態にあり、そう簡単に駆けつける事ができませんでした。 戦況有利な日本だったが・・・ ここまでは日本有利な戦況でした。 日本は、その後も来るべき決戦に備えて武器、船、兵糧を準備。 そして、663年2月、『百済』へ3万人弱の兵を派遣。 これを知った『唐』も対抗して大軍を派遣します。 いざ一致団結して決戦、という時、『百済』に大きな痛手となる出来事が起こります。 百済復興運動の中心人物である 鬼室副信が謀反の疑いをかけられ粛清されてしまいます。 敵の中心人物が殺された事を知った『唐』は、百済復興運動の本拠地である周留城(するじょう)に向かって大軍を派遣。 日本もさらに『百済』を救援するために1000隻を周留城がある錦江流域へ派遣します。 この河口は『白村江』とよばれていました。 白村江の戦い 百済王となり周留城にいた余豊璋は、日本からの援軍がこちらに向かっていることを知り、 「白村江河口まで出迎える」といって城を出ました。 本人にとっては若い頃に20年以上過ごした日本に親しみを感じたうえでの行動だったのでしょうが、王が軽々しく城を離れる行為を目の当たりにした百済遺臣達は、鬼室副信が粛清された事に続いてさらに士気が低下してしまいます。 そして、日本の先着部隊が『白村江』に到着すると、たまたま『唐』の水軍と遭遇し海戦。 あっけなく敗れてしまいます。 翌日、全面戦争が勃発。 ここを突破しないと周留城へたどり着く事ができません。 数では上回っていた日本軍ですが、実態は小船を寄せ集めただけの船団。 一方、『唐』の水軍は最新技術の大型船で編成。 兵士も日本軍は豪族の寄せ集めで作戦も何もなく先陣を争って戦うだけでした。 その結果、日本軍の船は次々沈められ、炎が空を覆い、海は血で赤く染まったといいます。 日本は完敗し、亡命希望の百済人を船に乗せ帰還。 唐の報復を恐れる 帰国後、中大兄皇子は『唐』の報復を恐れ本土防衛に力を入れます。 日本に亡命してきた百済人の協力で、福岡県大宰府近くに大掛かりな壕を作りました。 これは、約600年後のモンゴル襲来で役立ちます。 そして、対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり)を置きます。 663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。 出典: 667年、防衛上の観点から奈良の飛鳥から滋賀の近江大津に遷都。 翌年天智天皇となりました。 さて、『唐』はというと、相変わらず『高句麗』と闘い続けており 日本になんてかまっていられない状況でした。 『唐』は『白村江の戦い』から5年後に『高句麗』を滅亡させたのでした。

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