石井 琢朗 コーチ。 【球界ここだけの話(1950)】巨人・石井琢朗コーチが岡本に見る“三冠王”の夢

妻・詩織さんが明かす「石井琢朗が広島からヤクルトに移籍した理由」(石井 詩織)

石井 琢朗 コーチ

経歴 プロ入り前 小学校3年生の秋から野球を始め、クラス文集に「にドラフト一位で入りたい。 」と記す。 プロへ進むには強豪高に入って甲子園に出場することが近道と考え 、に進学。 1年時から背番号1を背負い 、2年時ににとして出場した。 高校2年時、の投手を見に来ていたスカウトのが、練習試合の相手投手であった石井の投球を見て、球の切れと速さに惚れ込んだ。 高校3年時のドラフト会議ではへの進学が決まっていたため どの球団からも指名されなかったが、半ば強引な形でオフ、でに入団。 大洋・横浜時代 高卒1年目の、戦で一軍初登板。 同年の戦で初初を挙げる。 首脳陣からは「桑田二世」などと評価され、投手として将来を嘱望されたが 、二軍では好投するものの一軍で結果を残せず、また本人もにあこがれるなどプロ入り当初から野手志望であり、3年目のオフに監督に転向を申し出る。 もともと須藤も石井を野手として評価しており、投手不足という事情さえなければ最初から野手転向させたい意向を持っていた。 しかしこの時に石井は「(投手は) もう限界です」と発言。 その言葉が気に入らなかった須藤に「何が限界だ、その程度で限界ならもう野球をやめろ! 」と一度は拒絶されたものの最終的には認められた。 後のインタビューで須藤は、「一度は突っぱねたがしぶとく食い下がってきたので、彼が本気だということがわかった。 それがなかったら認めなかった。 」と語っている。 からとして登録され、同時に登録名を本名の石井忠徳から 石井琢朗に変更。 シーズン後半には野手転向1年目にしてからの定位置を奪った。 、チーム名が横浜ベイスターズに変更されたのを機に背番号を 0に変更。 当初はと遊撃手のポジションを争っていたがやがて遊撃は進藤に固定され、自身は三塁を守っていたを一塁に追いやる形で「2番・三塁手」としてレギュラーを獲得し、初めて規定打席に到達。 また、数試合ながらとしても出場した。 と三塁手部門のタイトルを獲得した。 ゴールデングラブ賞は以後、まで3年連続で受賞することとなる。 には背番号を 5に変更。 主に2番打者として出場し、フル出場を果たす。 は日替わりで1、2番を打ち、初の打率三割を記録した。 同年のに初出場。 、新監督に就任したの意向により、に転向した。 慣れない守備に意識を奪われたためか前年より打撃成績を落とすも、中盤より1番打者に定着。 タイトルこそ獲得できなかったが生涯唯一の40盗塁越えを記録した。 は2番打者・との1、2番コンビが定着。 2度目のオールスター出場を果たし、この年以降オールスターには5年連続して出場することになった。 自身二度目の打率三割を記録し、初めてを遊撃手部門で獲得する。 、選手会長に就任。 の1番打者としてチーム38年ぶりのリーグ優勝、に貢献した。 初のと2度目の盗塁王のタイトルを獲得し、遊撃手としては自身初めてとなる、通算では4度目のゴールデングラブ賞を受賞。 では優秀選手に選ばれた。 103を記録し、と並んで球団創設以来初となる最多得点を獲得する。 には通算1000本、1000達成、200達成。 このうち、の戦で記録した1000本安打は、勝利投手の経験がある選手として史上10人目の記録であった。 が1試合10打点を記録したのヤクルト戦で、1試合最多得点の新記録となる6得点を記録。 自身初の一試合2本塁打も記録した。 は盗塁王を獲得した。 には2度目の最多安打を記録するなど安定した成績を残し、遊撃手としてから5年連続でベストナインを受賞した。 は140試合に出場したもののは8年ぶりに2割8分を下回った。 は1992年以来の100安打未達を記録。 231は野手転向後では最悪の数字となった。 から外された際には、野手転向時のようにゼロからやり直すつもりで自ら二軍落ちを志願した。 は2001年と同じ打率. 295の成績を残し、3度目の2桁も達成するなど復活を果たした。 だがは、全146試合に1番ショートでスタメン起用されフルイニング出場を果たすものの、打率は. 255に落ち込むなど再び低迷した。 、戦(横浜スタジアム、)の1回裏第1打席でから中前打を放ち、史上34人目の2000本安打を達成した。 栃木県出身では初の入りを果たす。 横浜球団では・以来3人目(生え抜きでは松原以来2人目)の2000安打達成で、投手として勝ち星を挙げた選手としては以来史上2人目 、またドラフト外での入団選手としては以来2人目であり 、現在ではドラフト外入団選手で最多安打記録保持者となっている。 その後、のヤクルト戦で、から安打を放ち、の持つ球団安打記録2081本を塗り替えた。 この年は打順こそ2番、3番打者として起用された試合もあったが、2年連続で全146試合フルイニングに出場。 最終的には自己最多タイの174安打を放ち、打率も2割8分台に乗せるなど再び復調を果たした。 は前年オフに膝を手術したこともあり、この年監督に復帰した大矢明彦は石井を無理せず休ませると公言。 の巨人戦の6回の守備でと交代し、連続フルイニング出場記録が当時の現役選手ではに続く2位の339試合で途切れた。 また、巨人から移籍したが1番打者に入ったことで、石井は2番打者を打つことが多くなる。 、阪神戦()の第一打席で死球を受け、右手首を骨折。 中に戦列復帰を果たすが安打数は99安打に止まり、4年連続・通算14度目のシーズン100安打達成はならなかった。 は開幕戦から再び1番打者で起用されたが、成績が芳しくなかったため頃からは7番~9番打者で起用されることが多くなった。 同年夏に開催されたのにチームの正三塁手だったが選出。 村田がいない間、若手の石川雄洋が三塁手に定着したが、最下位を独走するチーム状況を鑑みた大矢監督の若手起用の方針もあり、村田復帰後も石川は遊撃手にコンバートされ、石井はスタメンでの出場が激減した。 そして同年シーズン終了間近に球団から引退勧告を受ける。 石井は勧告を拒否し、現役続行を希望して球団にを申し出た。 国内外を問わず移籍先を探していたが、、広島が石井獲得を発表した。 2008年、自費でを借り切り、ファンへの感謝を表すイベントを開催した。 主催者発表によるとファン3500人が参加し、オークションではユニフォームが20万円以上の値で落札された。 石井は「これを区切りにして、広島で優勝できるよう頑張りたい」とコメントした。 広島時代 広島1年目のは開幕一軍でスタート。 本職の遊撃手の他に守備固めでの三塁手起用もされる。 横浜時代の応援歌が親しみやすく人気があったため、横浜応援団の計らいもありカープへの移籍後も広島応援団が引き続き使用した。 の横浜戦にて、横浜スタジアムで通算100本塁打達成。 2202試合目での達成は出場試合数で史上最遅の記録であった(従来の記録は・の1773試合。 またプロ在籍年数ではヤクルト・と並ぶ21年目で、最遅タイ)。 移籍後の横浜スタジアムでの試合では、石井が打席に立つ際に横浜ファンも応援に参加し、球場全体から大声援が送られるという光景が見られ、100号本塁打達成時は両スタンドから賞賛の拍手と歓声が送られた。 の横浜戦では、(阪神)を抜き日本歴代最多となる遊撃手としての通算1731試合出場を達成。 シーズン前半は、後半はと併用され出場試合数と打撃成績は前年を下回ったが、一年を通して一軍でプレーした。 広島選手時代 (2009年9月19日 にて) も年間を通して一軍に定着。 スタメン出場は少ないものの打率は3割を超えた。 この年の契約更改では200万円アップの年俸2700万円(推定)で契約し、広島移籍後は2年連続で年俸アップを勝ち取った。 シーズンオフに右膝のクリーニング手術を受ける。 から一軍野手コーチ兼任となってまで代打を中心に試合に出場。 同年に選手登録を抹消され、コーチ専任となって一軍に帯同していたが、記者会見を開き、シーズン限りでの現役引退を表明した。 同年シーズン本拠地最終戦のの対阪神戦()、引退試合として1番・遊撃手で先発出場。 現役最後の安打を含む2安打を放つ。 その後も一軍登録は抹消されずにの対ヤクルト戦(神宮)では9回に代打で出場(結果は右飛)。 翌、シーズン最終戦となった古巣の対戦(横浜スタジアム)では試合前に引退セレモニーが行われ、かつてのチームメイトのとから花束を受け取り、両チームのファンによる応援歌の合唱が行われた。 試合では1番・遊撃手として先発フル出場し、現役最終打席はセンターフライとなった。 石井を最後にドラフト外で入団した選手はすべて姿を消した。 現役引退後 シーズンより広島の一軍内野守備・走塁コーチに就任し 、2012年秋季キャンプから指導を開始。 2年間一塁ベースコーチを務め、シーズンは三塁ベースコーチを担当した。 シーズンより一軍打撃コーチとなり広島のリーグ優勝に貢献、シーズン終了をもって広島を退団した。 シーズンより東京ヤクルトの一軍打撃コーチを務める。 同年からが7年ぶりに復帰、春季キャンプ前から「とにかく得点にこだわりたい」と話し前年はチーム打率は前年はリーグワーストの. 234だったが2018年は同トップの. 266、総得点は658(1試合平均4. 6)も昨年よりも200点近い上積みに成功した。 は高卒2年目のを一軍に定着させるなど尽力したが、チーム打率が. 244とリーグワーストに低迷し最下位逆戻りの一因になった。 同年9月29日に契約満了に伴い退団が発表された。 2019年10月29日、の一軍野手総合コーチ就任が発表された。 人物 一言居士で、横浜時代は監督やチームの方針に納得がいかないと、臆することなく意見することが多かった。 また熱い性格から、試合中も退場処分こそないものの、審判の判定に納得がいかないと、激昂するシーンも多く見られた。 登録名の 琢朗は、野手に転向する際、大成する字画の名前として高校時代の先輩のアドバイスから付けられたもの。 1997年には同姓のがベイスターズに入団してきたため背ネーム表記が T. ISHII、報道やスコアボードでの表記も 石井琢に変更され、球場アナウンスもフルネームで呼称されるようになった。 2002年に横浜に在籍したが同年限りで引退、2003年には石井義人も移籍したため、報道などでは「石井」表記に戻ったが、その他の表記等は以前のままとしており、これは広島移籍後も続いた。 ヒット1本につき1万円を積み立て、シーズン後に福祉関連先に寄付したり、横浜市内のこども医療センターに絵本を毎月寄贈したり、横浜スタジアムの石井琢朗シートを市へ寄付したりするなど、チャリティー活動にも積極的であった。 また、道具を大切に扱うことで有名であり、とアドバイザリー契約を結んでいた。 2008年3月9日付『』に、出身地である栃木県佐野市のの生徒がを使って町おこしに取り組んでるとの記事が紹介された。 これに石井本人も一役買おうと意気込み、球団に働きかけた結果内レストランにて5月14日より販売が実現した。 シーズン終了後にこのいもフライの売上金の一部が佐野市に寄付された。 広島に移籍後の2009年にもの売店にて石井琢朗プロデュースとして販売され人気を博した。 1996年にのと結婚したが、2000年に離婚。 その後当時アナウンサーのと再婚し、2002年7月に長女、2005年8月に二女、2013年7月に長男が誕生した。 前妻瀬能との間に子供はいない。 広島での選手生活はホテル、選手寮などでの単身赴任状態であった。 詳細情報 年度別投手成績 17 2 0 0 0 1 1 0 --. 500 142 30. 1 34 2 19 1 0 19 0 0 14 12 3. 56 1. 75 2 1 0 0 0 0 1 0 --. 000 19 4. 0 6 0 2 0 1 0 0 0 5 4 9. 00 2. 00 9 2 0 0 0 0 2 0 --. 000 77 14. 2 23 3 8 1 3 4 0 0 16 15 9. 20 2. 11 :3年 28 5 0 0 0 1 4 0 --. 200 238 49. 0 63 5 29 2 4 23 0 0 35 31 5. 69 1. 「-」は記録なし 年度別打撃成績 17 5 5 1 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0. 400. 400. 400. 800 2 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0. 000. 000. 000. 000 10 2 2 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0. 500. 500. 500 1. 000 69 250 219 26 59 3 3 3 77 23 4 1 16 1 12 0 2 33 4. 269. 312. 352. 664 121 503 414 53 110 19 5 5 154 36 24 16 39 2 42 0 6 64 5. 266. 341. 372. 712 130 559 451 68 113 21 2 3 147 40 10 6 39 0 69 0 0 66 6. 251. 350. 326. 676 124 546 444 69 137 22 2 2 169 41 23 11 23 2 69 1 7 63 4. 309. 407. 381. 789 129 604 496 94 140 19 3 1 168 29 45 21 25 1 75 1 7 76 3. 282. 383. 339. 722 132 612 521 95 166 23 1 10 221 44 23 18 23 4 57 1 7 58 5. 319. 390. 424. 815 135 630 555 103 174 34 5 7 239 48 39 10 2 2 63 0 7 69 4. 314. 389. 431. 820 131 622 537 108 157 24 3 8 211 58 39 11 2 3 73 0 7 81 4. 292. 382. 393. 775 134 619 546 91 165 19 5 10 224 50 35 11 5 3 61 3 4 83 5. 302. 375. 410. 785 140 647 580 81 171 34 4 8 237 36 26 8 7 1 54 3 5 81 3. 295. 359. 409. 768 140 636 569 78 156 29 2 8 213 49 19 11 12 2 48 1 5 95 2. 274. 335. 374. 709 115 483 415 49 96 12 1 6 128 26 20 10 21 0 46 0 1 53 3. 231. 310. 308. 618 131 590 535 80 158 26 6 10 226 43 11 10 6 2 45 1 2 85 3. 295. 351. 422. 773 146 688 612 95 156 22 2 8 206 40 18 7 7 1 61 1 7 77 6. 255. 329. 337. 666 146 675 604 91 174 30 0 6 222 32 12 11 5 1 63 0 2 99 4. 288. 357. 368. 724 108 412 360 35 99 11 0 2 116 13 6 5 27 0 21 1 4 39 5. 275. 322. 322. 644 98 319 279 26 73 7 0 2 86 18 1 1 12 0 23 0 4 47 2. 262. 327. 308. 635 89 246 211 27 48 10 3 2 70 18 2 0 11 0 20 0 4 33 4. 227. 306. 332. 638 74 165 148 15 47 5 1 0 54 20 1 1 5 0 11 0 1 20 2. 318. 369. 365. 734 61 106 92 11 23 2 2 1 32 4 0 0 2 0 12 1 0 13 1. 250. 337. 348. 685 31 47 42 2 7 1 0 0 8 2 0 0 0 0 5 0 0 4 1. 167. 255. 190. 446 :24年 2413 9967 8638 1298 2432 373 50 102 3211 670 358 169 289 25 930 14 82 1241 76. 282. 356. 372. 728• 各年度の 太字はリーグ最高• 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更 年度別守備成績 試 合 試 合 刺 殺 補 殺 失 策 併 殺 守 備 率 試 合 刺 殺 補 殺 失 策 併 殺 守 備 率 試 合 刺 殺 補 殺 失 策 併 殺 守 備 率 1992 42 22 63 5 9. 944 32 37 76 5 19. 958 - - 1993 107 71 203 6 24. 979 11 16 24 1 7. 976 - 7 4 0 0 0 1. 000 1994 128 75 251 8 25. 976 8 8 16 0 3 1. 000 - 1 0 0 0 0 - 1995 123 96 253 5 33. 986 - - - 1996 - 129 207 382 11 76. 982 - - 1997 - 130 198 392 15 76. 975 - - 1998 1 0 1 0 0 1. 000 135 204 423 17 80. 974 - - 1999 - 129 211 356 11 71. 981 - - 2000 - 134 210 386 10 81. 983 - - 2001 - 140 252 417 12 100. 982 - - 2002 - 140 219 394 9 69. 986 - - 2003 - 114 168 366 7 77. 987 - - 2004 - 130 194 413 10 97. 984 - - 2005 - 146 229 444 8 95. 988 - - 2006 2 0 0 0 0 - 146 204 473 10 91. 985 - - 2007 - 105 126 317 5 71. 989 - - 2008 - 79 118 211 4 41. 988 - - 2009 21 13 21 1 0. 971 52 69 141 6 24. 972 - - 2010 48 18 72 3 10. 968 2 1 2 0 0 1. 000 4 0 2 0 1 1. 000 - 2011 26 11 32 0 4 1. 000 3 2 4 1 1. 857 1 2 4 0 0 1. 000 - 2012 1 0 1 0 0 1. 000 2 4 6 0 2 1. 000 - - 通算 499 306 897 28 105. 977 1767 2677 5243 142 1081. 982 5 2 6 0 1 1. 000 8 4 0 0 0 1. 000• 太字年は受賞年 タイトル• :4回(1993年、1998年、1999年、2000年)• :2回(1998年、 2001年) 表彰• 優秀選手賞:1回 ()• 最優秀選手:1回 (2002年)• 特別功労賞(2012年)• 県民栄誉賞 (2006年)• スポーツ特別賞 (2006年)• (2008年) 記録 投手記録• 初登板:1989年4月13日、対3回戦()、4回表に救援登板、1回1失点• 初奪三振:同上、4回表にから• 初出場:投手記録の初登板の項を参照• 初先発出場:投手記録の初先発の項を参照• 初安打:1989年10月10日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場)、3回表にから中前安打• 初得点:1989年10月16日、対26回戦()、3回表に記録• 初打点:1992年4月18日、対ヤクルトスワローズ2回戦(横浜スタジアム)、4回裏にから• 初盗塁:1992年5月10日、対読売ジャイアンツ8回戦(横浜スタジアム)、1回裏に二盗(投手:、捕手:)• 初本塁打:1992年7月26日、対広島東洋カープ18回戦(横浜スタジアム)、1回裏にから 節目の記録• 300盗塁:2003年8月6日、対読売ジャイアンツ22回戦(東京ドーム)、7回表に二盗(投手:、捕手:)• シーズン150安打以上9回:1997年 - 2002年、2004年 - 2006年(歴代2位タイ)• 6年連続シーズン150安打以上:1997年 - 2002年(歴代2位タイ、セ・リーグタイ記録)• 遊撃手通算最多試合出場:1767試合• 出場:6回 (1995年、1997年 - 2001年) 背番号• 66 (1989年 - 1992年)• 0 (1993年)• 5 (1994年 - 2008年)• 25 (2009年 - 2012年)• 75 (2013年 - 2017年)• 81 (2018年 - 2019年)• 89 (2020年 - ) 登録名• 石井 忠徳(いしい ただのり、1989年 - 1991年)• 石井 琢朗(いしい たくろう、1992年 - )• 同ゲームで先発バッテリーを組んだのが同級生のだった。 投手としては150キロ近い直球と落差の大きいカーブが持ち味で、当時の監督であるに「ボールをもてあそぶことができる。 それに全力投球してもコントロールが乱れない。 運動神経の偏差値が高い投手。 近いうちのライバルになる。 今の石井にないのは経験だけ」と絶賛されていた。 責任編集 SPORTS COMMUNICATIONS. 2014年5月10日閲覧。 2000 ベースボール・レコード・ブック。 ベースボールマガジン社 52頁「1999年度の主な記録と出来事」より。 NPB. 2019年12月11日時点のよりアーカイブ。 2019年12月11日閲覧。 『中日新聞』2006年5月12日朝刊第二運動スポーツ面24頁「プロ野球 交流戦 11日 楽天が横浜戦初勝利 楽天8-4横浜」(中日新聞社)• なお横浜は前年(2005年)に楽天戦では6勝0敗で交流戦を終えており 、それまで8連勝を挙げていたが、9回目の試合となるこの試合にて初めて敗戦した。 記録達成の際には冗談で、「投手時代の(打者として打ったヒット)3本はカウントして欲しくない」とコメントしている。 中国新聞. 2010年4月11日閲覧。 日刊スポーツ 2012年8月27日閲覧• スポーツニッポン 2012年10月9日閲覧• ヤクルト球団公式サイト• ニッカンスポーツ 2012年10月9日閲覧• スポーツニッポン 2012年10月9日閲覧• - サンケイスポーツ 2012年10月22日 [ ]• - 中国新聞 2012年10月30日• - スポーツニッポン 2012年10月29日• スポーツナビ• 2019年9月29日. プレスリリース , 読売巨人軍公式サイト, 2019年10月29日 , 2019年11月3日閲覧。 『野球小僧 世界野球選手名鑑2006』白夜書房、2006年、101頁。。 2014年11月5日閲覧• 字画を整えるため本来は正字の琢(部分に点が打たれている)を使うのが正しいが、パソコン等で表示されないため新字で代用されることが多い。 ただし広島入団会見時は背ネーム表記が「ISHII」だった。 - デイリースポーツ 2012年10月23日• 魅力たっぷり THIS IS 栃木. 2017年12月4日閲覧。 広報さの 2006年7月1日号. 2017年12月4日閲覧。 2011年12月14日. 2017年12月13日閲覧。

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【博士ちゃん】石井琢朗の娘さやかのテニスがヤバい!所属クラブはRECか

石井 琢朗 コーチ

提供 コーチとしてセ・リーグ3球団を渡り歩くことになる石井琢朗氏(写真:時事通信フォト) 今季限りでヤクルトを退団した石井琢朗コーチが、来季は巨人の1軍コーチとして指導に当たると各スポーツ紙で報じられている。 石井琢朗は、1998年に横浜を38年ぶりの優勝に導いたリードオフマンであり、球団史上最多安打数を誇るベイスターズの顔だった。 しかし、38歳の2008年に不振に陥ると、球団から引退勧告を受ける。 石井はそれを拒否して広島へ移籍。 4年間、現役を続けて2012年限りで引退した。 その後、広島でコーチに就任し、2016、2017年の優勝に大きく貢献した。 昨季からはヤクルトの打撃コーチに。 今季は高卒2年目の村上宗隆が36本塁打、96打点を挙げるなど、若手育成の手腕が高く評価されている。 その敏腕コーチを巨人が獲得することとなった。 石井はコーチとして、セ・リーグで3球団を渡り歩くことになる。 今年、ヤクルト退団が報じられると、横浜ファンから復帰を望む声も挙がっていたが、古巣へ戻ることはなかった。 野球担当記者が話す。 「遺恨が残るような退団の経緯でしたからね。 その後の他球団での貢献ぶりから考えると、石井が指導者として在籍していれば、横浜は今より強くなっていたかもしれません。 チームの顔がフロントと折り合わずに移籍して、そのまま移籍先で指導者になり、元の球団に戻ってこない例は多々あります」(以下同) 1977年、南海ホークスの野村克也選手兼任監督は解雇を言い渡されると、オフにロッテに移籍。 最終的には西武で引退した。 9年間に及ぶ解説者生活を経て、1990年にヤクルトの監督に就任。 4度のリーグ優勝と3度の日本一に輝き、長きにわたって低迷していたチームを立て直した。 その後も阪神、楽天の監督を務めたが、古巣であるホークスにカムバックすることはなかった。 「野村監督の退任した翌1978年から1997年までホークスは20年連続Bクラスでした。 その間、ホークスの顔だった野村氏がヤクルトの黄金時代を築いたことは皮肉でした」 ファンからすれば、生え抜きとして活躍したスター選手が監督やコーチとしてチームを率いる姿が望ましいだろう。 しかし、球界では最終的に引退した球団で指導者になるケースは多いが、古巣に戻る例は意外と少ない。 「横浜では金城龍彦も引退勧告の末にFAで巨人に移籍し、今年は2軍の打撃兼外野守備コーチでした。 巨人がよく戦力外になったベテランや峠の過ぎた選手をFAで獲得するのは、引退後を見越してのことでしょう。 昨年オフに獲得した、メジャー経験者である中島宏之や岩隈久志は、今シーズン活躍できませんでした。 来シーズンもどれくらい成績を残せるか不透明です。 しかし、仮に選手として上手くいかなくても、将来指導者として豊富な経験を伝えてくれればいいと球団は考えているのではないでしょうか。 巨人の補強は批判されることもありますが、将来のことまで視野に入れている。 巨人で、功労者が遺恨を残して移籍するケースがないとは言いませんが、少ないほうでしょう。 もちろん選手としても、巨人ブランドのまま引退したいという思惑はあるかもしれませんが、12球団の中では功労者を無下にしない部類に入ります。 今年の阪神の鳥谷敬や楽天の嶋基宏のように、球団史に残るような活躍をした選手には、本人が納得いくまで、その球団で現役をやらせてもいいと思います。 将来を見越した時、優秀な人材を他球団に流出することになり、結局球団が損をすることになるからです」 将来、石井琢朗がコーチ、あるいは監督として、横浜に復帰する日は来るだろうか。

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石井琢朗のコーチングで球団が生まれ変わる!何がどう凄いのか?

石井 琢朗 コーチ

経歴 経歴 足利工高-大洋(1989〜1992年)-横浜(1993〜2008年)-広島(2009~2012、2013〜2017年)-ヤクルト(2018〜2019年)-巨人(2020年〜) ドラフト 1988年ドラフト外 初出場 1989年4月13日 対広島3回戦 横浜 初安打 1989年10月10日 対ヤクルト25回戦 加藤博人 神宮 初打点 1992年4月18日 対ヤクルト 2回戦 高津臣吾 横浜 初本塁打 1992年7月26日 対広島18回戦 北別府学 横浜 初盗塁 1992年5月10日 対巨人8回戦 横浜 タイトル 最多安打賞(1998、2001年) 盗塁王((1993、1998〜2000年) 表彰 ベストナイン賞(1997〜2001年) ゴールデングラブ賞(1993〜1995、1998年) 記録 [日本記録]ゲーム最多得点 6(1999年7月22日) [日本記録]ゲーム最多犠打 4(2003年7月8日) 背番号 89(2020年〜) 一軍打撃成績 年 度 所 属 試 合 打 席 数 打 数 得 点 安 打 二 塁 打 三 塁 打 本 塁 打 塁 打 打 点 盗 塁 盗 刺 犠 打 犠 飛 四 球 死 球 三 振 併 殺 打 打 率 長 打 率 出 塁 率 1989 大洋 17 5 5 1 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 2 0. 400. 400. 400 1990 大洋 2 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0. 000. 000. 000 1991 大洋 10 2 2 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0. 500. 500. 500 1992 大洋 69 250 219 26 59 3 3 3 77 23 4 1 16 1 12 2 33 4. 269. 352. 312 1993 横浜 121 503 414 53 110 19 5 5 154 36 24 16 39 2 42 6 64 5. 266. 372. 341 1994 横浜 130 559 451 68 113 21 2 3 147 40 10 6 39 0 69 0 66 6. 251. 326. 350 1995 横浜 124 546 444 69 137 22 2 2 169 41 23 11 23 2 69 7 63 4. 309. 381. 408 1996 横浜 129 604 496 94 140 19 3 1 168 29 45 21 25 1 75 7 76 3. 282. 339. 383 1997 横浜 132 612 521 95 166 23 1 10 221 44 23 18 23 4 57 7 58 5. 319. 424. 390 1998 横浜 135 630 555 103 174 34 5 7 239 48 39 10 2 2 63 7 69 4. 314. 431. 389 1999 横浜 131 622 537 108 157 24 3 8 211 58 39 11 2 3 73 7 81 4. 292. 393. 382 2000 横浜 134 619 546 91 165 19 5 10 224 50 35 11 5 3 61 4 83 5. 302. 410. 375 2001 横浜 140 647 580 81 171 34 4 8 237 36 26 8 7 1 54 5 81 3. 295. 409. 359 2002 横浜 140 636 569 78 156 29 2 8 213 49 19 11 12 2 48 5 95 2. 274. 374. 335 2003 横浜 115 483 415 49 96 12 1 6 128 26 20 10 21 0 46 1 53 3. 231. 308. 310 2004 横浜 131 590 535 80 158 26 6 10 226 43 11 10 6 2 45 2 85 3. 295. 422. 351 2005 横浜 146 688 612 95 156 22 2 8 206 40 18 7 7 1 61 7 77 6. 255. 337. 329 2006 横浜 146 675 604 91 174 30 0 6 222 32 12 11 5 1 63 2 99 4. 288. 368. 357 2007 横浜 108 412 360 35 99 11 0 2 116 13 6 5 27 0 21 4 39 5. 275. 322. 322 2008 横浜 98 319 279 26 73 7 0 2 86 18 1 1 12 0 23 4 47 2. 262. 308. 327 2009 広島 89 246 211 27 48 10 3 2 70 18 2 0 11 0 20 4 33 4. 227. 332. 306 2010 広島 74 165 148 15 47 5 1 0 54 20 1 1 5 0 11 1 20 2. 318. 365. 369 2011 広島 61 106 92 11 23 2 2 1 32 4 0 0 2 0 12 0 13 1. 250. 348. 337 2012 広島 31 47 42 2 7 1 0 0 8 2 0 0 0 0 5 0 4 1. 167. 190. 255 計 2413 9967 8638 1298 2432 373 50 102 3211 670 358 169 289 25 930 82 1241 76. 282. 372. 356.

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