源氏物語須磨の秋 品詞分解。 空蝉(源氏物語)|新編 日本古典文学全集|小学館

3分で読む源氏物語・あらすじ/須磨~紫の上を残し都を去る光源氏

源氏物語須磨の秋 品詞分解

悲しみの離別 世間の風の冷たさが身に沁みて感じられるようになるにつれ、源氏は都を捨ててしまおうと決心する。 うかうかしていると朝廷から流罪などの罰を受けるやもしれないので、先手を打って政治の中枢から離れてしまうことに道を見出したのである。 そうとなればいつ再び都に戻れるかも判らないと、数々の人のもとへ別れの挨拶に向かう源氏。 まずは左大臣家を訪問する。 悲しみに暮れる左大臣と何も判らずにつきまとっては遊んでいる幼い夕霧に涙を流し、今や宰相の中将となった頭の中将やこの家の 中納言の君という女房とも睦まじく別れ語りをした。 二条院でも紫の上は惜別の悲しみに暮れていた。 都を離れる源氏について行きたいと申し出るが、人里離れた土地に連れていけるはずもなく、源氏は家臣や財産を紫の上に託して出立の準備をする。 右大臣に目をつけられることを憚った兵部卿宮は娘の紫の上に対して手紙すら寄越してこなくなった。 兵部卿宮の妻に至っては紫の上に訪れた不運を笑うありさま。 落ち込む紫の上を源氏は、何年経ってもお許しがでなければ、どんな岩屋住まいに落ちぶれてようが、そのときは必ず迎え入れると慰めた。 須磨の侘び住まい 一日で着く距離とはいえ、田舎の須磨はただただ侘びしい。 とはいえ従者の良清が指示して造らせただけに、住まいは素朴ながらも風情ある佇まいではある。 梅雨の季節にもなれば人恋しさもあって、源氏は都へ使いを遣り、紫の上や入道の宮、朧月夜の近況を尋ねるのであった。 また伊勢の六条御息所とも手紙のやり取りをしては昔を悔み、現世の罪を滅ぼしに勤行の生活を送りつつ、困窮している花散里への財政の援助を家臣に命じたりもした。 朧月夜は源氏の都落ちを悲しみつつも、朱雀帝の寵愛は変わらぬままであった。 朱雀帝もまた源氏がいなくなったことを悲しみ、桐壷院の遺言に背く結果となったことを悔やんでいるが、弱気な性格もあってどうにもならない。 未だ源氏を想う心の内を見透かされた朧月夜だったが、朱雀帝はそれを責めるわけでもなく、それがさらに朧月夜の良心を苦しめる。

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源氏物語『須磨』(げにいかに思ふらむ、~)解説・品詞分解

源氏物語須磨の秋 品詞分解

「源氏物語:須磨の秋」の要点とは• 光源氏が様々なことを思い出し、悲しみに暮れる• 美しい情景描写をまじえながら、心情が丁寧に描写されている 「源氏物語:須磨の秋」の登場人物• 光源氏• 供人 「源氏物語:須磨の秋」の重要な場面• 須磨は「心づくしの秋風」が吹く季節で、光源氏も寂しく思う• 光源氏が琴を鳴らし歌を口ずさむと、供人たちも目覚めはじめる 「源氏物語:須磨の秋」の内容要約 須磨は「心づくしの秋風」が吹き込む季節になりました。 ある夜、目が覚めた光源氏は風の音を聞きながら都を恋しく思い涙を流します。 琴を鳴らして歌を口ずさんでいると供人たちも起き、ふるさとを思って泣きます。 花が咲き乱れる夕暮れ、光源氏の姿はこの世のものとは思えないほどに美しくありました。 光源氏と供人たちはふるさとを思いながら歌を詠みます。 八月十五日の夜、光源氏は仲秋の名月を眺めながら『白氏文集』の「二千里外故人心」という詩を読みます。 そして、藤壺の宮とのことを思い出して悲しみにくれます。 光源氏は藤壺の宮のこと、兄のこと、父のことなどを順番に思い出し「恩賜物の御衣は今此に在り」と菅原道真の詩を口ずさみます。

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源氏物語須磨の秋品詞分解現代語訳助動詞敬語

源氏物語須磨の秋 品詞分解

古くから「須磨寺」の名前で親しまれています。 真言宗須磨寺派の本山です。 平安時代初期、兵庫県和田沖で引き上げられた聖観世音菩薩像を886年(仁和2年)光孝天皇の勅命により、聞鏡上人が本尊とし奉祀したのが始まりとされています。 源平ゆかりの古刹として知られますが、このページでは源氏物語と在原行平を中心にご紹介させていただきます。 須磨には、年返りて、日長くつれづれなるに、植ゑし 若木の桜ほのかに咲き初めて、空のけしきうららかなるに、よろづのこと思し出でられて、うち泣きたまふ折多かり。 (訳=須磨では、年も改まって、日が長くすることもない頃に、植えた 若木の桜 がちらほらと咲き出して、空模様もうららかな感じがして、さまざまなことがお思い出されなさって、ふとお泣きになる時が多くあった。 ) 【源氏物語の本文と訳は 渋谷栄一先生のwebサイトより引用】 須磨寺の境内 源平の庭には、光源氏が紫の上を想って植えた 「若木の桜」跡があります。 花が咲いているところを見てみたいですね。 この制札は宝物館に展示してありました。 在原行平と須磨琴(一弦琴) 須磨琴(一弦琴) 中納言在原行平卿像 須磨琴は一枚の板の上に一本の絃を張っただけの楽器です。 須磨流謫中の中納言在原行平が浜辺に流れ寄った板片に自身の冠の糸を張って琴を作ったことが起こりだとか。 須磨寺宝物館では最古の須磨琴と中納言在原行平卿像を並べてに展示してあります。 須磨琴保存会は、1965年(昭和40年)に須磨寺を本拠地として発足され、須磨琴<一弦琴=いちげんきん>の演奏活動をされているそうです。 ご本堂 須磨寺のパンフレットの本堂の欄によりますと、 在原行平が参籠して勅勘を許されたと伝えられているそうです。 在原行平が須磨に籠ったのは、「古今和歌集」の詞書では文徳天皇の御世(850年〜858年)といいます。 須磨寺の創建は 886年であり、時間的に一致しませんがこういった伝承は伝わることに意義があると思います。 源平ゆかりの史跡 源平の庭 平敦盛・熊谷直実の一騎討ちの場面を再現した庭。 敦盛首洗池 熊谷直実に討たれた平敦盛の首を洗ったと伝わる池。 源義経腰掛松 源義経はこの松に座って敦盛の首を実検したと伝えられています。 境内にはこのほかにも源平ゆかりの史跡や見どころが多いのですが、またの機会に時間をかけてめぐりたいです。

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