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不登校の現状とは?文部科学省による不登校の定義と人数・7つのタイプについて

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プロフィール 2012年6月20日更新 代表 長阿彌 幹生 (ちょうあみ みきお)のプロフィール 北九州市生まれ。 同志社大学を卒業後、大手流通企業で主に商品開発、販売企画、新規プロジェクトなどを担当。 1996年に、娘の不登校を考えるために「お父さん研究会」をつくる。 1998年、家族の病気介護のために会社を退職。 不登校、離婚、リストラ、職場のストレスなど、人間関係から起こる様々な問題の改善について研究しています。 また、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌などに出演や執筆などを行ったり、講演会やシンポジウムなどの講師や司会、パネラーとして研究成果などを紹介しながら、明るい社会=なかよし社会づくりを進めています。 2003年9月には、「子どもの育つ地域社会づくり」を目的としたNPO法人「子どもNPOセンター福岡」を仲間と共に立ち上げて、子ども関係のNPO団体のネットワーク化や行政とNPOとの協働をの推進を行っています。 2008年からは 「幸福度世界一の国」デンマークとの交流事業を開始し、デンマークから教育や福祉などの講師を招いて講演会を開催したり、デンマーク研修ツアーやデンマーク研究会を主催し、日本の社会の高福祉化について考える輪を拡げています。 2012年4月からは福岡市共働提案事業として「不登校児童生徒の保護者支援のためのネットワーク(不登校よりそいネット)づくり」事業を福岡市教育委員会と共にスタートさせて、福岡市における不登校への支援体制の充実を目指しています。 2012年5月からは福岡県青少年問題協議会の専門委員として、 福岡県の青少年が元気でのびのびと成長していける県づくりのための「第4次福岡県青少年プラン2013〜2016」策定のための提案づくりに協力しています。 その他、自治体との協力や連携の中で、市民やNPO活動家の立場からの意見や提案を行い、官民の壁を超えて、住み良い地域づくりに取り組んでいます。 kyoikubunka. futokosien-net. main. ocn. fdfs. city. fukuoka. kyoikubunka. kyoikubunka. kyoikubunka.

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不登校の現状とは?文部科学省による不登校の定義と人数・7つのタイプについて

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文部科学省の「不登校の原因」は、あまりあてにならない 不登校の原因はさまざまありますが、一応毎年文科省から不登校の原因についての資料が発表されています。 しかし、これにはいくつか見落としがちな問題点があると私は感じています。 平成30年度小中高の不登校要因(文科省)ベスト3 文科省から発表されているを見ていきたいと思います。 詳しくは直接リンク先を見ていただければいいんですが、ここでは私がかいつまんで解説していきたいと思います。 私も昔答えた記憶がありますが、このアンケートは文科省が各学校から集計したものをまとめたものです。 その不登校の児童生徒が、なぜ今不登校になっているのかを答えるアンケートですね。 回答は選択式になっています。 選択肢は以下の10個です。 「不登校要因アンケート」はあまりあてにならない 以上の問題点があると私は個人的に感じているので、まあ、要するに このアンケート結果にあまり引っ張られ過ぎてもいけないなと思っています。 過去の記事で私の子どもが不登校になった原因は一応「周りのレベルについていけなかった」という理由があったと書きましたが、ほかにも 「そもそも学校の先生が嫌だった」とも言ってましたし。 とにかく誰かには必ず相談すべきです。 トラブルの内容によっては、なかなか誰にも相談できないということも考えられますが、でもそこはやはり相談すべきです。 誰かに話すべきです。 単独で解決というのはこの種類の問題の場合、特に難しいと思います。

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不登校への対応について:文部科学省

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不登校や引きこもりが社会問題とされ始めて久しい。 「不健全」「逃げている」「甘え」「将来困る」などなどボキャブラリーの少ない批判の言葉が飛び交う場面は散々見るし、まあ実際にその指摘も必ずしも間違ってはいないだろう。 それならば私は逆に、そういった状況や選択を全力で肯定してみようと思う。 勿論、物事にはメリットとデメリット、両方の側面がある。 ただ、不登校や引きこもり、ニートなどは余りにもメリットの面に焦点が当てられることが少ない事柄のように思う。 なにも盗みや人を傷つける犯罪という話ではないのに、世間の人間は極端に判断しがちだ。 知らないことであるから、仕方のない部分もあるかもしれない。 だがどんなに否定したくても、物事にはメリットとデメリット、両方の側面があるのだ。 前提としてこの記事は、不登校や引きこもりを肯定的に捉え解釈し、皆がより良い未来へ展開させるためにはどのようにしたら良いのか考えるための1つの材料として頂きたい。 あくまでも、不登校や引きこもりはいいぞ!と勧めるものではない。 各々、自分に適していて、かつ自分の将来を広げ豊かにできる選択をして欲しい。 まず肯定的な話をする前に、何故不登校や引きこもりが『ダメなもの』とされがちなのか、私なりの分析をしてみたい。 まあ、大半の人が思い描くデメリットは大体こんなところではないだろうか。 私は不登校や引きこもりによるデメリットについてあまり焦点を当てて考えたことがないので、他にもあれば教えてもらえたら良い機会になると思う よし、ではここから『肯定』に入っていこう。 まず学校というのは ・不特定多数の ・偶々環境に共通する 類似する 部分があっただけの人間が ・"無造作"に放り込まれ ・「コミュニティ」を形成し ・設定されたルールや規則に従って ・脱落せずに卒業というラストまで生き抜く いわばダンジョンのようなものだ。 だが、そのダンジョンの正当性や合理性は如何程なものだろうか。 現在までの学校はどう咀嚼しても『すべての子どもを、既存の社会において、求められることに求められる範囲で応えられる人材に仕上げる』ための施設だ。 それはある程度周りを見て生きてきた人間は既にみんな気付いていることだと思う。 私が今更言うこともない。 つまり『上限と下限を定め、どちらかがそのラインを越えそうならば徹底的に削る』というプロセスを踏むための場所だ。 即ちそれは『突出したものを無くす』ことであり『創造性を奪う』ことである。 よく「子供はみんな発想力や創造性が飛び抜けている」と大人になった人間が口にするが、それは貴方もそうだった。 人間が人間である定義はどこにあるかを考えたことがあるだろうか。 私は人間を人間たらしめているのは『創造性』であると思っている。 人類初期の狩道具然り、現代まで様々に形を変えて受け継がれてきた社会システム然り、今貴方が握りしめているスマートフォン然り。 創造というのは、突出した場所からしか生まれない。 それまでの範囲、環境、生き方、価値観e. それらに満足し縛られ正義だと盲信すれば、そこに新たな創造は一切無くなる。 創造されなくなるということは、現状を維持するということであり、現状を維持するというのは停滞するということだ。 停滞した場所は必ず淀み、腐り、力を失っていく。 既存の社会に向けての施設=進化していく未来を見据えていない 突出したものを削る=創造性を削る この二つとそれに伴う圧力は、子供ながらに 純粋な子どもであるからこそ 大いに役立つ。 大抵の子どもは、見事に規範の範囲内におさまっていくのだ。 施設側 やその上 にとってそれはもうばっちり、計算通りの展開である。 勿論、既存の社会が滅びるのに、短くても30年くらいはかかるものだろう。 大抵の場合、境目というのは曖昧だが。 そうやって受けた"教育"によって、大体この先30年弱は生き抜いていけるということだ。 よかったよかった。 一安心。 更に都合の良いことに、古から続く人間の本能は、自分と違うものを排除しようとする。 自分の現状を脅かしかねない異分子は、不安要素であり、生命の危機なのだ。 だって、なんとか今、生きていられるのだから、それが優先だ。 生命として当然のことだろう。 例え自分の現状が「不幸」であっても「奴隷」であっても「ギリギリ」であっても『生きていられるのだから大間違いではない』はず。 だから、その"平和"な今を壊しかねない者は少しでも公正させるか、遠くに追いやる。 それは生存本能だ。 そういう本能を持った人間同士が、本人の資質や能力など度外視した状態で「皆同じであれ」という圧力のもと、ランダムに放り込まれるわけだ。 果たして、人生駆け出しの6歳そこらの人間に、その環境下で「コミュニケーションスキルや社会性を学び身につけろ」と強要するのは合理的だろうか。 勉強にしろ何にしろ「わかる」「できる」というのは本人にとって最大のモチベーションである。 しかも、幼少期の「わかる」「できる」という感覚はその後の人生に大きすぎるほど大きく影響していく。 逆に「うまくいかない」「自分はこれが苦手かもしれない」というのは、大きな挫折感やコンプレックスとして根を張る。 そして人格や認識まで歪めるものだ。 自己肯定感は勿論、その他にも能動的肯定的に人生を乗り切っていくための基盤を作る時期に、何故敢えて難易度の高いところから始めさせるのだろう。 幼い同世代の子ども同士というのは残酷だ。 本能剥き出し、良いも悪いも倫理も摂理もあったものではない。 ましてや「皆同じであれ」と創造性を削ることが目標の施設の中のこと。 良くも悪くも、突出を異分子とされるが故に"脱落"する子どもは少なからず居て当然なのだ。 では果たして、それは本当に『脱落』なのだろうか? 確かに、ゴールを「卒業までその場所で過ごす」と設定したならばそれは脱落だろう。 では貴方がたの人生はそこで終わりなのか? それさえ出来れば充分なのだろうか。 人生の成功や生存においての、絶対条件だろうか。 答は否であるはずだ。 人生は学校を卒業してからの方が長い。 何かができなくても、他のことができれば生きていける。 人生の成功や生存において、絶対条件とは身体が生理的に行なっているものだけだ。 最高の、千載一遇の『チャンス』なのだ。 学校時代に限った話ではない。 いくらか年齢が行って引きこもりと呼ばれるようになったとしても、その環境が機会であることに変わりはない。 社会に出るという戦い方、向き合い方をしている人に対しても同じことが言える。 『機会に対峙している』という意味では、どちらにも大差はない。 ベクトルと、順番と、手段が違うだけの話だ。 内側からまわり込むのが適した人もいれば、外側から攻め込むのが適した人もいるだろう。 一番悲劇的なのは、その資質や能力を理解・把握せずに、芽吹かぬ種として終わらせてしまうことだ。 そしてその場合、大抵本人も周囲もどこか『不幸』という感覚に苛まれていることだろう。 不幸が一概に悪いことではないと思う。 けれども、無くていい不幸や、しなくていい苦労が、この世にはまだまだ沢山保たれているように見える。 勉強や知識、教養なんかについては、言うまでもなく、自らいくらでも学べる時代なのであまり言うことがない。 学歴は確かに信用のひとつではあるが、そこだけに拘る人間や組織の視点や創造性などたかが知れているので、長い目で考えればそこまで考慮する必要がないだろう。 現在の新型ウイルス危機でリモートワークが始まっているようだが、ぶっちゃけ一部の引きこもりオタクの方が普段からパソコンを所持し扱いに長けているわけで、会社に出社しての多様なコミュニケーションや決まった時間での就業が重要視されなくなっていけば、仕事内容の完成度さえ高ければその方が良いとされていくはずだ。 コミュニケーションを学べるコミュニティは、現実にもネット上にも、数多存在している。 人生の目標が大抵の場合 「少しでも幸せに生きること」 だと仮定して、このまま進める。 人間同士のコミュニケーションや社会性は、確かに少しでも幸せになる上で、多くの場合に必要条件だろう。 では、先ほども述べた「難易度の高い環境で挫折感やコンプレックスを植え付けられる」というのは、コミュニケーションや社会性にどのように影響するだろうか。 幼少期に能力ないし運によってうまくいっていた人は良いだろう。 では、不運によってうまくいかなかった人は? 人間がコミュニケーション能力や社会性を発揮できるかどうかは、本人の資質だけではなく「理解者に巡り合えるか」という点にかかっている。 その巡り合いが早いほど早く能力を発揮できるようになるだろうし、多いほど存分に能力を発揮しやすくなるだろう。 「自分の内側にあるものしか受け取れない」と同時に「インプットしたものからしかアウトプットできない」のが人間だ。 肯定的なものは、植え込めば植え込むほど良い。 だからその肯定的なものを植え込む場所が学校だろうが家庭だろうがその他の場所だろうが、どうだって良いのだ。 大切なのは、本人がその先で「自分の能力を発揮できるかどうか」である。 「苦労や経験をしなきゃ」と言い出す人が多くいるが、学校や会社に行かないから苦労をしていないと決めつけるのは短絡的だ。 安直すぎる。 本人の中、周囲の人間の中には必ず葛藤や模索が存在している。 学校や社会に出ていても同じだ。 学べる領域や量は人それぞれに違うだろう。 だがそれは、本人が選択する環境と、そこから本人がどれだけ受け取るかという話だ。 本人にとって適切な気づきや生き方のための環境・機会に向き合っている。 それはどんな環境や生き方を選択していようと、常に、誰にとっても変わらない。 自分や自分と同じ属性の人だけが「頑張って」「正しいことをしている」というのは思い込みだ。 自分が大丈夫なことは他人も大丈夫、自分がやったことは他人もやるべき。 そんなのも思い込みだ。 体質から考えても全然違うわけだ。 敏感な人ばかりでもなければ鈍感な人ばかりでもない。 そしてその思い込みによって、それ以外の人間の生き方や選択、創造性が削られ、邪魔されることは珍しくない。 どんなものも過程であり、どんな道筋にも必ず得られるものがある。 そこから得ようとさえすれば、非常に多くのものを得られる。 その状況が例え大半の人間にとっての正義にかなっていなかったとしても、目の前のものの中から一つでも多くを掴み、学び、活かした者の勝ちだ。 「ここでしか学べない」 「ここでしか得られない」 「ここでしかやれない」 そんなものはだいたい決めつけだ。 人それぞれに、資質と適性、道筋と道のり、やり方と手段がある。 その"それぞれ"を認められれば、自分にも他人にも、可能性を見出せる。 肯定的になれる。 人に可能性を見出せる、肯定的になれるなんて、最高のコミュニケーション能力や社会性のひとつではないだろうか。 自分という存在の適性や能力、体調や内面と向き合い、その時点で可能な範囲からの選択ができているのだから、不登校や引きこもりは立派な"自分の将来のための環境づくり"のひとつだ。 有能有能。 そうやって自分のための環境を作れるという創造性を、どうか身近な人はある程度肯定的に見てあげてほしい。 その創造性は、磨き上げ伸ばしていけば、大きなコミュニティや社会の一端までを作っていくものかもしれないのだから。 もちろん、既存のものの中で頑張っている人や、そちらからの道筋で行く人も、それが貴方にとっての良い選択なのだと思うし、そういった役割の人も必要だ。 人類一人一人みな、今日もちゃんと頑張ったり楽しんだりしている。 私が何故こんなに創造性やそれぞれのやり方の重要性を話したくなるのか、その答は簡単だ。 富や豊かさ、愛や幸せは次々に生み出されるものであって、有限なものではない。 それらはあちこちで生み出されれば生み出されるほど、少しずつ、隅々まで行き渡っていく。 みんな少しでも幸せになれればいい。 幸せな時、そこには赦しとゆとりがある。 赦しとゆとりは、また新たな幸せを生み出す。 生み出すこと、創造すること その時点その時点を肯定的に考えること。 1人でも多くの人の幸せに繋がることだから、こうして解説したい。 人間は物理次元の個体には留まれない生命体だ。 目には見えない動きに翻弄され、流され、運ばれて生存している。 目には見えなくても、繋がっている。 いつでも他人の不幸を自分のもののように背負うことはないが 他人の成功や幸せは貴方自身の人生を豊かにするもの。

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