武田 信玄 家紋。 菱紋 -武家の正統としてのプライドと信玄の威光- 武田信玄、高杉晋作、浅利慶太...

【甲斐の虎】武田信玄 主要家臣団一覧!武田は二十四将だけじゃない

武田 信玄 家紋

目次 Contents• 甲斐の虎と呼ばれた、 ・。 甲斐源氏の武田信玄 たけだ-しんげん でしたが、甲斐国を統一した武田家でも、下剋上の世の中では、他の源氏の家系や親戚筋が権力を狙ったりと、闘争は絶えません。 実際に、武田信玄の曽祖父に当たる武田信昌の代から、果てしない権力争いが続いていました。 そこに合戦上手である武田信玄の父・ が登場します。 武田信虎はも独立大名とも言える郡内 都留市 の とも婚姻関係を結び、一門衆に加えるなど有力武将と婚姻を結んだりと、または巧みな外交手腕を発揮しただけでなく、合戦でも戦略能力を存分に発揮して、今川家とも和睦するなどして武田家の地位を固めて行きました。 現在の甲府に、 を築き城下町 武田城下町 を整備し、家臣を集住させたのもこの武田信虎です。 そして、武田信虎は、武田信玄が誕生した翌年になる1522年に、甲斐国を統一することに成功。 ちなみに、この年、世界遺産に指定された富士山へ富士登山にも行っています。 草鞋 わらじ で登山したのでしょうから、大変そうです。 このように、 に活躍する甲斐・武田氏の基礎は、武田信玄の父・武田信虎が築いたと言えるでしょう。 しかし、武田信玄が賢く利口なのを嫌い、武田信虎は、武田信玄の弟・ を、次期当主にと考えるようになります。 戦国時代においては、自分の親でも、自分の子供でも、身内はいつか自分の権力を脅かすものだ と言うのは常識とも言えます。 その点、武田信虎は自分の家臣を信頼し、嫌ってはいたものの武田信玄を甘く見ていたのかも知れませんが、武田信玄の母・大井の方の熱心な教育方針によって、当時としては高い水準の教育を武田信玄は受けていたことも大きかったと存じます。 21歳になった武田信玄 武田晴信 は、1541年6月、武田重臣の 、甘利虎泰、 らの協力も得て、父・武田信虎を駿河に追放。 いわゆるクーデターを起こし、父を追放して武田家の家督を相続したのでした。 例えば、斉藤義龍、 、 などは、父を殺害し家督を継いでいます。 また、 、伊達政宗、 、 、 などは、兄弟との権力争いが発生し、その結果、兄弟を殺害に追い込んでいます。 このように、身内を静粛する事も多かった戦国時代ですが、武田信玄は父を追放したものの、現在のお金で1億円とも言われる生活費を、追放先の今川家に毎年送金しており、弟・武田信繁と武田信玄は仲が良かったとされ、武田家では父も兄弟も殺さずに、万全な体制で武田家臣を統制することに成功したのです。 その礎となったのは「合議制」です。 武田信玄は、武田信虎を追放する時から家臣との会議を開催し、皆の意見も取り入れながら国政を運営しました。 重臣たちが意見を述べ終わると、武田信玄は意見をまとめ上げ、全員が納得の行く決定を下したと言われています。 石高が決して高くない甲斐の国ですから、国力をつけるには領土拡大しかありません。 武田信玄は、積極的に合戦を仕掛け、信濃・諏訪と勢力を拡大させて行き、功績のあった者に所領を加増しました。 それに武田家臣も良くこたえて、一生懸命戦ったので、武田の強さは世に知れ渡たり、有名な武将が多く存在したのです。 要するに、成長戦略を取り、常に領土拡大を図ることで、家臣らの結束を固めて行ったのだと考えられます。 かと言って、戦いばかり行っても、家臣や領民の不満は増えます。 このバランスはとても重要である為、武田信玄は「負けない戦」を取る戦略・戦術を駆使しました。 とにかく、侵攻作戦での行動はとても慎重です。 三ツ者・素破と呼ばれる偵察要員を各地に派遣して情報収集させ、事前に敵情を充分に探らせました。 時には、敵の武将を寝返らせ無血で城を占領するなど、戦と言えども、 のように敵と全面衝突する事がそんなにありません。 武田信玄は生涯で70回以上の合戦を行いましたが、敗北はわずか3回と言えます。 その3回は、すべて に敗れていますが、最終的には村上氏の諸将と内通したり降伏させ、攻略に成功しています。 現代でも同じですが、戦争に勝つため、負けない為には「情報」こそが最重要事項です。 敵の人数、敵の武器・能力、敵の動きなどが分からない事には、作戦を立てる事すらできません。 現在の日本でも周辺国を取り巻く情勢は、大変危惧されておりますが「情報」で敵を勝る事ができなければ、いくら優秀な武器を駆使しても、負けてしまいます。 有名な「川中島の戦い」も、 と、合計5回戦っていますが、にらみ合いで終わる事も多く、大きな戦闘になったのは、たったの1回だけです。 武田信玄は弟の を影武者にするなど、進軍中でも用心深かく、とにかく負けない戦をしました。 でも、負けた戦から学び、どうすればよいのかと、成長したからこそ、名将・武田信玄があったとも言えます。 このように負けないことが、武田軍を天下最強と呼ばせ、無敵だった織田信長でさえ「武田軍の強さは天下一」と武田信玄を恐れていたのを、宣教師の の記録からも伺えます。 そして、農民だった を登用するなどや、武田信虎から追放されていた有能な武将・ を呼び戻したり、 だったと考えられる 、 であったり、素性の怪しい を家臣に加えたりしています。 また、小山田信繁、 、 などを実力主義で重用するなど、家臣登用・出世は「実力」を評価した点も、織田信長と同じように、当時としては斬新的な手法だったと考えられます。 もちろん、相模の北条氏や、駿河・今川氏、越後の上杉氏とも巧みに外交を行い、戦国の世を生きたのです。 しかし、織田信長のように軍勢を「職業軍人化」するまでは考えが至らなかったようで、結果的に終始、武士3、農兵7と言った割合での軍勢であり、田植えや稲刈りの季節に出陣することはできず、この点が織田信長と大きな違いと言えます。 現代でもそうですが、戦争を行うには莫大な資金が必要です。 そして、その資金で強固な城を築くくらいなら、外に攻めようと言う成長戦略を用いた為、武田信玄の時代には防御に徹した城が甲斐にはありませんでした。 資金確保をする為には、国内政策として、甲府で催し物 イベント を開催して人を集めたりすることで商業を発達させ、金山を開発したり、甲斐国内の河川を整備し堤防「 」を築くなど、領内政策も実施し、1547年には、分国法である甲州法度も定めました。 堤防は新田開発をし、石高を上げる為だけと思われがちですが、実は甲斐国は、どこに軍を出すにしても、河川から近い土地に街道があります。 要するに、川が氾濫すると、軍の行動が制限されてしまうので、洪水が起きにくいように整備したと言う側面もあります。 日本で初めての金貨「甲州金」を生んだ金山も、 の時代には枯渇し、武田信玄の死後、武田家は資金が乏しくなり資金繰りに苦しんだのも事実です。 しわ寄せは領民に及び、 を築くころになると、甲斐の民は重税に苦しんでいました。 さて、父を追放した経緯のある武田信玄でしたが、自分の子供で嫡男の を謀反の疑いとして、1567年には死に追い込みました。 武田義信の傅役だった飯富虎昌らが信玄暗殺を企てたと言う容疑です。 また、敵の3000もの生首を籠城する城の周りに囲んだ話や、捕虜を金山で強制労働させたり、女・子供を人身売買したと言う話もありますが、このような極悪非道は他の大名でも行っているため、武田信玄に限った事ではありません。 1570年、将軍・ からの書状を受けた武田信玄は、織田信長の義弟である や や らとともに「信長包囲網」を形成することになります。 ついに、織田信長を討つべく、1572年10月3日、西上の軍30000を発しました。 で、織田信長と同盟していた徳川家康を野戦に引きづり出し撃退するも、武田信玄の病状が悪化します。 そして、甲斐への帰路についていた1573年4月12日に、駒場にて53歳の生涯に幕を閉じ、あとを武田勝頼に託したのです。 天下統一を目指す織田信長にとって、最大の難敵であった武田信玄が、直接決戦を挑む前に消滅したのでした。 しかも、跡取りとして目されていた嫡男・武田義信を静粛していた為、側室の子・武田勝頼が実質的に武田家を継いだ事も、もともと連合的であった武田家の家臣団には大きく影響したものと考えられます。 しかし、織田信長も、武田勝頼を で滅ぼした3ヶ月後に、 により で命を落とすのですから、人間、一寸先は闇でございます。 72戦49勝3敗20分 武田信玄は・・ 「戦の勝利は、50~60%を上とし、70~80%を中とし、90~100%を下とする」 と、家臣に説いていたと伝わります。 下記はJR塩山駅の北口にある武田信玄の像です。 合戦で圧勝してしまうと、将兵も調子に乗ってしまうし、敵も軍事力を増強してしまうので、その後の事を考えると、引き分けか、ちょっと勝った程度が適切なのだと言う考えからです。 この武田信玄の考えを聞いた上杉謙信は「自分が信玄に及ばないのは、まさにこの点だ」と、正直な所を述べたと言われています。 優れた情報収集能力を駆使し、慎重に分析した結果「絶対に勝てる」と確信を得ての出陣であるがため、出陣する前から勝負が決まっていたのが武田信玄の戦いと言えます。 このように、家臣・領民を大切にし、人心掌握に力を尽くし、戦上手であり、領内政策も怠らず、戦国最強と言われた武田家臣団を統率した武田信玄は、やはり名将中の名将と言えるではないでしょうか? 上記写真は、甲府の。 武田信玄のトイレは広かった 武田信玄の軍事行動は、とにかく「慎重」でしたが、もともと慎重な性格なのか?武田信玄が躑躅ケ館で使用していた自分専用のトイレは、広かったと言います。 によると「御用心のために京間六畳敷きの閑所 トイレ をつくった」とあり、京間六畳と言うのは現在の6畳よりもかなり広いそうです。 なぜ、トイレが広いかと申しますと、狭いトイレでは壁から「槍」で突かれると簡単に命を落としてしまうと言う警戒からです。 またトイレの最中に襲撃された場合でも、広ければ刀を振って応戦できると言うこともあったらしく、ここでも武田信玄が大変慎重であったことが伺えます。 ちなみに、トイレの床は「畳敷き」であり、四隅には香炉を置いて、朝・昼・晩の三交代で小姓らに番をさせ、香の薫りを絶やしませんでした。 トイレ・コロン トイレ芳香剤 の元祖とも言われています。 また、排泄後に「鈴」を鳴らすと、風呂場の残り湯が、トイレの建物下から樋で送られると言う、水洗トイレであっただけでなく、エコな水のリサイクル水洗トイレだったと言うので驚きです。

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武田信玄の家紋【武田菱】の意味・由来について!知ると意外に面白い家紋

武田 信玄 家紋

のにあたる第19代当主。 は 晴信、は 太郎(たろう)。 「信玄」とは(後の)で、正式には徳栄軒信玄。 (4年)にを贈られる。 甲斐のを務めた武田家第18代・の嫡男。 先代・信虎期に武田氏はから化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・に侵攻する。 その過程でのと五次にわたると言われるで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、、西および、、、などの一部を領した。 次代の期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。 生涯 [ ] 出生から甲斐守護継承まで [ ] 大永元年11月3日、甲斐国守護・の嫡長子として生まれる。 母は西郡の有力国人の娘・。 甲斐国ではを契機に守護武田氏の権威が失墜し、有力が台頭していたが、信玄の曾祖父にあたる期にはを排斥 するなど、国衆勢力を服従させて国内統一が進む。 信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、16年()にはのを本拠とした(武田城下町)を開府。 家臣団組織が整備され、戦国大名として武田氏の地位が確立されていた。 積翠寺にある、信玄公産湯の井戸 信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる である(または)。 信虎はを後ろ盾とした西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。 この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したという。 幼名は太郎。 は不明だが、『』では譜代家臣が傅役であった可能性を示している。 3年()、兄のが7歳で夭折した為、嫡男となる。 5年()、父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎()が生まれる。 『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったと言う。 信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方においての新興大名であると敵対していたと結び、領国が接する甲斐において北条方との抗争を続けていた。 2年()、扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主である の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。 これはであるが、晴信との仲は良かったと伝えられている。 しかし、天文3年()に出産の折、難産で上杉の方も子も死去している。 天文5年()3月、太郎はして、第12代将軍・ から「 晴」のを賜り、名を「 晴信」と改める。 官位は・に叙位・任官される。 元服後にとして・の娘であるを迎えている。 この年には駿河でが死去し、を経てがを継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都のと緊密な今川氏の斡旋であったとされている。 『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑視もされている(柴辻俊六による)。 信虎はやら信濃豪族と同盟し、信濃国侵攻を進めているが、武家のは元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡主攻めであるとしている。 『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。 晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年()のにも参加しているが、『』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣のや、らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信はの第19代目の家督をする。 信濃国を平定 [ ] 戦国時代の甲信とその周辺 信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国・、信濃と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・への出兵を行っていた。 晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行う。 天文11年()6月に晴信は諏訪氏庶流である伊那のとともに諏訪領への侵攻を開始し、で諏訪氏は和睦を申し入れ、を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している。 諏訪領においては同年9月に高遠頼継が武田方に対して挙兵しているが、武田方はこれを撃破して諏訪領を掌握する。 武田方はさらに天文12年()には信濃国主であるを攻めて、自害に追い込んだ。 天文14年()4月、のに侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には主であるを追放した。 父・信虎時代は対立していた後北条氏とは天文13年(1544年)に和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立()を仲裁して、両家に大きな「貸し」を作った。 それによって西方に安堵を得たはで大勝し、そうした動きが後年のへと繋がっていく。 今川・北条との関係が安定したことで、武田方はを本格化させ、信濃守護、小県領主らと敵対する。 天文16年()には関東管領勢に支援されたのを攻め、同年ので武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する。 また、領国支配においても同年にはである (信玄家法)を定めている。 天文17年()2月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る主・村上義清と上田原で激突する()。 上田原合戦において武田軍は村上軍に敗れ、宿老の、らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府ので30日間のをしたという。 この機に乗じて同年4月、が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の(勝弦峠の戦い)で小笠原軍を撃破した。 天文19年()7月、晴信は小笠原領に侵攻する。 これに対して小笠原長時には既にに抵抗する力は無く、を放棄して村上義清の下へ逃走した。 こうして、は武田の支配下に落ちた。 勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城であるを攻める。 しかし、この戦いで武田軍は後世にと伝えられる大敗を喫した。 だが翌天文20年()4月、(幸綱)ので砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年()4月、村上義清はを放棄して国主の長尾景虎()の下へ逃れた。 こうしても武田家の支配下に入り、晴信はを除き信濃をほぼ平定した。 川中島の戦い [ ] 第四次川中島の戦い 天文22年()4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎()は本格的な信濃出兵を開始し、以来、の主導権を巡る甲越対決の端緒となる( 第1次)。 この時は、景虎方に武田軍の先鋒を布施・八幡にて撃破される。 景虎は武田領内深く侵攻するも晴信は決戦を避ける。 その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。 同年8月には景虎の支援を受けてが謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。 晴信は信濃進出に際して、和睦が成立した後も軍事的な緊張が続いていた駿河の今川氏と相模の北条氏の関係改善を進めており、天文23年()には嫡男の正室に今川義元の娘(信玄の姪)を迎え、甲駿同盟を強化する。 またをの嫡男に嫁がせを結ぶ。 今川と北条も信玄及び今川家のが仲介して婚姻を結び、が成立する。 三国同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は景虎を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能した。 この年、佐久郡や伊那郡・木曽郡に残されていた反武田勢力を完全に鎮圧してを安定化させた。 しかし、その一方で、三河・美濃・信濃の国境地帯に勢力を持つの岩村・苗木の両も信玄への臣従してきたたために、を支配する・父子とも緊張関係を生じさせることになった。 天文24年には川中島において再び長尾景虎と対陣している。 3年(1557年)にはによる甲越和睦のが下される。 これを受諾した景虎に対し、晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている。 『』に拠れば、2年(1559年)2月に晴信は住職のを導師に出家し、「徳栄軒信玄」と号したという。 文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている。 出家の背景には信濃をほぼ平定した時期であることや、信濃守護に補任されたことが契機であると考えられているほか 、永禄2年(1559年)に相模後北条氏で永禄の大を背景に当主氏康が家督を嫡男氏政に譲り徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも、代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が考えられている。 「信玄」の号のうち「玄」の字は「晴」と同義であるとする説や 、派のであるの一字を授かったとする説 、唐代の僧から一字を取ったとする説などがある。 武田信玄 左 ・上杉謙信 右 一騎討像 長野市 信玄は北信侵攻を続けていたものの、謙信のにより大きな対戦にはならなかったが、4年()の第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。 武田方は信玄の実弟である武田軍副将武田信繁をはじめ武田家重臣、足軽大将の、ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したという。 第四次川中島合戦を契機に信濃侵攻は一段落し、以後は西出兵を開始しており、この頃から対外方針が変化し始める。 永禄7年()にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終わっている( 第5次川中島の戦い)。 外交方針の転換と今川・北条との戦い [ ] 川中島の戦いと並行して信玄はを開始したものの、上杉旧臣であるが善戦した為、当初は捗々しい結果は得られなかった。 しかし、業正が永禄4年(1561年)に死去すると、武田軍は跡を継いだを激しく攻め、永禄9年()9月にはを落とし、上野西部を領国化した。 永禄3年()5月にはにおいて、駿河の今川義元がのに敗死。 当主がに交代したものの、今川領国ではで松平元康()が独立するなど動揺が見られた。 信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接するにおいても信長がの内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上、武田との関係改善を模索、信玄も木曾・東濃地域における両勢力の対立を避けたかった。 こうした経緯から諏訪勝頼(後の武田勝頼)正室に信長養女が迎えられている。 川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じ、永禄10年()10月には武田家において嫡男義信が廃嫡される事件が発生している(義信事件)。 永禄11年()12月にはでの今川領分割を約束した三河の徳川家康と共同で を開始し、で今川軍を破り()、を一時占拠する。 信玄は駿河侵攻に際して相模北条氏康にも協調を持ちかけていたが、氏康は今川方救援のため出兵して甲相同盟は解消された。 北条氏は越後上杉氏とのを結び武田領国への圧力を加えた。 さらに徳川氏とは遠江領有を巡り対立し、翌永禄12年5月に家康は今川氏と和睦し、侵攻から離脱した。 この間、織田信長はを奉じて上洛していた。 信玄は信長と室町幕府に就いた足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦()を試み、同年8月には上杉氏との和睦が成立した。 さらに信玄は越相同盟に対抗するためやなど北・東関東の反北条勢力との同盟を結んで後北条領国へ圧力を加え、同年10月にはを一時包囲。 撤退の際にはで北条勢を撃退した。 こうした対応策から後北条氏は上杉・武田との関係回復に方針を転じ、同年末には再び駿河侵攻を行い、を掌握した。 また、永禄年間にの家臣と親交を深めていた。 勝宗が信玄による西上野侵攻に呼応して出兵し、軍功を上げると信玄は勝宗にを贈っている。 遠江・三河侵攻と甲相同盟の回復 [ ] 永禄11年()9月、将軍足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。 ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄やその他の大名に信長討伐の御内書を発送する。 元年 1月武田勝頼らがを攻め落とし、 清水袋城 を築城。 を攻め落とす。 元年 8月にに攻め入り、はに本陣を置き、軍勢を分けてを攻略、攻め落とせず。 2年()2月、信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。 信玄は同年5月までに、、、、を落としたが、信玄が血を吐いたため甲斐に帰還した。 元亀2年(1571年)、かねてより病に臥していた北条氏康が小田原で死去。 跡を継いだ嫡男のは、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い(氏政独自の方針との異説あり)、謙信との同盟を破棄して弟の、を人質として甲斐に差し出し、には信玄とを回復するに至った。 この時点で武田家の領土は、一国のほか、、、西部、・・・の一部にまで及び、はおよそ120万石に達している。 西上作戦 [ ] 詳細は「」を参照 尾張の織田信長とは永禄年間から領国を接し、外交関係が始まっており 、永禄8年()には東美濃の国衆であるの娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田家の世子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んだ。 その養女は男児(後の)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男であると信玄の娘であるの婚約が成立している。 織田氏の同盟国である徳川氏とは三河・遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。 2年()の織田信長によるの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、を甲斐に移して再興させようと図った。 の(の弟)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願した。 信玄は覚恕を保護し、覚恕の計らいによりという高位の僧位を元亀3年()に与えられた。 また、元亀2年には甲相同盟が回復している。 元亀3年()、信玄は将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した。 武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、との支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊はとから遠江に攻め入った。 信玄率いる本隊は、信長と交戦中であった、らに信長への対抗を要請し、に徳川方の諸城を1日で落とし、山県昌景軍は、(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流した。 一方11月に信長の叔母のが治める東美濃の要衝が秋山虎繁に包囲されて軍門に下った。 これに対して、信長は信玄と義絶するが、浅井長政、朝倉義景、の徒などと対峙していたため、家康に、らと3000の兵を送る程度に止まった。 家康は、武田軍と遠江一言坂において戦い敗退している()。 には、(武田軍は)遠江の要衝であるを陥落させた()。 甲州市恵林寺の武田信玄公墓所(2010年11月撮影) 信玄は野田城を落とした直後から度々を呈する(一説では、三方ヶ原の戦いのの時に喀血が再発したとも)など持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。 このため、信玄はにおいて療養していたが、近習・一門衆の合議にて4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなる。 4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する。 臨終の地点は宛書状写によれば三州街道上の信濃国駒場()であるとされているが、やとする説もある。 は法性院機山信玄。 菩提寺はの。 の句は、「 大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。 『甲陽軍鑑』によれば、信玄はで「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸をに沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、らに後事を託し、山県に対しては「源四郎 、明日はに(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。 信玄の遺言については、遺骸を諏訪湖に沈めることなど事実で無いことが含まれているが(『甲陽軍鑑』によれば、重臣の協議により実行されなかったという)、三年秘匿や勝頼が嫡男信勝の後見となっている可能性も指摘され、文書上から確認される事跡もある。 信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿している。 駒場の長岳寺や甲府岩窪の魔縁塚を信玄の火葬地とする伝承があり、甲府のでは8年()に甲府により発掘が行われて、信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録がある。 このことから死の直後に火葬して遺骸を保管していたということも考えられている。 3年()3月6日には山県昌景が使者となり、成慶院に日牌が建立される 『武田家御日牌帳』。 同年5月21日に武田勝頼はにおいて織田・徳川連合軍に大敗しているが、『甲陽軍鑑』品51によれば、この直前にあたる同年4月12日には恵林寺において勝頼による信玄三周忌の仏事が行われている。 この時、恵林寺住職のが大導師を務め、葬儀が行われたという(『天正玄公仏事法語』)。 はこれを「3年喪明けの葬儀で天正4年()4月16日に本葬を行った」としている。 天正4年()4月16日には勝頼により恵林寺で信玄のが行われている。 には12年()に恵林寺において百回忌のが行われている。 2年()4月10日には恵林寺において主・による百三十三回忌の法要が行われている。 柳沢吉保は将軍・ので、元年()に甲府藩主となった。 吉保は信玄を崇拝し、柳沢氏系図において武田氏に連なる一族であることを強調し、百三十三回忌法要では伝信玄佩刀の太刀銘来国長を奉納し、自らが信玄の後継者であることを強調している。 人物 [ ] 武田大膳大夫晴信入道信玄 画 人物像 [ ] 武田信玄の発行した文書は、信玄のによる文書が約600点、を使用したものが約750点、写しのため署判不詳が100点、家臣が関与したものが50点の合計約1500点ほどが確認されている。 そのうち信玄自筆書状は50点前後確認できるが、20点ほどは神社宛のである。 私的な文書は皆無で、人物像・について伺える資料・研究は少ないものの、初年には『武田信玄の経綸と修養』 において若干論じられている。 教養面について、信玄は京からを招いて会・会を行っており、信玄自身も数多くの歌やを残している。 信玄の詩歌は『為和集』『心珠詠藻』『甲信紀行の歌』などに収録され、恵林寺住職の快川紹喜や住職のにより優れたものとして賞賛されている。 また、漢詩は京都大徳寺の宗佐首座により「武田信玄詩藁」として編纂している。 また、信玄は実子義信の廃嫡や婚姻同盟の崩壊による子女の受難などを招いている一方で、娘の安産や病気平癒を祈願した願文を奉納しているなど、親としての一面が垣間見える事実もあることから、国主としての複雑な立場を指摘する意見もある。 『甲陽軍鑑』において信玄は名君・名将として描かれ、中国におけるのの人物像に仮託されており(品九)、甲陽軍鑑においてはいずれも後代の仮託と考えられているがやに関する数々のが記されている。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 逸話 [ ] この節には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 がまったく示されていないか不十分です。 内容に関するが必要です。 ( 2012年4月)• が含まれているおそれがあります。 ( 2012年4月)• ある時、駿河の今川義元の正室として嫁いだ姉から大量の貝殻が贈られてきた。 山国甲斐で育った信玄はこれを喜び、近習に貝殻の数を調べさせた。 貝殻は2畳分あった。 そこで家臣らを呼んで「お前たち、この貝殻が何枚あるか当ててみよ」と命じた。 ある者は1万5000枚、ある者は2万枚と思い思いに述べた。 すると信玄は「皆的違いだ。 3700枚ほどだ」と教えた。 そして「わしは今まで、合戦には兵力が必要だと思っていた。 だが兵力は少なくともよい。 必要なのは5000の兵を1万に見せることができるように、兵を思うように動かすことこそ大事である。 お前たちもこのことをしかと心得よ」と述べた。 それを聞いた家臣らは「末恐ろしい若君よ」と驚嘆した(甲陽軍鑑。 品第6)。 武田軍の強さは、息子の勝頼が長篠の戦いで大敗した後も、信長の支配地域において「 武田軍と上杉軍の強さは天下一である」と噂されるほどのものであった(『蓮成院記録』天正十年三月の項)。 躑躅ヶ崎館に、自分専用のを設置していた。 これは躑躅ヶ崎館の裏から流れる水を利用した仕組みで、信玄がを引いて鈴を鳴らすとのように配置された数人の家臣に知らされていき、上流の者が水を流す仕組みである。 信玄はここを 山と言う名称で呼んでいた。 家臣が「何故、を山と言うのでしょう? 」と尋ねた所、信玄は「 山には常に、草木(臭き)が絶えぬから」と機知に富んだ回答をしている。 敵襲に備えた信玄の考えから、トイレの広さは六畳もあり(狭いトイレだと非常時に身動きがとれなくなるため)、室内には机や硯も設置されており、ここで用を足しながら書状を書いたり作戦を考えていた。 『甲陽軍鑑』によると、信長から小袖が贈られた際、梱包に漆箱が使われていた。 ふと思い立った信玄が箱を割るなどして調べると、それは漆が何度も重ね塗りされた最高級ともいうべきものであった。 信玄は信長の、梱包にすら高価な漆箱を用いるその丁寧さから「 これは織田家の誠意の表れであり、武田家に対する気持ちが本物だ」と周囲に語ったという。 信長の真意はともかく細かい所にも気をつける性格だったようである。 『甲陽軍鑑』には20代の頃から度々体調を崩していることが書かれている。 信玄は 情報収集を重要視し、「」と呼ばれる隠密組織を用いていた(『甲陽軍鑑』では三ツ者のほか「素破」とも表現されている)。 また、身寄りの無い少女達を集めて忍びの術を仕込ませ、表向きは「歩き巫女」として全国に配備し諜報活動を行わせた。 このため、信玄は甲斐に居ながら日本各地の情報を知っていたことから、まるで日本中を廻っていたかのような印象を持たれ「足長坊主」と異称されたという。 上洛のとき、「甲陽軍鑑」において、次のようなことを信玄自らが述べたという記述がある。 「都より甲斐への国へは程遠し。 おいそぎあれや日は武田殿」(大意:甲斐は都から遠い。 お急ぎせねば日が暮れますぞ。 信玄は上杉謙信を上杉姓で呼ばなかったが、これは甲斐守護の武田家と越後守護代の長尾家の格式の差による。 長尾家が関東管領として上杉姓となると、格式が逆転したため、面白くなかった信玄は、最期まで長尾姓のままで呼び続けたという。 の『』によれば、武田氏は「彼(織田信長)がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」だったという。 フロイスはその他、書簡(『日本耶蘇会年報』に所収)にいくつか信玄のことについて記している。 「戦争においてはに似たる人」「彼は剃髪して坊主となり、常に坊主の服と数珠を身に付けたり。 1日3回偶像を祭り、之が為 戦場に坊主600人を同伴せり。 この信心の目的は、隣接諸国を奪うに在り」「彼は武力により畏怖され、部下より大に尊敬を受く。 けだし小なる欠点といえども宥(ゆる)すことなく、直ちに之を殺害せしむるを以てなり」• 同じ書簡には、信玄が遠江・三河に侵攻する前、信長に一書を送ったが、そこには「その名を誇示せしめんとの慢心より、その書状の上に次の如く認めたり。 テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン(信玄)」と署名してあり、「信長は之に対してドイロク・テンノマウオ・ノブナガ(信長)、と応酬せり」というやりとりがあったという。 このフロイス書簡の日付は1573年4月20日(日本暦の元亀4年3月29日)だが、この後すぐ信玄は没している。 フロイスはこの署名を「其意は天台宗の教の最高の家および教師信玄といふことなり」と訳し、信玄が増長して天台座主を名乗ったものと解しているが、歴代の天台座主には信玄の名はない。 「天台座主沙門信玄」は「天台座主・覚恕法親王の下での修行者・信玄」と信玄が自らの敬虔な姿勢を示したもので、これに対して信長は「仏道修行を妨げる魔・信長」と皮肉で返したと読むこともできる。 政策 [ ] 家臣団と制度 [ ] 武田家臣団を制度的に分類する事は研究者の間でも意外と難しいとされる。 武田家が守護から戦国大名になったと言う経緯から、中世的な部分が残る一方、時代に合わせて改変していった制度もあり、部分部分で~前期の影響と、室町後期の時代の影響の両方がやや混然と存在しているためである。 家臣団を大きく分けると以下のように分けられる。 御一門衆 信玄の兄弟・親族らが中心。 「甲州武田法性院信玄公御代惣人数事」『甲陽軍鑑』巻八では十二名を記載している。 呼称は「御一門衆」であることが指摘され、『甲斐国志』では「親族衆」とし、「国主の兄弟から出て一家を立てた」者とされる。 このため今井家・一条家など、別姓もありえる。 また、のような婚姻関係の結果親族衆に含まれる場合も含まれる。 譜代家老衆 基本的には甲斐一国当時から武田家に仕えていた家を中心とした家臣団。 合議の場に列する資格を意味するであったと考えられており 、軍事面・領国支配において重視された。 文書においては「家老」「宿老」の用語が見られるが、多くは用いられていない。 「惣人数」には親族衆の次に配置され、馬場信春、内藤昌秀、山県昌景、高坂昌信()、小山田信茂(小山田)、、、、、秋山虎繁、(加賀守・隼人祐系)、(石田小山田)、(大炊助系)、、、、(美作守系)の17名を挙げている。 ただしこれらの譜代家老は同時に存在したわけではなかったと見られている。 特徴として、まず一族普代の氏族と一族普代でない氏族に区分される。 一族普代では馬場、内藤、山県、甘利、栗原、今福、土屋、秋山、浅利、駒井、一族譜代でない氏族は郡内小山田、石田小山田、跡部(大炊助・美作守系)、春日、原、小宮山がいる。 また、多くは譜代家老の出自であるが、嫡男ではなく次男以下の出自を持つ点も特徴とされる。 ただし、、三枝昌貞、小山田信茂など一部の例外は見られる。 武田家の譜代家老衆は時代によってや、などにより入れ替わりが存在し 、御一門衆と同様に信虎までに登用されたグループと、信玄が新たに登用されたグループに区分される。 信昌から・信虎の時代に側近・奉行として当主を支えた楠浦、河村、工藤、秋山、小田切、曽根、駒井、板垣などの氏族がいるが、帆、河村、工藤、秋山の四氏は当主の取次を務めていた。 信玄の代になるとまず楠浦、河村が消え、続いて工藤、秋山、小田切も姿を消し、後に譜代家老の地位を離れて奉行衆として登場する。 対して曽根、板垣、駒井は信虎から信玄初期にかけて重用されている。 信玄は信虎の代の譜代家老のうち甘利、郡内小山田、栗原、駒井、原(加賀守・隼人祐系)、小宮山氏を重用しているが、信玄の代には数次にわたる譜代家老の粛清も行われている。 信玄は新たに山田、内藤、春日、馬場、土屋、石田小山田、跡部(大炊助・美作守系)、秋山、今福などを登用し、山県昌景・内藤昌秀らが活動をはじめる弘治・永禄年間には「惣人代」に記載される人名に至る。 信玄が登用した譜代家老の多くは甲斐衆で身分が低く、出身の春日虎綱(高坂昌信)など、多様な出自の人物を含む。 跡部氏は信濃に出自を持つ氏族であるが甲斐衆として扱われていたと考えられており、他国から来た家臣は譜代家老から排斥されていた。 逆に甲州に領地を持っていながら譜代と扱われていない例もある。 その他の項を参照。 『甲陽軍鑑』に拠れば、武田家の譜代家老は・からを経て・となり、最終的に譜代家老に取り立てられたという。 武田氏が信玄の代に領国を拡大すると、譜代家老は各地の拠点に配置され、城代(武田氏では「」と呼称される)として領域支配を担った。 武田家の城代としてはの春日虎綱、信濃国の馬場信春、信濃国の小山田虎満、の内藤昌秀、上野国の、の秋山虎繁、の山県昌景、駿河国の駒井昌直、駿河国の今福浄閑斎、らがいる。 武田家の城代は御一門衆と異なり領域支配を担っていた点が特徴であると指摘される。 城代はにより他国衆を相備衆として編成した 譜代家老衆の中で小山田信茂は郡内領を有する国衆であり、特異な立場にいたことが指摘される。 後代に称されたには譜代家老の家臣が多く含まれる。 外様家臣団 同時代には外様と言う表現は使われていないが、現代では便宜的にこのように言われる。 1及び2に含まれない家臣団。 当時は諏訪衆・上野衆と言った地域名、あるいは真田衆と言った領主名で呼ばれていた。 武田の水軍 である海賊衆もここに含まれる。 その他(地域武士団) 武川衆のように甲斐国内に存在した集団でありながら、親族とも譜代とも判別し難いのみならず、武田氏に服属していたのか同盟関係に近かったのかの判断が困難なグループがある(小山田氏等)。 多くは中世の本家分家的な関係を基礎としており、一定地域での独自色の強い集団であった。 これらの集団と武田氏との関係の研究は現在も続けられている。 現代ではこのように分ける例が多い。 しかし、『壬午起請文』では譜代家臣団の中に入るべき人物が「武田親族衆」とされている部分もある。 これらについては「非血縁分家」と言う表現で武田家との関係の深度によるのではないかとしている。 職制は行政面と軍政面で分けられる。 行政面では「職」と呼ばれる役職を頂点にした機関が存在した。 ただし、武田氏は中央集権的な制度ではなかったため、在地領主(いわゆる国人)の領地に対しては直接指示を下せるわけではなかった。 特に穴山・小山田両氏の領地は国人領主と言えるほどの独自性を維持している。 信玄の初期は国人による集団指導体制の議長的な役割が強く、知行制による家臣団が確立されるのは治世も後半の事である。 構造的には原則として以下のようになっていたとされる。 ただし、任命されていた人物の名が記されていない場合もあり、完全なシステムとしてこのように運営されていたわけではないようである。 また、領地の拡大や知行制の浸透に伴い、これらの制度も変遷を行った様子が伺える。 公事奉行…と訴訟を担当する。 ただし、この公事奉行が全ての裁判を審議したわけではなく、下部で収まらなかった訴訟を審議した。 勘定奉行…財政担当官。 蔵前衆…地方代官。 同時に御料所と呼ばれる武田氏直轄地の管理を行った。 侍隊将…出陣・警護の任務に当たる。 隊将…検使として侍隊将の補佐を勤める旗本隊将と、領地境界の番手警備を行う加勢隊将に別れる。 浪人頭…諸国からのを統率する。 旗本武者奉行…弓矢指南とされる。 最上位に記される事から出陣の儀やの儀などの責任者か。 旗奉行…諏訪法性の旗などを差配する。 鑓奉行…騎馬足軽が付随したとある。 旗本親衛隊の統率者か。 使番衆…の旗を背負う役。 使番と奥使番に分けられる。 奥近衆…奥近衆とも記される。 基本的には領主クラスの子弟から選ばれる。 諸国使番衆…諸国への使者を務める。 海賊衆…海軍()。 御伽衆…御話衆とも。 新衆…集団。 架橋や陣小屋作成など。 行政・軍政とも職(総責任者)の下に位置し、武田氏の下部組織を勤める。 竜朱印状奏者はこれらの制度上の地位とは別である。 また、占領地の郡代など、限定的ながら独自裁量権を持つ地位も存在する。 なお郡代という表現そのものも信濃攻略時には多く見られるが、駿河侵攻時にはあまり見られなくなっており、城主や城代がその役目を行うようになった。 武田の行政機構が領地の拡大にあわせて変化していった一例であろう。 軍事制度としてはであった事がはっきりしている。 基本的には武田氏に直属する寄親と、寄親に付随する寄子の関係である。 ただし、武田関連資料ではこの寄子に関して「同心衆」と言う表現をされる場所があるため、直臣制と誤解される事も多く、注意が必要である。 また、地域武士団は血縁関係によって結びついた甲州内に存続する独自集団であり、指揮系統的には武田氏直属であったと考えられているが、集団が丸ごと親族衆の下に同心の様に配されている場合もあり、必ずしも一定していない。 地域武士団の前者の例は先述の、後者の例は小山田氏に配属されていたが上げられる。 寄親とされているのは親族衆と譜代家臣団・外様家臣団の一部。 譜代家臣団でありながら同心(寄子)である家もあるため、譜代家臣団が必ず寄親のような大部隊指揮官という訳ではない。 また、俗に言う武田二十四将の中にも同心格である家もあり、知名度とも関係はない。 それどころか侍大将とされている人物でも寄親の下に配されている場合もあり、かなり大きな権限を持っていたと考えられている。 全体としては大きな領地を持っている一族である例が多く、地主的な発言権とは不可分であるようである。 また、一方面指揮官(北信濃の春日虎綱や上野の内藤昌豊など)のように、領地とは別に大軍を指揮統率する権限を有している場合もある。 寄子は制度的には最も数が多くなる。 譜代家臣団・外様家臣団の大部分である。 平時には名主として領地を有し、居住する地域や領地の中に「又被官(武田氏から見た表現。 被官の被官と言う意味)」と記される直属の部下を持つ。 寄親一人の下に複数の寄子が配属され、一軍団を形成する。 武田関係の資料では先述したように「同心衆」と記され、「甘利同心衆」と言うように責任者名+同心の書き方をされる例が多い。 ただしこの名前が記されている人物も寄子である場合もあり、言葉そのものが状況によって使い分けられていたようである。 この複雑さを示す例として「信玄の被官」であり、板垣信方の「同心」を命じられたが挙げられる。 信玄のと言う事は信玄直属であり、制度面で正確に言えば寄子としては扱われないはずであるが、信方の同心である以上は寄子として扱われている。 信玄の被官である以上、知行は信玄から与えられる一方、合戦時の指示は信方から与えられる、と言う事になる。 この例の曲淵は他者の同心であるが、信玄直属の同心と言える立場の人物ももちろん存在していた。 もっとも現代のように一字一句にこだわった表現が当時されていたかどうかは判断が難しい。 現代発行される書籍などで単語だけ取り出す事によって混乱が助長されている面は否定できない。 また、『中尾之郷軍役衆名前帳』には同じ郷から出征する人物が複数の寄親に配属されている場合があり、複数の郷に領地を持っている人物が寄子同心が存在するなど、一概に一地方=一人物の指揮下と断定する事もできない。 これもまた制度研究を困難にさせている要因の一つである。 なお、裁判面では寄親寄子制が基幹となっており、『甲州法度之次第』では内容にかかわらず寄子はまず寄親に訴え出る事が規定されている。 寄親が対処できない場合のみ信玄の下に持ち込まれることになっていた。 これは一方での証左とも言える。 信玄は家臣との間の些細な諍いや義信事件など家中の動揺を招く事件に際しては、忠誠を誓わせるを提出させており、神仏に誓うことで家臣との紐帯が保たれていた。 また、信玄が寵愛する相手の春日源介(「春日源介」の人物比定は不詳。 )に対して、の弁明を記す手紙や(天文15年(1546年))武田晴信誓詞、ともに所蔵)が現存しており 、家臣との交友関係などを示す史料となっている。 なお、信玄(晴信)に関して特徴的なことは、家臣に対する偏諱として「昌」の字が用いられた例が多いことである。 武田氏の通字である「信」の授与は重臣の嫡男に限られ、それ以外の家臣には父・信虎は「虎」、子・勝頼は「勝」の字を授けているが、晴信の「晴」は将軍からの偏諱であるために「晴」の字を授けた確実な例はなく、代わりに曾祖父・に由来する「昌」の字を代わりに授けたとみられている。 例えば、真田氏の場合、幸隆の嫡男には「信」の一字を与えて、次男以下には「昌」の字を与えて・などと名乗らせている。 また信玄は軍陣医をともなっていたことが武田信玄陣立図から確認され、信玄の本陣の前に御伽衆の小笠原慶庵ととともに甫庵(寺島甫庵か)の薬師本道と大輪(山本大林か)の薬師外科の医師団部隊が有事に備えて存在していた。 このような部隊は珍しく、他にはが挙げられる。 領国統治 [ ] 信玄堤(竜王堤)付近の空中写真。 画像右側に帯状に見える緑地が堤防である。 (1975年撮影) を基に作成 信玄期には信虎期から整備されて家一間ごとに賦課されるが確立し、在地掌握のためのも行われ、領国支配の基盤が整えられた。 武田氏の本拠地である甲斐は平野部であるを有するが、、の二大河川の氾濫のため利用可能な耕地が少なく、収入に期待ができなかった。 この為、信玄期には大名権力により事業を行い、のを精力的に実施した。 代表的事例として、甲府城下町の整備と平行して行われたと釜無川の合流地点である竜王(旧・、現・)ではと呼ばれる堤防を築き上げ、河川の流れを変えてした。 日本で初めてである(碁石金)を鋳造した。 甲斐にはやなど豊富な埋蔵量を誇り、信玄期に稼動していた金山が存在していた。 渡来の掘削技術や手法を積極的に取り入れ、莫大な量の金を産出し、治水事業や軍事費に充当した。 また中央権門や有力寺社への贈答、織田信長や上杉謙信に敵対する勢力への支援など、外交面でも大いに威力を発揮した。 ただし、碁石金は通常の流通には余り用いられず、金山の採掘に関しては武田氏は直接支配を行っていた史料は見られず、金堀衆と呼ばれる技術者集団の諸権益を補償することによって金を得ていたと考えられている。 の山門(重要文化財) 寺社政策では寺領の安堵や寄進、など諸権益の保証、中央からの住職招請、法号授与の斡旋など保護政策を行う一方で、規式の保持や戦勝祈願の修法や戦没者供養、神社には神益奉仕などを義務づける統制を行っている。 信玄は自身も仏教信仰を持っていたが、領国拡大に伴い地域領民にも影響力を持つ寺社の保護は、領国掌握の一環として特定宗派にとらわれずに行っている。 特にのに対する手厚い保護や、の社殿造営、甲府へのの移転勧請などが知られる。 に面した駿河を征服すると、の創設に尽力した。 元亀2年()に(船10艘)、(船5艘)、(安宅船1艘、小舟15艘)、(船5艘)、(船5艘)、(船12艘、同心50騎)などを登用して、を創設している。 研究 [ ] 肖像画 [ ] 伝像 (蔵) 信玄のは同時代のものが複数存在し、持明院所蔵の『絹本著色武田晴信像』、高野山成慶院所蔵の筆『絹本著色武田信玄像』()が知られる。 前者は信玄の供養のため奉納されたと伝わる肖像画で、青年期の晴信がにという武家の正装姿で描かれており、直垂には武田家当主・甲斐守護職であることを示す紋が描かれている。 後者は、勝頼が武田氏のである成慶院に奉納したと伝わる肖像画で、壮年期のふっくらとした姿で頭部にはがあり、や目貫に家紋「」のあるが描かれている。 とも関わりのある絵師・長谷川等伯によって描かれ、信玄正室の三条夫人の叔父を描いた『日堯上人像』と同時期に描かれている。 また、高野山成慶院には信玄の弟信廉が描き勝頼が奉納したとされる肖像があったとされ、原本は伝存していないが写が現存している。 同時代では、信玄は肖像画以外にのイメージで自らを描かせているが、イメージは不確定であった。 江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、軍配を持ち赤法衣と 諏訪法性 ( すわほっしょう )の兜に象徴される法師武者姿としてのイメージが確立し、や(柳沢吉保の嫡男)により描かれた信玄個人の肖像画 や武田二十四将図、やの演目『本朝廿四孝』、これを描いたやなどにおいて定着した。 明治期もこの流れを引き継いでいるが、顔貌の描き方は統一されていなかった。 しかし、編纂の『』(12年(刊))で既に成慶院本が「武田信玄像」として紹介されており、これが40年頃にが発行した教育用掛図の中に採用されて普及し始め 、今なお信玄の一般的なイメージとして知られている。 前や前に建てられている銅像なども、そのイメージは成慶院本がモデルとされた。 ところが、のは、• 勝頼の書状には像の図様が書かれておらず、成慶院本がそれに当たるか判別できない。 成慶院本は、『集古十種』以前に信玄像として扱われたことはなく、また『集古十種』にはしばしば誤りがある。 信玄の末子の家系であるの史料に、成慶院の肖像は筆とあり、等伯が描いた現在の成慶院本と矛盾する。 39歳で出家し剃髪したにもかかわらず、後鬢が残されている。 服や刀の家紋が武田花菱紋でなく、二引両紋(や)である。 旧説支持者は足利将軍家からの下賜品と解釈するが、もしそうならばより権威が高く贈答品に用いられ肖像画の作例も多いが相応しく、また自家の家紋が全く描かれていないのは不可解である。 (持病の)労咳や癌で死んだと言われる割には、身体がふっくらしている。 右側に止まっているは、当時の甲斐ではあまり見られない鳥種であった。 絵師は出身の長谷川等伯であることは間違いないが、この時期に能登から出た形跡が無く、信玄との接点は薄い。 旧説支持者からは多くの仮説が出されているが、どれも成慶院本を信玄像とすることを前提としており、史料的な裏付けもない。 などの疑問点から、成慶院本の像主はの誰か、特にの可能性が高いという説を出している。 そのため、最近の教科書では成慶院本の画像は使われず、もっぱら持明院本の画像が採用されることが多い。 なお藤本によれば、花菱紋が大量に描かれ、具足の描き方などが時代的によく合っているという論拠から、東京都の所蔵の『伝像』こそが、本来成慶院にあった逍遙軒の描いた信玄像の忠実な模本であるという。 また、江戸期に描かれた他の模本類でも、前述の高野山成慶院にあったという逍遥軒筆の信玄像は、この『伝吉良頼康像』に類似する。 更に信玄の法名「徳栄軒」と、の戒名「興禅院華岳 徳栄大居士」に注目し、元々成慶院本に付属していた箱書きやに書かれていたであろう「徳栄」の文字が、後世の人々に信玄像と誤認させたのでは、という指摘もある。 しかし美術史家からは、肖像は描かれた状況からどう描いたかを考えるべきで、図像から像主を判断するのは順序が逆だとして、こうした見方に反対する意見も根強い。 しかし、こうした反論は説得性を欠き、もはや決着はついたとする研究者もいる。 武田菱 [ ] 甲府市章の菱形は武田菱を由来とする。 武田菱は、甲州武田家の家紋である。 菱形を4つ合わせた形状であり、知名度が高い。 元々は「割菱紋」と呼ばれたが、江戸期に大量に描かれた信玄像で信玄を表す家紋として使われたため、「武田菱」の呼び名が定着した。 ただし、前述のように信玄のような武田家の総領は、実際には割菱紋ではなく花菱紋を用いており、注意を要する。 旧甲斐国の山梨県では、から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。 またの車両などの装備品や、の特急「」「」に使われるのデザインにも用いられている。 また、は、校舎が武田氏の傍流武田氏の居城のあったの麓に立地していることにちなみ、校章には武田菱があしらわれている。 同じ広島県の呉武田学園は、安芸武田氏の末裔が設立した学校である事から、この学校の校章は武田菱をモデルとした校章を採用している。 長野県の山麓にあるなどの名称「五竜」は「御料」もしくは「御菱」が変化したものであり、雪解けの季節に武田菱に似た模様が山肌に現れるため武田家の「御料」と定められ(もしくは武田家の「御菱」ということから)、それが「五竜」と変化した、とする巷談がある。 詳しくは「」の項目参照。 なお、で行われる新年一般参賀やの一般参賀において使用される宮殿・長和殿のベランダ(やらが立つ位置)周辺に武田菱と同じ紋様が存在するが、これは古くから宮中の調度、装束に用いられているもので、甲州武田家とは無関係である(広報係の回答より)。 後世の評価 [ ] 南口前の武田信玄公之像 が成立してから著しく評価を落とされた とは対照的に、信玄は「 家康公を苦しめ、人間として成長させた武神」として高く評価された。 信玄の手法を家康が参考にした事から、「 信玄の神格化=家康の神格化」となるので幕府も信玄人気を容認していたとされる。 には信玄の治世や軍略を中心とした『』が成立。 が流布されたほか、『甲陽軍鑑』を基に武田家や川中島合戦を描いた文学がジャンルとして出現した。 また、江戸時代中期以降は一円が支配となった甲斐国においては、や、の甲州三法に象徴される独自の制度を創始した人物と位置づけられ、崇められるようになった。 明治には信玄のイメージが広く定着するが、江戸期を通じて天領であった山梨県においては信玄は郷土史の象徴的人物と認識されるようになった。 前はがのへの昇格条件に信玄の勤王事跡の挙証を条件としていたこともあり、郷土史家により信玄を勤王家と位置づける研究も見られた。 戦後は、やを排した実証的研究が中世史や武田氏研究でも行われるようになった。 また1987年(62年)に発足した武田氏研究会では、、、、、、らの研究者によって、実証的研究や武田氏関係史料の刊行を行っている。 戦後には産業構造の変化からが山梨県の主要産業になると、観光事業振興の動きの中で、信玄は山梨県や甲府市などの自治体、民間の企業・団体によって、歴史的観光資源となる郷土の象徴的人物として位置付けられた。 信玄の命日にあたる4月12日の土日には「甲州軍団出陣」を目玉とした都市祭礼であるが開催されており、また山梨の日常食であったが「信玄の陣中食」として観光食としてアピールされるなど、観光物産に関わる様々な信玄由来説が形成された。 やのように名を冠した商品もあるほか、「」と自称するも長野県内などを含めて点在する。 関連施設も複数ある。 恵林寺山内の「信玄公宝物館」(甲州市) 、「甲府市武田氏館跡歴史館」 愛称「信玄ミュージアム」) などである。 系譜 [ ] 武田氏はの中の系のを祖とするの棟梁。 武田氏は甲斐守護も務め、信玄は第19代当主に当たる。 母: 兄弟 武田二十四将 武田家は勝頼の代で滅亡しているが、武田家の遺臣は徳川氏によって保護され、中には幕府に仕えて活躍したものもいる。 また、甲斐では村落に居住しつつも武田旧臣に由緒を持ち、特権を保持していたが存在していた。 江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、信玄時代の武田家の武将達の中で特に評価の高い24名の武将を指して(武田二十四神将)と言われるようになり、信玄の名は知られることになった。 原典は江戸時代に作られたやで、正式に武田家中で二十四将という区分や呼称は存在しない。 選ばれた武将達も時代は離れており、全員が同時期に信玄に仕えたことはない。 庶民の評価で決まったものらしく、資料によって顔ぶれが異なる。 なお、この種の群像では主君を入れないのが一般的だが、武田二十四将には家臣が23名しか入らず、信玄自身が二十四将の一人に数えられていることが特徴である。 他に(武田四名臣とも、信玄・勝頼を支えた馬場信春、内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信の4人を指す)も有名である。 関連作品 [ ] 小説• - 文藝春秋、• 武田信玄 - 講談社、• 武田信玄 - 成美堂出版、• 武田三代記 - 新人物往来社、• - 新潮社、 映画• ((昭和55年)、東宝・、武田信玄と影武者の二役:)• ((昭和44年)、・、:、武田信玄:) テレビドラマ• ((昭和41年)、、武田信玄:)• ((昭和63年)、、武田信玄:(家督争い直前までは))• ((平成3年)、、武田信玄:)• (同年、、武田信玄:)• ((平成4年)、「年末大型時代劇スペシャル」第8弾、武田信玄:)• ((平成18年)、、武田信玄:)• ((平成19年)、NHK大河ドラマ、武田信玄:、元服直前期(幼名:勝千代)は) 漫画• 武田信玄 - 、原作:• 武田信玄 - 、原作:新田次郎• 炎の虎信玄 -• ここから風林火山 - コンピュータゲーム• 武田信玄• 武田信玄2 ホット・ビィ• 2P側が武田信玄• イケメン戦国〜時をかける恋〜 アーケードゲーム• ()SR武田信玄等 ボードゲーム• 武田騎馬軍団 -• 謙信VS信玄 川中島の戦い -• 竜虎激突 信玄謙信 - 第8号、• 信州制圧 〜武田信玄の信州制圧〜 - コマンドマガジン日本版第56号、国際通信社• Kawanakajima 1561 - Hexasim フランスのゲームメーカー。 武田信玄ゲーム - 大河ドラマ武田信玄放送時に定価2,000円で発売された川中島での上杉謙信との戦いをテーマにしたボードゲーム。 8歳〜大人向け。 ((平成2年)、)• ((平成21年)、バンダイ)• ((平成26年)、株式会社ピーエムオフィスエー)武田信玄をモチーフとしたロボット 歌謡曲• 日本の名将 武田信玄 ()• 長編歌謡浪曲 戦国塩物語 () 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• 『甲陽軍鑑』では幼名「太郎」に加え「勝千代」とも呼ばれたとされる。 福島勢の侵攻・信玄出生に関しては『』『』ともに『』資料編資料編6中世3上(県内記録)など。 信玄の幼名は確実な史料では「太郎」であるが、『』によればこの時の勝利に因み「 勝千代(かつちよ)」とも名付けられたという。 信玄は後世に英雄視されていることから出生伝説もつくられた。 『甲陽軍鑑』や『武田三代記』などによれば、信玄誕生の折、産屋の上に一条の雲がたなびき白旗の風に翻るように見えたが、それが消えた時、一双の白鷹が3日間も産屋にとまったとされる。 このため、の神使が若君(信玄)を守護してくれるのだと末頼もしく思ったとされている。 別の話では、信虎が陣中で休息している時、が自分の子になる夢を見て、その時に信玄が生まれたとされている。 信虎追放に関しては『勝山記』や『』など甲斐国内史料に記される信虎の対外侵攻の軍役やに際してのなど「悪行」を原因としていることから、『』による合意による隠居であったとする説、今川義元との共謀説などの諸説ある。 『甲陽軍鑑』では追放の原因を不和とし、晴信は嫡男として遇されていたが、信虎との関係は険悪化しており、7年()の祝いの時、信虎は晴信には盃をささず、弟の信繁にだけ盃をさしたという逸話を記している。 平山優は隣国の経済制裁(路次封鎖)や凶作による食料の高騰が、大飢饉のあった天文10年に深刻化したのを原因として国内の「代替わり徳政」を求める声に晴信が対応したとする。 一方で信虎期の甲斐国衆は信昌・信縄期の内紛をきっかけとして今川氏や諏訪氏などの隣国の大名の傘下に入っており、甲斐一国を平定しようとすると国衆の救援を名目とする隣国との対外戦争や経済制裁は避けられなかった側面があるとして、それらを単純な信虎の「悪行」とみなすことは出来ないとしている。 信虎期からの外交方針の転換については、晴信が官途名を「」から「」に改称していることにも象徴されていると指摘される。 晴信は天文10年6月に信虎を追放し家督を相続しているが、同年5月ので小県を追われたは、信濃の隣国である上野に拠する・を頼った。 同年7月に憲政は信濃佐久郡へ侵攻し、当時の諏訪領主であった諏訪頼重は、同盟相手である武田・小県郡村上氏へ断りをせず、独断で上杉方と和睦して、所領の分割を行っている(『神使御頭之日記』)。 晴信の諏訪侵攻はこの翌年に行われていることから、諏訪侵攻の背景には信濃・上野地域における外交情勢が関係していると考えられている。 『』によれば晴信は小田井原で討ち取った約3,000人の首級を夜のうちに志賀城の周りに打ち立てる。 志賀城の城兵はこれを見て戦意を阻喪し、8月10日正午に外、深夜には二の曲輪に火を掛け城兵を追い詰め、翌11日正午頃に志賀城は陥落。 笠原清繁は甲斐衆の萩原弥右衛門が、は諏訪衆の小井弖越前守が討ち取り、城兵三百余が戦死した。 笠原清繁の妻はが貰い受けた。 さらに残った女子供と奉公の男は人質として2から10貫文という法外な値を要求し、大半はの坑夫や、として人身売買されたという。 なお、『勝山記』天文24年条に拠ればこの時、300挺、弓800張が動員されたとしており、武田氏の合戦においてはじめて鉄砲の使用が確認される記事として注目されている。 は「神田孝平氏所蔵文書」に含まれた足利義輝宛の手紙を根拠に、信濃守護補任が数年遡る可能性を指摘している。 『戦武』 - 664号。 なお『甲陽軍鑑』では出家時期を天文20年2月とするが、文書上からは否定されるほか、出家時期を宛の手紙(『山梨県史』資料編5、二六一七)を根拠に、永禄元年12月とする説も提示されている。 ただし、天文年間後期(小田井原の戦い以降)にはの上野市河氏や国峯小幡氏は既に武田氏に帰属している。 武田氏の外交を錯綜させた原因の一つとして、当時武田氏に従属しながら織田氏とも結んで斎藤氏に反抗し、更に今川氏の勢力圏である三河の加茂郡・設楽郡への進出を止めようとしなかった美濃遠山氏の独自行動に振り回される形になっていたのも一因と考えられる。 また、下条氏など一部の信濃国衆も以前より美濃に進出して信玄もその所領を安堵していたことから、信玄としては斎藤氏の封じ込めに参加せざるを得なくなっていた。 義信事件の経緯は不明であるが、永禄8年10月15日には義信傅役の飯富虎昌が処刑 、永禄10年10月19日には甲府に幽閉されていた義信が自害しており、事件後には領国の動揺を沈静化させるためであると考えられている文書が発給されている。 嫡男義信は正室が今川氏真妹で武田家においても親今川派の人物であったと考えられており、義信事件の背景には今川氏との外交関係を巡る武田家内部の事情が関係していると考えられている。 駿河侵攻の経緯についてはを参照。 武田氏の領国拡大過程において、天文23年のの制圧において、東美濃国衆が武田方に帰属しており、この頃から尾張隣国である美濃斎藤氏との緊張関係が発生している。 弘治2年4月には斎藤氏と信長の抗争が勃発し、武田氏は遠山氏を介して美濃情勢に介入しており、このころから織田氏との外交関係がもたれていたと考えられている。 元亀2年、信玄は甲相同盟を背景に大規模な遠江・三河への侵攻を開始したとされているが、近年では元亀2年の三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている。 信長は甲越和与の調停中で武田との友好的関係は保たれており、元亀3年の軍事行動は手切の通告がなされない突然のものであったと考えられている。 元亀3年の軍事行動の経緯についてはを参照。 信玄のに関しては、侍医御宿監物書状(『戦武』 - 2638号)にみられる持病の()、、『甲陽軍鑑』による若しくはによる病死説が有力である。 には『』において三河野田城攻城における狙撃が元で死去したとする説を記しているほか、近代にはとして蔓延した病に死因を求める見解も生まれている。 山県昌景のこと。 信玄没後百五十回忌に吉里が奉納した。 なお同論文では、像主が畠山徳栄であると共に、切り取られたという賛の筆者が徳栄だった可能性を指摘している。 なお同論文は、近年の武田氏研究を総括し、今後の課題を述べている。 出典 [ ]• 2018年1月8日閲覧。 『』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。 「武田信昌」『日本人名大辞典』講談社。 『高白斎記』に拠る。 「信」は武田氏の。 平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』戎光祥出版<中世武士選書・42>、2019年 p. 249-263・354-356. 秋山敬「武田氏の国人被官化過程と政権意識」『甲斐武田氏と国人』(高志書院、2003)• 平山優 『川中島の戦い』 学習研究社、2002年。 (上巻) 下巻• 鴨川達夫『 日本史リブレット人043 武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏』、2011年、57-60頁、)• 鴨志田智啓「武田信玄呼称の初見文書について」 『戦国史研究』60号、2010。 鴨川達夫『 日本史リブレット人043 武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏』山川出版社、2011、60頁• 154 [ ]• , p. 155 [ ]• 「天文期の山内上杉氏と武田氏」、柴辻俊六編 『戦国大名武田氏の役と家臣』 岩田書院、2012年。 西上野侵攻については、柴辻俊六「武田信玄の関東計略と西上野支配」『戦国大名武田氏領の支配構造』。 「信玄の拡大戦略 戦争・外交・同盟」、柴辻俊六編 『新編武田信玄のすべて』 新人物往来社、2008年。 丸島和洋「高野山成慶院『甲斐国供養帳』-『過去帳(甲州月牌帳)』」『武田氏研究』第34号、2006年。 義信事件については平山優「武田勝頼の再評価」『新府城と武田勝頼』(山梨県韮崎市教育委員会、2001年)、• 「甲越和与」の経緯については丸島和洋「甲越和与の発掘と越相同盟」『戦国遺文武田氏編 月報』6• 柴辻俊六「越相同盟と武田氏の武蔵侵攻」『戦国期武田氏領の展開』• 鴨川達夫『武田信玄と勝頼』〈岩波新書〉、2009年。 「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007年。 柴辻俊六「戦国大名自筆文書の考察-武田信玄を事例として-」『山梨県史研究』第5号、1997年。 黒田基樹「武田信玄と詩歌会・連歌会」『山梨県史』通史編2中世• 平山優「武田信玄の人間像」 『戦国遺文月報』武田氏編第3巻、2003• 135 [ ]• 柴辻(2006)、p. 134 [ ]• 65-66• 『山梨県史 通史編2 中世』、p. 339• 柴辻(2006)、p. 136 [ ]• フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 3』講談社、2003年。 黒田基樹『戦国大名と外様国衆』文献出版、1997年、134頁。 「知られざる戦国武将の「健康術と医療」」『歴史人』8巻9号、2017年。 狩野探信(の長男)筆『武田信玄画像』 山梨・蔵、絹本著色、5年()。 柳沢吉里筆 『武田信玄画像』 山梨・蔵(武田信玄公宝物館保管展示)、絹本著色、指定文化財、8年()• 石川博 「信玄伝説 由緒と図像」(『よみがえる武田信玄の世界 山梨県立博物館開館記念特別展』図録、、2006年)• 例えば、東京大学史料編纂所所蔵の模本()など。 藤本正行『武田信玄像の謎』〈 206〉、2006年。 「土佐家伝来の伝足利義政像について」『日本歴史』2012年9月号、、 31頁。 柴辻俊六「最近の武田氏研究と信濃」『信濃』第66巻第11号、2014年、 815頁。 (2019年4月13日閲覧)。 甲府市ホームページ(2019年4月13日閲覧)。 参考文献 [ ]• 武田氏研究会 『武田氏研究』(1988年〜継続刊行中、年3回刊)• 『定本武田信玄』(、1978年)• 『武田信玄』(、1985年)• 『武田信玄』(、1997年)• 笹本正治 『武田信玄』(、2005年)• 『武田信玄像の謎』(、2005年)• 『武田信玄合戦録』(、2006年)• 柴辻俊六 『信玄の戦略』(、2006年)• 『武田信玄』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー221〉、2006年。 『よみがえる武田信玄の世界 山梨県立博物館開館記念特別展』図録(、2006年)• 『武田信玄と勝頼』(、2007年)• 柴辻俊六 『信玄と謙信』(、2009年)• 『武田信玄・勝頼の甲冑と刀剣』(、2011年) 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 - 武田家の家宝• - 武田家家臣末裔者の会• - 信玄が駿河侵攻の際に成就を祈願して奉納された太刀である備前長船景光を所蔵。 また、武田信玄が寄進したと言われる桜がある。 - 明治期の軍人。 優れた戦略家であると評され、山梨出身であることから「今信玄」と呼ばれた。 - 武田氏の一族であるの子孫。 中央政界や県政において影響力を持ち、全盛期には信玄にたとえられた。 - 信玄が北条氏康を攻めた際、当社は陣所とされて戦火に遭う。 - 信玄の進攻を何度にも渡って防いだといわれる武将。 - 2017年度の日本心臓財団の支援キャンペーン「謙信と信玄、検診の進言」にと共に登場している。 - 法性兜の現物と複製品を所蔵• - 信玄は戦に際し、指揮・命令又は戦意高揚の為に御諏訪太鼓衆の陣太鼓を用いていた。

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武田信玄

武田 信玄 家紋

菱紋と言えば、武田家の紋としてあまりにも有名である。 左の画像は南部家で使用された鶴菱。 武田家は、清和源氏義光流の正統的な武家であるが、家伝には、家祖・新羅三郎義光より伝わる家宝「楯無」の金具に描かれた花菱にちなんで割り菱を家紋にしたとある。 菱紋には割菱系と花菱系があるが、かの武田信玄は両方とも使用したという。 武田家の分家は、奥州の南部家、小笠原家、松前家など、全国に発展して行ったが、それらはみな菱紋系の紋を使用している。 菱紋には、武家の正統としてのプライドと武田信玄の威光が今でも輝いているのである。 全国では11位。 やはり、信玄のお膝元の山梨県では1位。 他では福岡県で5位、山口県で6位が目立つくらいだ。 このページでは菱紋の中でも菱紋(割り菱、三階菱、松皮菱等)のみを掲載。 花菱紋、大内菱紋、三条花角紋などの有名人にご興味のある方はをご覧下さい。 北畠親房。 1293年3月8日 — 1354年6月1日、 公家。 村上源氏庶流の北畠師重の子。 『 神皇正統記』の作者。 後醍醐の皇子世良親王の養育をする。 ・と共に「後の三房」と呼ばれ、後醍醐の信任厚かった。 後に、京都を逃れた後醍醐が吉野で開いた 南朝に従う。 家紋は割菱と笹竜胆。 武野紹鴎。 1502年 — 1555年12月12日、 茶人。 武田一族(武田信孝の孫)で、父は信久。 武田新四郎の名を持つ武士であったが、武野に改姓。 堺の豪商(武具商あるいは皮革商)として財を成す一方で茶人として活躍。 今井宗久、、津田宗及、などは紹鴎の弟子。 家紋は丸に割菱。 武田信玄。 1521年12月1日 — 1573年5月13日、 甲斐の戦国大名。 甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の長男。 越後のと5次にわたると言われる 川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定。 晩年には上洛の途上、三河で病を発し信濃で病没した。 画像は菩提寺の本墓の割菱紋。 三好長慶。 1522年3月10日 — 1564年8月10日、 武将。 管領細川晴元の家臣で、後の山城国五郡の守護代、三好元長の嫡男として生まれる。 家系は清和源氏の一家系・河内源氏の傍系・甲斐源氏・小笠原氏の庶流である三好氏。 出現以前に畿内を平定。 幕府の相判衆となり実権を握る。 家紋は三階菱。 安国寺恵瓊。 1539年 — 1600年11月6日、 禅僧・大名。 安芸国沼田郡出身。 安芸武田氏の一族である武田信重の子。 氏の外交僧。 氏との和睦、へ臣従する際の交渉に活躍。 関ケ原の戦いではを西軍の総大将として担ぎ出すことに成功するも敗れて、斬首された。 家紋は武田菱。 南部利直。 1576年4月13日 — 1632年10月1日、 南部氏当主。 第26代当主・南部信直の長男として三戸の田子城にて出生。 南部家は清和源氏の河内源氏の流れをくむ。 関ヶ原の戦いでは帰国して一揆を鎮圧。 このため、から所領を安堵され、 盛岡藩の藩祖となった。 家紋は割り菱、南部鶴、鶴菱を使用。 溝口宣勝。 1582年 — 1628年11月24日、 武将。 若狭国高浜出身。 父・溝口秀勝と共にに仕える。 関ヶ原の戦いに際してはに扇動された越後一揆を征圧。 父の死により後を継いで新発田藩第2代藩主となり積極的な新田開発を行なう。 家紋は溝口菱紋。 画像は文京区吉祥寺の墓所にて撮影。 梶川頼照。 1647年 — 1723年9月7日、 旗本。 江戸出身。 通称は与惣兵衛。 江戸城大廊下でがに殿中刃傷に及んだ際にを取り押さえたという。 家紋は折敷に二つ菱紋。 家紋画像は中野区・天徳院にて撮影。 顔画像はTBSのテレビドラマ『大忠臣蔵』で梶川を演じた。 河合曾良。 1649年 — 1710年6月18日、 俳諧師。 信濃国下桑原村出身。 蕉門十哲の一人として 松尾芭蕉の『 奥の細道』における奥州・北陸の旅に同行し「曾良旅日記」を残した。 晩年は、幕府の巡見使随員となり九州を廻るが、その途中に壱岐にて病没。 家紋は丸に組み合い菱紋。 壱岐の墓所にて確認。 田中久重。 1799年10月16日 — 1881年1月11日、 発明家。 筑後国久留米の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男。 国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型、 アームストロング砲を完成。 また、 万年自鳴鐘(重要文化財)も完成。 東芝の基礎となる田中製造所を設立。 画像は青山霊園の墓所にて撮影。 稲妻雷五郎。 1802年 — 1877年3月29日、 大相撲力士。 常陸国河内郡阿波崎村出身。 本名は根本才助。 第7代横綱。 松江藩お抱えの江戸時代に活躍した。 幕内通算25場所130勝13敗14分3預1無勝負73休、勝率9割9厘、優勝相当成績12回。 タレントの 山咲トオルは稲妻雷五郎の子孫といわれる。 家紋は三階菱紋。 武田耕雲斎。 1803年 — 1865年3月1日、 幕末の志士。 水戸藩士・跡部正続の子。 読みは、たけだこううんさい。 家督を継ぐと同時に武田氏に改姓。 戸田忠太夫、と並び水戸の三田と称される。 の影響を強く受け尊皇攘夷派となる。 天狗党の首領として、京都へ進軍するが、追討を受けて降伏、斬首された。 雲龍久吉。 1822年 — 1890年6月15日、 大相撲力士。 筑後国山門郡大和村出身。 柳川藩のお抱え力士。 第10代横綱。 2つの横綱土俵入りのうち、 不知火型の考案者といわれている。 幕内通算成績は26場所127勝32敗15分5預55休、勝率. 799。 優勝相当成績7回。 家紋は三階菱紋。 小笠原長行。 1822年6月29日 — 1891年1月25日、 幕府老中。 肥前国唐津藩主・小笠原長昌の長男として出生。 老中職の中に 生麦事件で幕府に無断で賠償金を英国に支払い老中職を罷免される。 復職するが第2次長州征討では連敗を重ね、二度目の老中罷免。 戊辰戦争では函館まで戦う。 画像は烏山・幸龍寺にて撮影。 松前崇広。 1829年12月10日 — 1866年6月9日、 松前藩藩主。 蝦夷松前藩出身。 9代藩主・松前章広の六男。 第二次長州征伐にの供をし 陸軍兼海軍総裁となる。 老中の阿部正外とともに独断で兵庫開港を決定、官位剥奪、謹慎を命ぜられる。 家紋は割り菱紋。 画像は文京区吉祥寺の松前家の墓所にて撮影。 萱野権兵衛。 1830年 — 1869年6月27日、 会津藩家老。 会津藩出身。 萱野家は侍大将を務める名家。 の側近としてその補佐役を務めた。 会津戦争では、会津城外にあって若松城の完全孤立を避ける任務に当たったが落城。 戦後、東京において自刃。 家紋の括り菱紋は白金興禅寺にて撮影。 木村芥舟。 1830年2月27日 — 1901年12月9日、 幕臣。 父は浜御殿奉行の木村喜彦。 家紋は丸に松笠菱紋。 老中によって目付に登用される。 軍艦奉行、 咸臨丸の司令官を務めた。 帰国後の木村は軍艦奉行の職務に復帰。 幕府海軍の創設を目指して様々な活動を行っている。 画像は青山霊園にて撮影。 岩崎弥太郎。 1835年1月9日 — 1885年2月7日、 実業家。 土佐国の地下浪人の子として生れる。 海援隊の経理を担当。 明治の動乱期に 政商として巨利を得て、 三菱財閥を創業。 娘婿から及びの2人の内閣総理大臣を輩出。 家紋は三階菱紋。 画像は染井霊園・岩崎家の墓所にて撮影。 西村勝三。 1837年1月15日 — 1907年1月30日、 実業家。 下総国佐野藩の藩邸で付家老平右衛門と楽子の3男として生まれる。 幼名三平。 兄は貴族院議員 西村茂樹。 桜組製靴の創業者。 築地に伊勢勝造靴場を設立し、 日本で最初に靴の製造を行う。 家紋は五つ松皮菱紋。 画像は品川・東海寺の墓所にて撮影。 大倉喜八郎。 1837年10月23日 — 1928年4月22日、 実業家。 越後国新発田出身。 鉄砲商から政商となり 大倉財閥を設立。 鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。 大倉商業学校 現 東京経済大学 の創設者。 ホテルオークラは長男の大倉喜七郎によって設立された。 家紋は溝口菱紋。 画像は護国寺にて撮影。 永倉新八。 1839年5月23日 — 1915年1月5日、 新選組二番隊組長。 松前藩士・長倉勘次の次男として江戸屋敷で生まれる。 本姓は長倉。 読みは、ながくらしんぱち。 池田屋事件で活躍。 戊辰戦争では甲陽鎮撫隊に属して戦うが敗走する。 家紋は石持地抜き松皮菱。 画像は北区竜野川の寿徳寺墓所の中陰松皮菱紋。 高杉晋作。 1839年9月27日 — 1867年5月17日、 長州藩士。 長門国萩城下菊屋横丁出身。 長州藩士・高杉小忠太(家禄200石)の長男。 の 松下村塾などで学び、攘夷論を信奉した。 下関戦争、長州征伐などで 奇兵隊など、諸隊を率いて大活躍し、長州藩を倒幕に方向付けた。 家紋は丸に割菱。 岡内重俊。 1842年5月11日 — 1915年9月20日、 司法官。 土佐国土佐郡出身。 藩士岡内清胤の長男。 読みは、おかうちしげとし。 海援隊に入り秘書役として活躍。 維新後、、らと共に征韓論に抗して高知の征韓論者説得に努めた。 家紋は丸に亀甲に武田菱紋。 画像は谷中霊園の墓所にて撮影。 野村靖。 1842年9月10日 — 1909年1月24日、 志士、政治家。 長州藩出身。 下級武士・入江嘉伝次の二男。 野村氏を継承。 読みはのむらやすし。 松下村塾に入門して尊皇攘夷に傾倒。 第二次長州征伐でも活躍。 維新後、駅逓総監、逓信次官などを歴任。 家紋は菱に左三つ巴紋。 画像は神社にて。 雨宮敬次郎。 1846年10月24日 — 1911年1月20日、 実業家。 甲斐国山梨郡牛奥村に生まれる。 投機界の魔王と呼ばれた。 結束して商売にあたった甲州商人、いわゆる 甲州財閥(、など)と呼ばれる集団の一人。 泰靖社( 日本製粉株式会社の前身)を起業。 家紋は丸に割り菱。 林忠崇。 1848年8月26日 — 1941年1月22日、 大名。 上総国請西藩主林忠旭の五男。 読みは、はやしただたか。 戊辰戦争の際、自ら脱藩して藩士70名とともに遊撃隊に参加し等とともに新政府軍と交戦。 維新後は一介の士族として困窮した生活を送った。 家紋は丸に三つ巴に一の字紋と三階菱紋。 三遊亭円遊 初代。 1850年7月7日 — 1907年11月26日、 落語家。 江戸小石川小日向出身。 本名は竹内金太郎。 大きい鼻で知られており「 鼻の圓遊」と呼ばれていた。 寄席において落語の後の余興として奇妙な踊りを披露して大人気を博した。 明治時代の落語界・中心人物。 家紋は武田菱紋。 画像は天王寺墓地にて撮影。 岸本辰雄。 1851年11月13日 — 1912年4月5日、 法学者、教育者。 現在の鳥取市に鳥取藩士岸本平次郎の三男として生まれる。 、らとともに 明治大学の前身である明治法律学校を創設、初代校長となる。 法制局参事官、司法省参事官、大審院判事を歴任。 家紋は丸に鉄砲松皮菱紋。 画像は谷中霊園にて撮影。 武田仰天子。 1854年8月19日 — 1926年4月10日、 作家。 大阪府堂島に生まれる。 本名は頴(えい)。 東京朝日新聞に入社。 小説欄を担当し、長編時代小説を30編ほど執筆した。 代表作は『二代忠孝』『武蔵坊弁慶』『鎮西八郎為朝』『長屋喜兵次』等。 家紋は陰割菱紋。 画像は谷中・臨江寺の墓所にて撮影。 中上川彦次郎。 1854年10月4日 — 1901年10月7日、 実業家。 豊前国中津藩出身。 藩士・中上川才蔵の長男。 三女はタレント・参議院議員の藤原あき。 財閥の工業化と不良債権処理を推進し中興の祖として高く評価されている。 家紋は割り菱に鐶木瓜紋。 青山霊園の墓所にて撮影。 大石正巳。 1855年5月26日 — 1935年7月12日、 政治家。 土佐国(高知県)出身。 立志社に参加し、 自由民権運動に従事。 進歩党結成に参加。 第1次内閣で農商務大臣として入閣。 総裁の下で、等と総務5人の一人となる。 家紋は割り菱紋。 青山霊園の墓所にて撮影。 末岡精一。 1855年6月20日 — 1894年1月22日、 法学者。 山口県熊毛郡田布施町宿井出身。 庄屋・末岡太兵衛景徳の次子。 日本法律学校(現 日本大学)の創立に参画する。 行政学担当。 著作に『行政裁判法講義』『行政法汎論講義』『比較国法学』がある。 家紋は丸に三つ菱紋。 青山霊園の墓所にて撮影。 一戸兵衛。 1855年8月2日 — 1931年9月2日、 陸軍軍人。 弘前藩出身。 藩士の長男。 読みは、いちのへひょうえ。 日露戦争に出征し、旅順攻囲戦で功をあげる。 最終階級は 陸軍大将。 教育総監に就任する。 後備役後に学習院院長、明治神宮宮司に就任した。 家紋の丸に割菱紋は多磨霊園の墓所にて撮影。 三好学。 1862年1月4日 — 1939年5月11日、 植物学者、理学博士。 美濃国岩村藩出身。 生まれは岩村藩江戸藩邸。 桜、菖蒲の研究、及び天然記念物保存事業に力を注いだ。 日本に「 記念物(デンクマール、denkmal )の概念を広めた。 「 景観」という言葉を生み出した。 画像は多磨霊園の墓所にて撮影。 伊藤伝右衛門。 1861年1月6日 — 1947年12月15日、 実業家。 筑前国穂波郡大谷村幸袋出身。 父の伝六は目明かし。 炭鉱業で成功し、後に政友会より衆議院議員となる。 伯爵の妹であると再婚。 NHK朝の連続ドラマ小説「 花子とアン」の嘉納伝助のモデルとなる。 家紋は丸に三つ菱紋。 小山善太郎。 1863年4月15日 — 1940年、 血液循環療法始祖。 岡山県浅口郡玉島町上成出身。 読みは、こやまぜんたろう。 先祖は、赤穂義士のの養父である良昭の弟の小山良秀の養子の源五左衛門良師。 自らリューマチを患い、血液循環療法を創見した。 家紋の丸に三階菱紋は多磨霊園の墓所にて撮影。 石原健三。 1864年2月20日 — 1936年9月4日、 官僚、政治家。 岡山県出身。 農業・石原庫平の三男として生まれる。 山梨県知事をはじめ、千葉県、高知県、静岡県、愛知県、神奈川県の各知事、北海道庁長官を歴任した。 その後、宮内次官に就任した。 家紋は丸に重ね菱紋。 画像は多磨霊園の墓所にて撮影。 内田康哉。 1865年11月17日 — 1936年3月12日、 政治家・外相。 熊本藩出身。 藩医・内田玄真の子。 第2次内閣、内閣、内閣、内閣、内閣に於いて外務大臣を務める。 関東大震災時には、内閣が組閣されるまで、震災対策の指揮を執った。 家紋の松皮菱は「華族家系大成」による。 松村龍雄。 1868年2月25日 — 1932年7月18日、 海軍軍人。 佐賀県出身。 松村安種海軍少佐の長男。 日露戦争には「吾妻」副長として出征し、 日本海海戦では「三笠」副長として参戦した。 最終階級は 海軍中将。 家紋は違い中菱紋。 画像は、多磨霊園にある弟・松村菊勇海軍中将の墓所にて撮影。 杉山四五郎。 1870年2月6日 — 1928年6月13日、 内務官僚。 越後国出身。 大庄屋役の五男。 読みは、すぎやましごろう。 第12回衆議院議員総選挙で神奈川県郡部区に立憲政友会から出馬し当選。 内務省衛生局長、宮崎県知事、京都府知事、内務次官を務める。 家紋の松皮菱紋は谷中霊園の墓所にて撮影。 松田源治。 1875年10月4日 — 1936年2月1日、 政治家。 大分県出身。 初め立憲政友会に入るが、政友本党結成に参画し離党。 後に政友本党が憲政会と合併して立憲民政党を結成するとそれに伴い民政党に所属した。 内閣で拓務大臣、内閣で文部大臣に就任。 家紋の丸に松皮菱紋は多磨霊園にて撮影。 松林桂月。 1876年8月18日 — 1963年5月22日、 日本画家。 山口県萩市出身。 元の姓は伊藤、本名は篤。 南画の表現に新たな世界を開拓し 南画界の重鎮と言われる。 近代の写生画の流行を十分に取り込みながら、漢籍・漢詩の素養に裏付けされた品格の高い作風が特色。 家紋は丸に松皮菱紋。 青山霊園の墓所にて撮影。 小林躋造。 1877年10月1日 — 1962年7月4日、 海軍軍人。 広島市台屋町出身。 旧安芸広島藩浅野家家臣・早川亀太郎の3男。 読みは、こばやしせいぞう。 最終階級は 海軍大将。 予備役編入後、台湾総督、貴族院勅選議員、国務大臣などを歴任。 家紋は丸に割り菱紋。 画像は多磨霊園の墓所にて撮影。 宇野円空。 1885年11月27日 — 1949年1月1日、 宗教民族学者。 京都出身。 姉崎正治に学び、宗教民族学の分野を開拓。 母校東京帝大の助教授、東洋文化研究所教授となる。 学位論文「マライシアに於ける稲米儀礼」で恩賜賞を受賞。 主著「宗教学」「宗教民族学」家紋は武田菱紋。 本願寺和田堀廟所の墓所にて撮影。 尾崎放哉。 1885年1月20日 — 1926年4月7日、 俳人。 鳥取県邑美郡出身。 士族で鳥取地方裁判所の書記官・尾崎信三の次男。 季語を含めない 自由律俳句の代表的俳人としてと並び称される。 代表作は「 咳をしても一人」「足のうら洗えば白くなる」など。 家紋は五つ松皮菱紋は興禅寺の墓所にて撮影。 小笠原三九郎。 1885年4月5日 — 1967年12月13日、 政治家。 愛知県幡豆郡室場村 西尾市 花蔵寺町の農家に生まれる。 読みは、おがさわらさんくろう。 実業家としては極洋捕鯨社長、日本貿易振興会会長等を務める。 商工大臣・農林大臣・通商産業大臣・大蔵大臣を歴任。 家紋は丸に三階菱。 画像は護国寺にて撮影。 大野伴睦。 1890年9月20日 — 1964年5月29日、 政治家。 岐阜県山県郡美山町出身。 読みは、おおのばんぼく。 衆議院議長、自民党副総裁。 地元岐阜県に東海道新幹線 岐阜羽島駅を誘致。 を可愛がり 日本プロレスのコミッショナーを務める。 家紋は丸に三階菱紋。 画像は池上本門寺の墓所にて撮影。 福留繁。 1891年2月1日 — 1971年2月6日、 海軍軍人。 鳥取県西伯郡所子村の農家に生まれた。 読みは、ふくとめしげる。 太平洋戦争中に軍令部第一部長、連合艦隊参謀長などの要職を務め、太平洋戦争中に、日本海軍の作戦の中枢にあった。 最終階級は 海軍中将。 家紋は菱に蔦紋。 画像は多磨霊園にて撮影。 武井武雄。 1894年6月25日 — 1983年2月7日、 童画家。 長野県平野村出身。 裕福な地主の家に生まれる。 子供向けの絵を「童画」と命名し、芸術の域にまで高めた。 等とともに日本童画家協会を結成。 の推薦で日本版画協会会員となる。 紫綬褒章受章。 家紋の割り菱紋はにて確認。 内田栄一。 1901年3月25日 — 1985年7月27日、 歌手。 京都府出身。 読みは、うちだえいいち。 レーヴエに師事。 大正のはじめヴォーカルフォア合唱団を主宰。 「トスカ」のアンジェロッティ以来、藤原歌劇団で活躍。 戦中は、「 月月火水木金金」が大ヒットした。 家紋は割り菱紋。 画像は多磨霊園にて撮影。 江戸英雄。 1903年7月17日 — 1997年11月13日、 実業家。 茨城県筑波郡作岡村(現つくば市)に出生。 長女の江戸京子は小澤征爾の元妻。 不動産の復興に尽力し、社長、会長職を務め、 東京ディズニーランド、筑波研究学園都市の建設にも力を注いだ。 家紋は丸に三階菱紋。 青山霊園の墓所にて撮影。 堀辰雄。 1904年12月28日 — 1953年5月28日、 作家。 東京麹町区平河町出身。 実父・堀浜之助は、広島藩の士族。 『聖家族』で文壇デビュー。 欧米の先端的な文学の影響を受ける。 代表作は『風立ちぬ』『かげろふの日記』など。 堀家家紋は不明だが養父・上條松吉と母の墓所(向島・円通寺)の家紋は割菱。 川田晴久。 1907年3月15日 — 1957年6月21日、 歌手。 東京都本郷根津出身。 本名、岡村郁二郎。 達と「 あきれたぼういず」を結成。 多くの弟子を育てた。 また、の師匠格としても知られる。 代表曲は「浪曲ダイナ」「バナナ物語」等。 家紋は丸に松皮菱。 画像は多磨霊園の墓所にて撮影。 湯川秀樹。 1907年1月23日 — 1981年9月8日、 理論物理学者。 東京府東京市麻布区出身。 地質学者・小川琢治の三男。 1949年に日本人として初めての ノーベル物理学賞を受賞する。 また、核兵器廃絶を訴える平和運動にも積極的に携わった。 家紋は横木瓜に割菱。 画像は京都・知恩院の墓所にて撮影。 児玉誉士夫。 1911年2月18日 — 1984年1月17日、 右翼運動家。 福島県安達郡本宮町出身。 ロッキード事件の際に代理人としてその名が広く知れ渡る。 スカルノ大統領の夜の相手としてホステス根元七保子()を送り込む。 政財界の黒幕と呼ばれた。 家紋は丸に松皮菱紋。 画像は池上本門寺にて撮影。 武田泰淳。 1912年2月12日 — 1976年10月5日、 小説家。 東京市本郷区にある浄土宗の寺に大島泰信の三男として生まれる。 出生名は覚。 父の師にあたる武田氏に養子に入り武田泰淳と名乗る。 代表作は『司馬遷』『 ひかりごけ』『富士』等。 家紋は武田菱。 画像は中目黒の長泉院の墓所にて撮影。 大江宏。 1913年2月20日 — 1989年3月3日、 建築家。 秋田県秋田市出身。 読みは、おおえひろし。 父の大江新太郎は明治神宮造営技師を務めた。 代表作は『法政大学55・58年館』『伊勢神宮内宮神楽殿』『国立能楽堂』など。 日本建築学会賞大賞を受賞。 家紋は剣菱紋。 画像は青山霊園の墓所にて撮影。 笠置シヅ子。 1914年8月25日 — 1985年3月30日、 歌手、俳優。 香川県大川郡相生村出身。 本名は亀井静子。 戦後、「 ブギの女王」として一世を風靡。 監督の映画『醉いどれ天使』ではキャバレーの歌手を演じる。 代表作は『 東京ブギウギ』『買物ブギー』。 家紋は武田菱。 画像は本願寺・和田堀廟所にて撮影。 向坊隆。 1917年3月24日 — 2002年7月4日、 応用化学者。 大日本帝国関東州大連出身。 専門は電気化学で金属の腐蝕、原子炉材料を研究。 東京大学総長を務める。 文化功労者。 主著『エネルギー問題についての基礎知識』『学長の平日と休日』等。 家紋は丸に陰陽重ね菱。 画像は多磨霊園の墓所にて撮影。 大内淳義。 1919年10月10日 — 1996年4月20日、 実業家。 東京府出身。 読みは、おおうちあつよし。 日本電気入社し、日本電気が半導体や集積回路生産を開始した時からこれに携わる。 集積回路事業本部長、取締役、副社長、副会長、会長を歴任した。 家紋は丸に松皮菱紋。 画像は多磨霊園の墓所にて撮影。 大内山平吉。 1926年6月19日 — 1985年11月1日、 大相撲の力士。 茨城県那珂郡平磯町に漁師の長男として生まれる。 本名:大内平吉。 身長203cm、体重153kgの巨漢力士で最高位は 大関。 幕内通算成績:304勝256敗53休 勝率. 543。 優勝1回。 引退後は年寄錣山を襲名。 家紋は丸に松皮紋。 画像は八柱霊園の墓所にて撮影。 浅利慶太。 1933年3月16日 — 2018年7月13日、 演出家、実業家。 東京都出身。 大叔父は二代目市川左團次。 劇団四季創設者の一人で芸術総監督。 『 キャッツ』初演において日本で初めて無期限ロングラン公演を成功させる。 長野五輪開会式の総合演出も担当。 家紋は三階菱紋。 画像は谷中霊園の浅利家墓所より。 内海好江。 1936年2月23日 — 1997年10月6日、 漫才師。 東京市浅草区出身。 本名は奥田好江。 両親は夫婦漫才師の荒川小芳、林家染寿。 女剣劇や父娘漫才を経て 内海桂子とコンビを結成して活躍。 ウッチャンナンチャンの師匠としても知られる。 家紋は、丸に出鉄砲松皮菱。 画像は幸龍寺の墓所で撮影。 デヴィ・スカルノ。 1940年2月6日 -、 タレント。 東京府出身。 父は麻布区霞町界隈の大工。 インドネシア国籍。 旧名は根本七保子。 通称はデヴィ夫人。 インドネシアの スカルノ元大統領第3夫人。 デヴィをスカルノに紹介したのはという。 家紋の丸に重ね三階菱紋は紋付姿のより判断。 たこ八郎。 1940年11月23日 — 1985年7月24日、 ボクサー、喜劇俳優。 宮城県仙台市宮城野区新田出身。 本名は、斎藤清作。 プロボクサーとして日本フライ級王座を獲得。 ボクサー引退後は、コメディアンや俳優転向。 師匠は。 座右の銘は「 迷惑かけてありがとう」。 家紋の細輪に松皮菱は仙台の自宅の墓所にて撮影。 小沢一郎。 1942年5月24日 -、 政治家。 東京市出身。 本籍地は奥州市。 自治大臣、国家公安委員長、 自民党幹事長、新生党代表幹事、新進党党首、自由党党首、 民主党代表、国民の生活が第一代表、生活の党代表を歴任。 家紋は丸に三階菱紋。 画像は水沢市・伯済寺小沢家墓所にて撮影。 武田鉄矢。 1949年4月11日 -、 俳優、歌手。 福岡県福岡市博多区出身。 両親は熊本県小国町の出身。 海援隊でデビュー。 代表曲は「 母に捧げるバラード」「 贈る言葉」「 思えば遠くへ来たもんだ」。 俳優としては『 3年B組金八先生』の金八先生役があまりにも有名。 家紋は。 勝野洋。 1949年7月27日 -、 俳優。 熊本県阿蘇郡小国町出身。 妻は キャシー中島。 テレビドラマ『 太陽にほえろ! 代表出演作は『 俺たちの朝』『姿三四郎』。 家紋は五瓜に三階菱紋。 林泉寺の勝野家の墓所にて撮影。 下条みつ。 1955年12月29日 -、 政治家。 長野県松本市出身。 祖父・下条康麿は文部大臣、父・下条進一郎は厚生大臣を務めた。 また母方の祖父は、経団連初代会長・。 衆議院議員(3期)。 羽田グループに所属。 家紋は松皮菱に梶紋。 画像は染井霊園の下条康麿の墓所にて撮影。 吉田鋼太郎。 1959年1月14日 -、 俳優、演出家。 東京都出身。 劇団四季、シェイクスピア・シアター等を経て、劇団AUNを結成。 シェイクスピアやギリシア悲劇など、海外古典作品に要求される演技をこなす。 テレビドラマ『 半沢直樹』『東京センチメンタル』等に出演。 家紋の武田菱紋はより判断。 太田光。 1965年5月13日 -、 お笑いタレント。 埼玉県上福岡市出身。 読みは、おおたひかり。 田中裕二との漫才コンビ 爆笑問題のボケならびにネタ作成を担当。 代表出演番組は「 サンデージャポン」等。 家紋はと丸に松皮菱紋。 画像は多磨霊園にある父親・太田三郎の墓所にて撮影。 深沢エリサ。 1972年 — 2004年1月27日、 モデル。 東京出身。 本名は深澤絵里砂アン。 祖父は施設家具「コトブキ」(寿商店)創業者の深澤幸也。 雑誌「CREA」「anan「spring」「HF」などの誌面などを飾り、カリスマモデルとして注目された。 家紋の割り菱は多磨霊園の墓所にて撮影。 有名人の家紋索引 まさむね.

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