お 吉 物語。 【吉田町物語】KEY木村商店

斎藤きち

お 吉 物語

一説による出生地に作られた「唐人お吉出生地碑」(愛知県知多郡南知多町) (12年)、の坂下町(現在の)で出生(月日不詳)。 父・市兵衛、母・きわ、姉・もと、弟・惣五郎の家族がいたことが判明している。 船大工の父が没し生活が困窮したことから(弘化4年)新田町の老婆せんの養女になる。 (安政元年)になったが本格の芸妓ではなく、相手の酌婦まがいの芸妓で、副業として客の衣類の洗濯も請け負っていた。 翌年養母せん没により実家に帰る。 看護人 [ ] に駐留していた駐日領事は、長期間の船旅や遅々として進まない日本側との条約締結交渉のストレスも相まって体重が40(約18kg)も落ちてしまい、吐血するほどに体調を崩していた。 満52歳と当時としては高齢でもあり、ハリスの兼であるが下田奉行所に看護人の派遣を要求した。 日本側は男性の看護人を派遣することにしたが、ヒュースケンが自分とハリスにそれぞれ女性の看護人を派遣することを強硬に要求したことから、下田奉行所はハリス側はいわゆる「」を要求しているものと判断し、方々に交渉した結果、ハリスに「きち」を、ヒュースケンに「ふく」を派遣することになった。 「きち」は(4年)5月22日ハリスが滞在する玉泉寺に籠で出向くが、3日後の5月25日に帰された。 「町会所日記」には「きち」の体に腫物があるので帰されたとする記述があり、やがて正式に解雇された。 転々 [ ] 安直楼(静岡県下田市) 実家に帰った「きち」は芸妓兼酌婦に戻って家計を支え、明治に入って斎藤姓を名乗り戸籍上の姓名は「斎藤きち」となった。 (明治元年)に横浜で幼なじみの船大工・鶴松(のちに改名して川井又五郎) と再会し、(明治4年)に下田の大工町に転居して所帯を構えるが、当人の酒癖の悪さが原因で(明治7年)に離別して姉の所へ戻った。 (明治9年)に三島の料理屋「かねや」の芸妓になり、(明治11年)に下田でになった。 (明治15年)に下田の大工町に貸座敷「安直楼」を開業するが、経営能力の欠如と酒癖の悪さから早々に店をつぶしてしまう。 借家住まいになり三味線や踊りを教えて生計を立てた。 晩年 [ ] (明治20年)1月、長年の不養生の結果発病し、半身不随の後遺症が残った。 養母・せんから相続した新田町の家も売却し、に逗留して湯治する。 健康を損ない財産も失い生活を支えることもできず、以降は近隣の知人にすがって細々と暮らした。 (明治23年)5月27日 、稲生沢川に転落して水死した。 行年48。 遺体は下田の宝福寺 に埋葬され、当初の戒名は「貞歓信女」だったが(大正14年)に「宝海院妙満大師」と改めた。 転落した場所は不詳だが、遺体発見の前に杖をついて門栗ヶ淵付近を歩く姿が目撃されていたことから、のちに観光資源化を目論んで門栗ヶ淵は「お吉ヶ淵」と改名された。 フィクションの混入 [ ] 斎藤きちの存在は、(昭和3年)にが発表した小説『』で広く知られることとなる。 元来とくに身分が高い訳でもない一民間人にすぎなかった斎藤きちの経歴については、出生地を含め諸説あり 、資料が少ない上に、後年の・・等で表現されたことさらに薄幸で悲劇的なの世界の「唐人お吉」像が、やの例にみられるようにさながら史実のごとく語られてしまっている可能性が高く、伝わる経歴の正誤を一概に断定する事は困難である。 なお、当人の名前がフィクションの影響で「お吉」と表記されることが多いが、江戸期の下田奉行所の記録や町会所日記、明治期の戸籍上の当人の名前表記は平仮名で「きち」である。 「看護人」か「妾」か [ ] 名目上は「看護人」であっても、見た事もない外国人の元へ「」同然の扱いで派遣されるとあって 、高額の給金が支給された。 「きち」の場合、支度金が25両、月給は10両だったが3日で解雇されたので、「給分の内」としてまず7両が支払われた。 家族が再雇用を願い出るもかなわず、さらに5両が支払われ、30両が解雇手当のような形で支給された。 総支給額は計67両である。 ヒュースケンの下に派遣された「ふく」は支度金が20両、月給7両2分であった。 ハリスの元へは「きち」の後釜として下田在住・為吉の娘「さよ」が派遣され、支度金が20両、月給7両2分である。 アメリカ側を籠絡して条約締結交渉を引き延ばしたかった日本側の思惑はさておき、ハリスは生涯妻帯しなかった敬虔な教徒であった上に、生命が危ぶまれるほどの著しい体調不良に悩まされてもいた。 そうした状況下で母国を代表し、の締結で部分的に開国していたとはいえ、未だ政策を敷いていた日本との通商条約締結交渉の全権を委任されるという重責を担う立場の人間が、交渉相手国から妾を提供されるような外交交渉に悪影響を与えかねない供応を受けるとは常識的には考えにくい。 自らはハリスの秘書兼通訳の立場にすぎず、あからさまに「女性の看護人」を要求したヒュースケンはともかく、こうした状況からハリスは妾ではなく純然たる看護人を要求したと判断することもできるが、ハリスと「きち」との男女関係の有無を証明する証拠が存在しない限りさまざまな説は想像の域を出ず、詳細は不詳である。 19歳当時の「きち」(斎藤きち)を撮影したものと称されている写真 [ ] 19歳当時の「きち」(斎藤きち)を撮影したものと称されている写真 (八幡山宝福寺唐人お吉記念館蔵) 19歳当時の「きち」(斎藤きち)を撮影したものと称されている写真が存在する。 の弟子である水野半兵衛が下田市の八幡山宝福寺に寄贈したとの来歴が伝わっており、出版物や観光用のパンフレット等に多数用いられている。 撮影条件の不一致 [ ] 「きち」が19歳であったのは1860年(安政7年 - 元年)である。 (安政6年)まで下岡蓮杖は下田に居住していた。 下岡蓮杖の写真技術習得の経歴については諸説あるが 、当時は未だ写真技術の基礎すら手探りの状態であったか、あるいは実質的には手つかずの状態にあった事は確かで、仮に「きち」と接触があったとしても鮮明な写真の撮影は到底不可能である。 下岡蓮杖が横浜の野毛に写真店を開業したのは(2年)末、「きち」は当時数え年21歳であるから年齢が合致しない。 下岡蓮杖の初期の写真はガラス で、を用いた紙焼きプリントを開始するのは慶応年間頃と推定される。 したがって、文久年間の下岡蓮杖の手による写真ならばガラス湿板写真のはずだが、後述の「Officer's Daughter」(士官の娘)は紙焼きプリント写真である。 このように時代と条件が合致せず、伝わる来歴通り水野半兵衛による寄贈かどうかはともかく、少なくとも下岡蓮杖・水野半兵衛の師弟が19歳当時の「きち」を撮影した事実はない。 「Officer's Daughter」の存在 [ ] 「Officer's Daughter(士官の娘)」と同じモデルの別の写真 ファルサーリ商会の土産物写真と推定される。 1886年(明治19年)以前の撮影。 幕末から明治中頃にかけて主にの写真館から国内向けや在留外国人の土産物、あるいは輸出用に多数販売されていた写真 の中の一葉で、 「Officer's Daughter」(士官の娘)と呼ばれる写真が存在する。 が横浜で経営していた写真店・ファルサーリ商会 で販売していたもので、撮影者 ・モデル共に不詳。 紙焼きプリントに手彩色 されている。 1880年代(明治10年代)から1890年代(明治30年代)半ば頃まで販売され続けた人気商品であり、ファルサーリ商会以外の複数の写真店からも販売されて国内外に多数が現存している。 売れ行きが好調だったためであろうか、このモデルの女性は複数の土産物写真に用いられている。 女体についての考察で知られ、明治期に来日もしているドイツ医師カール・ハインリッヒ・シュトラッツの日本人に関する書物では、鼻を高く加工したものがイタリア人と日本人の混血の娘として掲載されている。 「Officer's Daughter」(士官の娘)と19歳の「きち」を撮影したものと称されている写真が基本的には同一の写真である事は一見して明らかである。 女性モデルの髪形 [ ]• 「Officer's Daughter」(士官の娘)の女性モデルの髪形は真ん中分けでやや西洋風だがで、髪留めも玉簪や櫛など旧来の日本式の物を用いている。 西洋文化が大量に流入した明治時代前半に登場した髪形 で、写真の撮影年を特定する決定打とはならないが明治以降の撮影と推定できる。 明治時代からの髪形をしている「Officer's Daughter」(士官の娘)の女性モデルと、発売当時30 - 40歳代の斎藤きちでは年齢が合致しない。 「きち」が数え年19歳の頃に撮影された古い写真を紙焼きして販売したと仮定しても、幕末期の若い未婚女性の髪形は・・等の純然たる日本髪で、「Officer's Daughter」(士官の娘)の女性モデルの髪形では時代が合致しない。 写真の改変 [ ]• 19歳当時の「きち」を撮影したと称される写真は画質が荒れているが「Officer's Daughter」(士官の娘)ははっきりした良好な画質である。 良好な画質の写真を加工複製すれば画質が劣化するが、筆による修正や手彩色ならともかく、劣悪な画質の写真を加工複製して根本から良好な画質の写真を作る技術は当時存在しない。 つまり、「Officer's Daughter」(士官の娘)から当該写真を作成する事は可能だが、当該写真から「Officer's Daughter」(士官の娘)を作成する事は不可能である。 上記の理由で、 19歳の「きち」を撮影したものと称されている写真は、明治期に撮影・販売されたファルサーリ商会の人気商品「Officer's Daughter」(士官の娘)あるいは他のいずれかの写真店から販売された同種の写真から、女性モデルの・・髪飾りと後頭部の巻き髪を削除する改変を施してしたものと断定できる。 後頭部の巻き髪まで削除した理由は不明だが、これでは日本髪が一見真ん中分けの洋髪に見えてしまう。 写真を改変した施工者が不明である以上はこのような加工を施した意図は不明だが、伝わる来歴通り水野半兵衛による寄贈であっても、現物はオリジナルに粗雑な改変を施された物にすぎない。 はたして「きち」か [ ] 写真の女性モデルが「きち」であると断定はおろか、推定できる具体的かつ客観的な根拠が何一つ存在せず、むしろ上記のように否定的な状況証拠が複数存在している。 さらに、明治期の横浜発の土産物写真「Officer's Daughter」(士官の娘)あるいは他のいずれかの写真店から販売された同種の写真と、来歴があるはずの当該写真が、いわゆる「唐人お吉」の写真として関係各方面で混用されている状態では 、提示された情報の信憑性は著しく低いと言わざるを得ない。 したがって、当該写真の女性モデルが19歳かあるいはそれに近い年齢であった当時の「きち」である可能性は極めて低い。 なお、唐人お吉とされる別人の30歳頃の写真が存在する。 没後の作品化や慰霊 [ ] 以降、欧米人との交流は珍しくなくなっており、十一谷義三郎の小説『唐人お吉』を機に、きちの悲劇を描いた作品が相次ぎ発表され、同情的な世論も広がっていった。 現代の下田市には、宝福寺に「」が設けられているほか、きちを偲ぶ「お吉祭り」が命日(3月27日)に開かれている。 作品化 [ ] 十一谷義三郎作『唐人お吉』をはじめ、同一・類似タイトルの小説や、戯曲などが多数存在する。 小説 蔵書。 『』(、1928年(同年初出))• 『』(、1930年(初出は1927年))• 『女人哀詞 唐人お吉物語』(、1933年)• 『唐人お吉伝 艶麗の悲歌』(、1940年)• 『唐人お吉』(、1950年)• 『唐人お吉物語 実説秘話』(、1962年)• 『紅椿無惨 唐人お吉』(、1975年) 漫画• 『まんが安直楼始末記』(幕末お吉研究会、2018年) 戯曲• 『』()• 『』() 浪曲• 『お吉物語』 楽曲• 『』() 映画• 『』(監督、原作、脚本、演:、、1930年6月6日公開)• 『』(監督、原作、脚色、演:、、1930年7月1日公開)• 『』(監督、原作村松春水、脚本、演:、、1931年12月18日公開)• 『』(監督、原作、脚本、演:、、1935年1月5日公開)• 『』(監督、原作十一谷義三郎、脚色、演:、、1937年6月17日公開)• 『』(監督・脚本、演:、、1938年12月24日公開)• 『』 (監督、原作エリス・セント・ジョセフ、脚本チャールズ・グレイソン、演:、、1959年2月3日公開) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 一説には5月25日に川に落ち、5月27日に遺体を引き上げたとも。 フィクションの世界では入水自殺とされているが、目撃者はなく入水したと断定するにたりる証拠は存在しない。 下田奉行所が通達した12ヶ条の取り決めの中に、給金の他にもらった品は届け出るようにとの条項と、妊娠の兆候がある場合はただちに届け出るようにとの条項がある。 以下引用、「 (前略)自分が写真を誰に習ったかという大切なことまでも、はっきりとは語っていない。 そのため蓮杖の写真の先生については様々な憶説がある。 (中略)蓮杖の最も古い談話資料『写真事歴』(明治二十四年に山口才一郎が綴った)にも、当てにならない記述が多いと聞く。 どうも蓮杖の言動には、胡散臭さがつきまとう。 (後略)」。 画像は白黒が反転したネガのままで、ガラス板の裏面に黒い布やフェルト等を当てるか黒いニスを塗ってポジの代用にした。 ネガ画像が写ったガラス湿板を紙焼きプリントすればポジ画像が得られる。 著者は「 美人芸者の写真」「 唐人お吉と間違えられた写真」と断定している。 古写真収集家の間では「横浜写真」と称される。 「ファサリ商会」・「ファサーリ商会」とも称する。 当時の職業写真家は自分以外の写真家の手による作品も販売していたので、記録が無い作品は発売元から撮影者を断定する事が難しい。 「しゅさいしき」あるいは「てさいしょく」と読む。 の紙焼き写真にを用いて1枚ずつ手作業で着色する技法。 カラー印刷が一般的になるまで多用された。 著者自身も3枚所有している。 左手に指輪を付けて日本髪だが真ん中から分けた髪形の女性の写真が掲載されている。 裏面に「 1870-」と記してあり、筆者は下岡蓮杖による - (明治元年 - 2年)頃の写真と推定している。 宝福寺唐人お吉記念館の展示物として当該写真と「Officer's Daughter」(士官の娘)の双方の拡大写真が展示されている。 近年における現地下田市での観光客向けのパンフレット・ポスター等でも双方が混用状態である。 出典 [ ]• (国立国会図書館デジタルコレクション)2019年6月21日閲覧。 菊池明「2 洋妾・斎藤きち」『「幕末」に殺された女たち』ちくま文庫、2015年、28頁、31頁。 2019年6月15日閲覧。 2019年6月15日閲覧。 2019年6月15日閲覧。 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』「第三章 下岡蓮杖写真鑑定術」〈コロナ・ブックス16〉平凡社、、42 - 43頁。 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』「第三章 下岡蓮杖写真鑑定術」〈コロナ・ブックス16〉平凡社、、38 - 60頁。 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』〈コロナ・ブックス16〉平凡社、、54 - 55頁。 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』〈コロナ・ブックス16〉、、104頁。 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』〈コロナ・ブックス16〉平凡社、、94頁。 2019年6月15日閲覧。 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』「第三章 下岡蓮杖写真鑑定術」〈コロナ・ブックス16〉平凡社、、49頁。 『演芸画報』昭和6年9月号p. 2018年3月28日閲覧。 検索結果、、2010年2月21日閲覧。 (2018年3月23日)2018年3月28日閲覧。 関連項目 [ ]• - 曖昧さ回避• - 1992年、静岡県伊東市での舞台『唐人お吉』公演期間中、車が海に転落し水死。 お吉と同じ48歳で死去。 ワイド 大老殺し 下田港の殺し技珍プレー好プレー 1987年放送 - ハリスの看病人として登場する。 演者は• - ののアルバム。 きちを題材とした「唐人物語 ラシャメンのうた 」が収録。 - 1981年のアルバムの第6曲 Okichi-Sanは、きちを題材としている。 外部リンク [ ]• - 宝福寺.

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「吉」(U+5409)

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一説による出生地に作られた「唐人お吉出生地碑」(愛知県知多郡南知多町) (12年)、の坂下町(現在の)で出生(月日不詳)。 父・市兵衛、母・きわ、姉・もと、弟・惣五郎の家族がいたことが判明している。 船大工の父が没し生活が困窮したことから(弘化4年)新田町の老婆せんの養女になる。 (安政元年)になったが本格の芸妓ではなく、相手の酌婦まがいの芸妓で、副業として客の衣類の洗濯も請け負っていた。 翌年養母せん没により実家に帰る。 看護人 [ ] に駐留していた駐日領事は、長期間の船旅や遅々として進まない日本側との条約締結交渉のストレスも相まって体重が40(約18kg)も落ちてしまい、吐血するほどに体調を崩していた。 満52歳と当時としては高齢でもあり、ハリスの兼であるが下田奉行所に看護人の派遣を要求した。 日本側は男性の看護人を派遣することにしたが、ヒュースケンが自分とハリスにそれぞれ女性の看護人を派遣することを強硬に要求したことから、下田奉行所はハリス側はいわゆる「」を要求しているものと判断し、方々に交渉した結果、ハリスに「きち」を、ヒュースケンに「ふく」を派遣することになった。 「きち」は(4年)5月22日ハリスが滞在する玉泉寺に籠で出向くが、3日後の5月25日に帰された。 「町会所日記」には「きち」の体に腫物があるので帰されたとする記述があり、やがて正式に解雇された。 転々 [ ] 安直楼(静岡県下田市) 実家に帰った「きち」は芸妓兼酌婦に戻って家計を支え、明治に入って斎藤姓を名乗り戸籍上の姓名は「斎藤きち」となった。 (明治元年)に横浜で幼なじみの船大工・鶴松(のちに改名して川井又五郎) と再会し、(明治4年)に下田の大工町に転居して所帯を構えるが、当人の酒癖の悪さが原因で(明治7年)に離別して姉の所へ戻った。 (明治9年)に三島の料理屋「かねや」の芸妓になり、(明治11年)に下田でになった。 (明治15年)に下田の大工町に貸座敷「安直楼」を開業するが、経営能力の欠如と酒癖の悪さから早々に店をつぶしてしまう。 借家住まいになり三味線や踊りを教えて生計を立てた。 晩年 [ ] (明治20年)1月、長年の不養生の結果発病し、半身不随の後遺症が残った。 養母・せんから相続した新田町の家も売却し、に逗留して湯治する。 健康を損ない財産も失い生活を支えることもできず、以降は近隣の知人にすがって細々と暮らした。 (明治23年)5月27日 、稲生沢川に転落して水死した。 行年48。 遺体は下田の宝福寺 に埋葬され、当初の戒名は「貞歓信女」だったが(大正14年)に「宝海院妙満大師」と改めた。 転落した場所は不詳だが、遺体発見の前に杖をついて門栗ヶ淵付近を歩く姿が目撃されていたことから、のちに観光資源化を目論んで門栗ヶ淵は「お吉ヶ淵」と改名された。 フィクションの混入 [ ] 斎藤きちの存在は、(昭和3年)にが発表した小説『』で広く知られることとなる。 元来とくに身分が高い訳でもない一民間人にすぎなかった斎藤きちの経歴については、出生地を含め諸説あり 、資料が少ない上に、後年の・・等で表現されたことさらに薄幸で悲劇的なの世界の「唐人お吉」像が、やの例にみられるようにさながら史実のごとく語られてしまっている可能性が高く、伝わる経歴の正誤を一概に断定する事は困難である。 なお、当人の名前がフィクションの影響で「お吉」と表記されることが多いが、江戸期の下田奉行所の記録や町会所日記、明治期の戸籍上の当人の名前表記は平仮名で「きち」である。 「看護人」か「妾」か [ ] 名目上は「看護人」であっても、見た事もない外国人の元へ「」同然の扱いで派遣されるとあって 、高額の給金が支給された。 「きち」の場合、支度金が25両、月給は10両だったが3日で解雇されたので、「給分の内」としてまず7両が支払われた。 家族が再雇用を願い出るもかなわず、さらに5両が支払われ、30両が解雇手当のような形で支給された。 総支給額は計67両である。 ヒュースケンの下に派遣された「ふく」は支度金が20両、月給7両2分であった。 ハリスの元へは「きち」の後釜として下田在住・為吉の娘「さよ」が派遣され、支度金が20両、月給7両2分である。 アメリカ側を籠絡して条約締結交渉を引き延ばしたかった日本側の思惑はさておき、ハリスは生涯妻帯しなかった敬虔な教徒であった上に、生命が危ぶまれるほどの著しい体調不良に悩まされてもいた。 そうした状況下で母国を代表し、の締結で部分的に開国していたとはいえ、未だ政策を敷いていた日本との通商条約締結交渉の全権を委任されるという重責を担う立場の人間が、交渉相手国から妾を提供されるような外交交渉に悪影響を与えかねない供応を受けるとは常識的には考えにくい。 自らはハリスの秘書兼通訳の立場にすぎず、あからさまに「女性の看護人」を要求したヒュースケンはともかく、こうした状況からハリスは妾ではなく純然たる看護人を要求したと判断することもできるが、ハリスと「きち」との男女関係の有無を証明する証拠が存在しない限りさまざまな説は想像の域を出ず、詳細は不詳である。 19歳当時の「きち」(斎藤きち)を撮影したものと称されている写真 [ ] 19歳当時の「きち」(斎藤きち)を撮影したものと称されている写真 (八幡山宝福寺唐人お吉記念館蔵) 19歳当時の「きち」(斎藤きち)を撮影したものと称されている写真が存在する。 の弟子である水野半兵衛が下田市の八幡山宝福寺に寄贈したとの来歴が伝わっており、出版物や観光用のパンフレット等に多数用いられている。 撮影条件の不一致 [ ] 「きち」が19歳であったのは1860年(安政7年 - 元年)である。 (安政6年)まで下岡蓮杖は下田に居住していた。 下岡蓮杖の写真技術習得の経歴については諸説あるが 、当時は未だ写真技術の基礎すら手探りの状態であったか、あるいは実質的には手つかずの状態にあった事は確かで、仮に「きち」と接触があったとしても鮮明な写真の撮影は到底不可能である。 下岡蓮杖が横浜の野毛に写真店を開業したのは(2年)末、「きち」は当時数え年21歳であるから年齢が合致しない。 下岡蓮杖の初期の写真はガラス で、を用いた紙焼きプリントを開始するのは慶応年間頃と推定される。 したがって、文久年間の下岡蓮杖の手による写真ならばガラス湿板写真のはずだが、後述の「Officer's Daughter」(士官の娘)は紙焼きプリント写真である。 このように時代と条件が合致せず、伝わる来歴通り水野半兵衛による寄贈かどうかはともかく、少なくとも下岡蓮杖・水野半兵衛の師弟が19歳当時の「きち」を撮影した事実はない。 「Officer's Daughter」の存在 [ ] 「Officer's Daughter(士官の娘)」と同じモデルの別の写真 ファルサーリ商会の土産物写真と推定される。 1886年(明治19年)以前の撮影。 幕末から明治中頃にかけて主にの写真館から国内向けや在留外国人の土産物、あるいは輸出用に多数販売されていた写真 の中の一葉で、 「Officer's Daughter」(士官の娘)と呼ばれる写真が存在する。 が横浜で経営していた写真店・ファルサーリ商会 で販売していたもので、撮影者 ・モデル共に不詳。 紙焼きプリントに手彩色 されている。 1880年代(明治10年代)から1890年代(明治30年代)半ば頃まで販売され続けた人気商品であり、ファルサーリ商会以外の複数の写真店からも販売されて国内外に多数が現存している。 売れ行きが好調だったためであろうか、このモデルの女性は複数の土産物写真に用いられている。 女体についての考察で知られ、明治期に来日もしているドイツ医師カール・ハインリッヒ・シュトラッツの日本人に関する書物では、鼻を高く加工したものがイタリア人と日本人の混血の娘として掲載されている。 「Officer's Daughter」(士官の娘)と19歳の「きち」を撮影したものと称されている写真が基本的には同一の写真である事は一見して明らかである。 女性モデルの髪形 [ ]• 「Officer's Daughter」(士官の娘)の女性モデルの髪形は真ん中分けでやや西洋風だがで、髪留めも玉簪や櫛など旧来の日本式の物を用いている。 西洋文化が大量に流入した明治時代前半に登場した髪形 で、写真の撮影年を特定する決定打とはならないが明治以降の撮影と推定できる。 明治時代からの髪形をしている「Officer's Daughter」(士官の娘)の女性モデルと、発売当時30 - 40歳代の斎藤きちでは年齢が合致しない。 「きち」が数え年19歳の頃に撮影された古い写真を紙焼きして販売したと仮定しても、幕末期の若い未婚女性の髪形は・・等の純然たる日本髪で、「Officer's Daughter」(士官の娘)の女性モデルの髪形では時代が合致しない。 写真の改変 [ ]• 19歳当時の「きち」を撮影したと称される写真は画質が荒れているが「Officer's Daughter」(士官の娘)ははっきりした良好な画質である。 良好な画質の写真を加工複製すれば画質が劣化するが、筆による修正や手彩色ならともかく、劣悪な画質の写真を加工複製して根本から良好な画質の写真を作る技術は当時存在しない。 つまり、「Officer's Daughter」(士官の娘)から当該写真を作成する事は可能だが、当該写真から「Officer's Daughter」(士官の娘)を作成する事は不可能である。 上記の理由で、 19歳の「きち」を撮影したものと称されている写真は、明治期に撮影・販売されたファルサーリ商会の人気商品「Officer's Daughter」(士官の娘)あるいは他のいずれかの写真店から販売された同種の写真から、女性モデルの・・髪飾りと後頭部の巻き髪を削除する改変を施してしたものと断定できる。 後頭部の巻き髪まで削除した理由は不明だが、これでは日本髪が一見真ん中分けの洋髪に見えてしまう。 写真を改変した施工者が不明である以上はこのような加工を施した意図は不明だが、伝わる来歴通り水野半兵衛による寄贈であっても、現物はオリジナルに粗雑な改変を施された物にすぎない。 はたして「きち」か [ ] 写真の女性モデルが「きち」であると断定はおろか、推定できる具体的かつ客観的な根拠が何一つ存在せず、むしろ上記のように否定的な状況証拠が複数存在している。 さらに、明治期の横浜発の土産物写真「Officer's Daughter」(士官の娘)あるいは他のいずれかの写真店から販売された同種の写真と、来歴があるはずの当該写真が、いわゆる「唐人お吉」の写真として関係各方面で混用されている状態では 、提示された情報の信憑性は著しく低いと言わざるを得ない。 したがって、当該写真の女性モデルが19歳かあるいはそれに近い年齢であった当時の「きち」である可能性は極めて低い。 なお、唐人お吉とされる別人の30歳頃の写真が存在する。 没後の作品化や慰霊 [ ] 以降、欧米人との交流は珍しくなくなっており、十一谷義三郎の小説『唐人お吉』を機に、きちの悲劇を描いた作品が相次ぎ発表され、同情的な世論も広がっていった。 現代の下田市には、宝福寺に「」が設けられているほか、きちを偲ぶ「お吉祭り」が命日(3月27日)に開かれている。 作品化 [ ] 十一谷義三郎作『唐人お吉』をはじめ、同一・類似タイトルの小説や、戯曲などが多数存在する。 小説 蔵書。 『』(、1928年(同年初出))• 『』(、1930年(初出は1927年))• 『女人哀詞 唐人お吉物語』(、1933年)• 『唐人お吉伝 艶麗の悲歌』(、1940年)• 『唐人お吉』(、1950年)• 『唐人お吉物語 実説秘話』(、1962年)• 『紅椿無惨 唐人お吉』(、1975年) 漫画• 『まんが安直楼始末記』(幕末お吉研究会、2018年) 戯曲• 『』()• 『』() 浪曲• 『お吉物語』 楽曲• 『』() 映画• 『』(監督、原作、脚本、演:、、1930年6月6日公開)• 『』(監督、原作、脚色、演:、、1930年7月1日公開)• 『』(監督、原作村松春水、脚本、演:、、1931年12月18日公開)• 『』(監督、原作、脚本、演:、、1935年1月5日公開)• 『』(監督、原作十一谷義三郎、脚色、演:、、1937年6月17日公開)• 『』(監督・脚本、演:、、1938年12月24日公開)• 『』 (監督、原作エリス・セント・ジョセフ、脚本チャールズ・グレイソン、演:、、1959年2月3日公開) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 一説には5月25日に川に落ち、5月27日に遺体を引き上げたとも。 フィクションの世界では入水自殺とされているが、目撃者はなく入水したと断定するにたりる証拠は存在しない。 下田奉行所が通達した12ヶ条の取り決めの中に、給金の他にもらった品は届け出るようにとの条項と、妊娠の兆候がある場合はただちに届け出るようにとの条項がある。 以下引用、「 (前略)自分が写真を誰に習ったかという大切なことまでも、はっきりとは語っていない。 そのため蓮杖の写真の先生については様々な憶説がある。 (中略)蓮杖の最も古い談話資料『写真事歴』(明治二十四年に山口才一郎が綴った)にも、当てにならない記述が多いと聞く。 どうも蓮杖の言動には、胡散臭さがつきまとう。 (後略)」。 画像は白黒が反転したネガのままで、ガラス板の裏面に黒い布やフェルト等を当てるか黒いニスを塗ってポジの代用にした。 ネガ画像が写ったガラス湿板を紙焼きプリントすればポジ画像が得られる。 著者は「 美人芸者の写真」「 唐人お吉と間違えられた写真」と断定している。 古写真収集家の間では「横浜写真」と称される。 「ファサリ商会」・「ファサーリ商会」とも称する。 当時の職業写真家は自分以外の写真家の手による作品も販売していたので、記録が無い作品は発売元から撮影者を断定する事が難しい。 「しゅさいしき」あるいは「てさいしょく」と読む。 の紙焼き写真にを用いて1枚ずつ手作業で着色する技法。 カラー印刷が一般的になるまで多用された。 著者自身も3枚所有している。 左手に指輪を付けて日本髪だが真ん中から分けた髪形の女性の写真が掲載されている。 裏面に「 1870-」と記してあり、筆者は下岡蓮杖による - (明治元年 - 2年)頃の写真と推定している。 宝福寺唐人お吉記念館の展示物として当該写真と「Officer's Daughter」(士官の娘)の双方の拡大写真が展示されている。 近年における現地下田市での観光客向けのパンフレット・ポスター等でも双方が混用状態である。 出典 [ ]• (国立国会図書館デジタルコレクション)2019年6月21日閲覧。 菊池明「2 洋妾・斎藤きち」『「幕末」に殺された女たち』ちくま文庫、2015年、28頁、31頁。 2019年6月15日閲覧。 2019年6月15日閲覧。 2019年6月15日閲覧。 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』「第三章 下岡蓮杖写真鑑定術」〈コロナ・ブックス16〉平凡社、、42 - 43頁。 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』「第三章 下岡蓮杖写真鑑定術」〈コロナ・ブックス16〉平凡社、、38 - 60頁。 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』〈コロナ・ブックス16〉平凡社、、54 - 55頁。 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』〈コロナ・ブックス16〉、、104頁。 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』〈コロナ・ブックス16〉平凡社、、94頁。 2019年6月15日閲覧。 石黒敬章『幕末・明治のおもしろ写真』「第三章 下岡蓮杖写真鑑定術」〈コロナ・ブックス16〉平凡社、、49頁。 『演芸画報』昭和6年9月号p. 2018年3月28日閲覧。 検索結果、、2010年2月21日閲覧。 (2018年3月23日)2018年3月28日閲覧。 関連項目 [ ]• - 曖昧さ回避• - 1992年、静岡県伊東市での舞台『唐人お吉』公演期間中、車が海に転落し水死。 お吉と同じ48歳で死去。 ワイド 大老殺し 下田港の殺し技珍プレー好プレー 1987年放送 - ハリスの看病人として登場する。 演者は• - ののアルバム。 きちを題材とした「唐人物語 ラシャメンのうた 」が収録。 - 1981年のアルバムの第6曲 Okichi-Sanは、きちを題材としている。 外部リンク [ ]• - 宝福寺.

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斎藤きち

お 吉 物語

真実のお吉 真実のお吉 幕末、開国の一舞台となった下田。 その片隅の悲話「唐人お吉物語」は小説になり舞台で上 演などもされ、全国的に有名になっています。 しかしそこで語られ演じられている事は今日 の歴史資料や伝聞等により判明した史実とは、かなりかけ離れた物と断言できます。 それは明治の下田の開業医である開国史研究者「村松春水」の、お吉を題材にした小説風の 原稿を、昭和初年、作家十一谷義三郎が史実実話と銘打って「唐人お吉」を発表したことによる ものだったからであり、生前春水は「私の原稿は十一谷の儲け仕事に色々と利用されたが、 それについて氏から何らの挨拶もなかった。 」と明言しているからです。 ここでは「下田物語」や地方史研究所より引用した「真実のお吉」像を紹介してみます。 お吉は天保12年11月10日、船大工市兵衛の次女として 4歳で下田に移り住み7歳で養女、14歳で養母おせんや知人の奨めにより芸者となりました。 一説では「洗濯女」とも言われ、港に入った船乗りなどの身の回りの世話をする宿専属の、 酒の相手やまた体も提供していたとも言われています。 生まれつきの瓜実顔で漁村の女にしては垢抜けていて、その美貌は評判になりました。 また 美声でもあり新内の明鳥が得意だったことから「新内のお吉」「明鳥のお吉」と呼ばれ、もては やされたと言い事です。 安政4年(1857 お吉17歳の時、幕府側かアメリカ側どちらからの要望であるか、これが第一 の問題点でもありますが、お吉は奉公に上がることになりまし た。 日本人の欧米コンプレックスのためか、また物語中にて悪巧みな役人が弱い町人を虐め る構図の方が観客に受けるためか、日本側のハリス懐柔策でお吉が国の犠牲として連れて 行かれたという物語になってしまったようです。 しかし昭和時代アメリカ進駐軍が日本政府に 要求した慰安婦の事例と照らし合わせ、またハリスは江戸から帰った安政5年〜翌2月まで おさよと言う優しい気性の娘を支度金20両月給7両2分で囲っていた事実、また江戸滞在中 もおりんと言う18歳になる寺仕込みの使用人を三ヶ月ほど仕えさせていたいう事から、ハリス 側から、召使いあるいは看護婦の名目の下、日本の若い娘を要求をしていたのだと言う説の 方が説得力がある様感じます。 また下田奉行所支配頭取・伊差新次郎自らが、お吉をハリス の元へ奉公に行けと口説いたと言う説も、幕府の役人が出るまでもなく町や組合などの世話 役や頭がその役に当たったと言う方が、現代でも日常起こりえる日本らしい風景に感じます。 さてその安政4年5月22日の夜、お吉は五人の役人につきそわれ引き戸駕籠に乗せられ 領事館へと出向いて行きました。 そして翌朝帰って行きました。 しかし三夜でお吉に腫物が あると言うことで、ハリスより奉行を通して自宅療養を申しつけられてしまいました。 よって お吉がハリスの元に通ったのはこの三夜だけだったのです。 物語で演じられているような 献身的看病や異人との恋愛感情などは、資料には全く存在していません。 ハリスの人道説や病気説、プロの女であるお吉の 性格に嫌悪を感じた・反対にお吉は老いた異人を好まなかったと言う説等色々ありますが、 後日事実上の手切れ金30両をうけ取った時12両は前借り金の返済として奉行所に引かれ た事や、ご用役人が女達の待機している間騒がしかったとなどの記録から(また後半生か らも)金遣いの荒い派手好きな女だったと言えるのではないかと思います。 また前述のおさよ や秘書官のヒュースケン侍女おふくやおきよ、そしておまつなどとは長期間に深いと関係を 持ったと言うことから、お吉のみが特異のケースであったと言えるでしょう。 お吉のその後は、三島や横浜での芸妓生活、鶴松との髪結業の開業、また安良里の船主 亀吉の後援で安直楼を開くも二年で廃業となるなど、波乱の生涯を過ごしました。 そして 明治24年、51歳(数え)の時、事故なのか自ら身を投じたのか増水した河川に入水し命を 落としたです。 晩年は乞食の集団に身をおき、子供達からは唐人と石を投げられさげすまれ ながらも、人からの施しは一切受け付けず、旧知の名家を回り寄食しました。 その時分の事が大きく取り上げられ、下田の人々がお吉をなじり蔑んだことになってしまった のです。 一部には罵声や嘲笑を浴びせた人々もいましたが、それはお吉のプライドの高さと 酒癖の悪さが原因であり、その哀しい性格が災いしていたと言えるのでしょう。 しかし、もし ハリスの元へ奉公に出なくて済んだのなら、唯の酒飲みで気位の高い芸者で一生を終わっ ていたかも知れません。 一時代の動乱に巻き込まれた、不幸な女だったことには違いあり ません。 ここにはお吉の粗末なお墓と、隣に水谷八重子寄贈の立派な墓が建てられています.

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