有田焼 贈り物。 【楽天市場】有田焼:名入れギフト カリン

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有田焼 贈り物

こんにちは。 個性あふれる有田焼酒器ブランド「」です。 もうすぐ父の日。 日本酒好きの男性への贈り物にぜひオススメしたい、 本格派の有田焼酒器をご紹介いたします。 漆黒の夜空に星がきらめく!有田焼酒器【月沙天目(げっさてんもく)】 【月沙天目(げっさてんもく)】は一見すると、 落ち着いた存在感のある漆黒の酒器ですが、 光を当てることによって、その佇まいに変化が現れます。 漆黒の表面に光を当てると、 銀の結晶があらわれ、さらにその中に金の細粒がキラキラと輝きを放ちます。 それはまるで、漆黒の天空の夜空に金銀の星が瞬くよう。 微細な金銀の砂が幾重にも層をなして輝くさまは、 手のひらの中で宇宙遊覧しているようです。 こだわりの酒器ブランド【ARITA 地の盃】 全国でも随一の旨みを誇る佐賀酒。 酒の味はその土地の水・気候・文化・歴史によって 作りあげられます。 そして、佐賀酒と同じ地で、 400年の歴史が積み上げられた有田焼。 日本酒の味、香りを 最大限に引き出すため、 盃の口のそり具合い、厚みなどの造形に研究を重ね、 個性豊かで遊び心あふれる酒器を 多数取り揃えております。 ぜひの方でも、 お気に入りの酒器をみつけてくださいね!.

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有田焼(ありたやき)とは|有田観光協会 ありたさんぽ

有田焼 贈り物

日本で初めての磁器として誕生し、400年を超える歴史を誇る「有田焼」。 その産地である佐賀県有田町から、有田焼の美と歴史がぎゅっと詰まった贈り物が届きました。 有田焼のオブジェのようなクッキー シンプルに洗練されたデザインのボックスを開けると、有田焼の色鮮やかで風雅な意匠が目に飛び込んできました。 掌におさまるほどの小さなオブジェを思わせるこちら。 実は、有田焼の絵柄を映したクッキーなのです。 ボックスに収められている5枚のクッキーは、すべて異なる絵柄。 いずれの絵柄も、有田焼など九州各地の陶磁器の名品を収蔵する「佐賀県立九州陶磁文化館」などに収められた歴史的な作品から、絵柄を起こしています。 この5枚の絵柄を追うことで、有田焼の様式の変遷を知ることができます。 クッキーに異なる5つの様式の絵柄が映されている。 左から、「初期色絵様式」、「鍋島様式」、「古伊万里金襴手様式」、「柿右衛門様式」、「初期伊万里様式」。 5枚の絵柄から有田焼の技法を学べる 例えば、上の写真の一番右は「初期伊万里(いまり)様式」。 有田焼の歴史は、1616(元和2)年、朝鮮人陶工の李参平(り さんぺい)らが有田の泉山で陶石を発見したことにより、始まったとされています。 当時は、その積み出しが伊万里の港で行われていたので、「伊万里焼」とも呼ばれました。 「初期伊万里様式」とは、有田焼が作られるようになった初期から1650年頃までに作られたもの。 染付 そめつけ のみの、素朴で柔らかい印象を与えます。 1640年代から多色を使った色絵 いろえ が始まり(写真上の一番左「初期色絵様式」)、「柿右衛門様式」(写真上の右から2番目)が確立。 ヨーロッパに数多く輸出され、高い人気を得ました。 素朴な染付から華やかな色絵、金襴手へ その後、江戸時代の元禄年間(1688~1704)には「金襴手(きんらんで)様式」が登場(写真上の左から3番目)。 濃い染付に赤や金の絵の具を贅沢に使って、艶やかな花文様などを器面いっぱいに描き込んだこの様式は、豊かで華やかだった元禄の気風を反映しているとされます。 一方、鍋島藩窯では、藩の厳格な管理のもと、徳川将軍や諸大名家への献上品・贈答品として鍋島焼が製作されました(写真上の左から2番目が「鍋島様式」)。 このように、一口に有田焼といっても、実に多彩な様式と背景を持つことがわかります。 クッキーには、これら有田焼の歴史やストーリーを学べるしおり「Story Note」が同封されています。 ご自分用として楽しむのはもちろん、うつわや工芸品のお好きな方へお贈りするのも素敵な一品です。 手前は「白磁彩菓 肥前皿絵文様菓 《有田様式》」5個入り2000円(税込み)。 奥は、鍋島焼の様式を5つ集めた「肥前皿絵文様菓 《鍋島文様》」5個入り2000円(税込み)。 有田焼の歴史を知るきっかけに 「歴史やストーリーを知ることで、名前だけ知っていたものの見え方が大きく変わることってありますよね。 このクッキーが、有田焼に興味を持ってもらうきっかけになれば嬉しいです。 有田にはたくさんの窯元があり、素敵なうつわにたくさん出合えます。 いつかぜひ、有田にお越しください」とメッセージをくださったのは、クッキーを生み出した「天馬堂」の代表、深川裕子さん。 有田で生まれ育ったのち、東京でブランディングやまちづくりの仕事に携わる中で他の地域に触れ、改めて有田の魅力に気づかされたそうです。 400年の歴史を支える進取の気風 有田では、毎年ゴールデンウィークに「有田陶器市」が開かれます。 出店数450店以上、来場者120万人を超える人気の大イベントですが、今年は残念ながら無期延期。 しかし、地元の人たちの熱意により、「Web有田陶器市」を開催、好評を博しました。 伝統を大切に受け継ぎながらも、時代を映して新たな試みに挑む気風に、有田焼が400年以上の長い歴史を紡いできた理由が垣間見えるようです。

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有田焼の洗面ボウル(ボール),洗面器,手洗器

有田焼 贈り物

有田焼の歴史 江戸時代の有田焼 17世紀初頭、朝鮮人陶工・初代金ヶ江三兵衛(通称:李参平)らによって有田の泉山で陶石が発見されたことにより、有田で磁器の製造が始まります。 当時はその積み出しが伊万里からなされていたので、「伊万里 いまり 焼」とも呼ばれました。 有田焼が始まった初期のころ、1610年代から1650年ごろまでに作られたものは「初期伊万里」と呼ばれています。 素地が厚く、染付 そめつけ のみの、素朴な印象があります。 有田で色絵 いろえ (上絵付け)が始まったのは1640年代。 初代酒井田柿右衛門が成功したとされています。 陶磁器用の絵の具で釉薬の上に彩色を施す技法で、それまでの染付のみの単色の世界から、多彩色になり、当時は画期的なものでした。 1640年代から1660年代ごろの初期の色絵は、「初期色絵様式」と言います。 赤・緑・黄・青・紫などを使う「五彩手 ごさいで 」や緑・黄・紫・青などで器面を塗って埋める「青手 あおで 」などがあります。 1650年代からは、有田焼はオランダの東インド会社(略称 VOC)により東南アジアやヨーロッパの国々に輸出され始めます。 当時のヨーロッパには中国や有田のような磁器を作る技術がなかったことから、ヨーロッパの王侯貴族の間で、磁器を持つことはステータスシンボルにもなりました。 王侯貴族のコレクションに見られる有田焼は、ヨーロッパでも「IMARI」と呼ばれ、現在でも評価されています。 1670年代から1690年代にかけて「柿右衛門様式 かきえもんようしき 」が流行します。 濁手 にごしで と呼ばれる乳白色の素地に、余白を残した絵画的な構図で色絵を施すのが特徴です。 柿右衛門様式の作品はヨーロッパに数多く輸出され、宮殿を飾るだけではなく、ドイツのマイセン窯やフランスのシャンティイ窯などで模倣されました。 17世紀の後半、それまで有田にあった鍋島藩窯が伊万里市の大川内山に移ります。 ここでは、「鍋島」という、献上、贈答品が藩の厳格な管理のもとに焼かれていました。 「鍋島様式」は、規則正しい器形と意匠の色絵、染付、青磁などで、気品あふれる作風が特徴です。 「金襴手様式 きんらんでようしき 」は、江戸時代の元禄期(1688年~1704年)に現れ、現代にも引き継がれている様式です。 濃い染付に赤や金の絵の具を贅沢に使って、花文様などを器面いっぱいに描き込んだこの様式は、経済的に豊かであった元禄時代の気風を反映したものと考えられています。 装飾効果が高く、輸出されたヨーロッパで好まれ、現在でも大型の壷など多くの作品が世界各地の博物館や城を飾っています。 幕末の有田焼 幕末の有田は慢性的な不況が続いていました。 1828(文政11)年には大火に見舞われ、岐阜県の美濃地区や愛知県の瀬戸地区で磁器の生産が盛んになり、国内磁器市場における肥前の磁器産業の優位性が揺らぎはじめていました。 海外貿易は18世紀前半までで、その後は衰退していましたが、1841(天保12)年に有田の豪商・久富与次兵衛が一手販売の権利を獲得して再開されました。 久富は製品に「蔵春亭三保造」という銘を入れました。 自社ブランド名を製品に記した最初のものです。 幕末における久富らによる独占的な海外輸出は変化のときを迎え、また赤絵屋業は16軒に定められていましたが、これについても拡充の要望が強くなりました。 結局、貿易は深川栄左衛門、平林伊平など新たに9人が許可されます。 廃藩置県によって長い歴史を持つ皿山代官所が閉鎖され、皿山の陶業は代官所による窯焼業や赤絵屋業の許可制がなくなり、営業が自由になりました。 明治時代の有田焼 ドイツの化学者、ゴットフリード・ワグネルは、1870(明治3)年に西洋の化学を伝授するために有田に招かれます。 石炭窯による焼成や、染付の藍色を天然鉱物ではなく工業的に製造する方法などを伝授しました。 明治期の有田焼は、ヨーロッパを中心に盛んに開催された万国博覧会で名声を得ます。 1867(慶応3)年のパリの万博には、佐賀藩は幕府の要請で薩摩藩とともに参加しました。 それ以来、ジャポニスムの流行はパリからヨーロッパ各地へと伝播し、出品された作品も大好評で、政府を含めて対応に追われました。 そこで、総合商社機能を持つ、わが国最初の貿易商社である起立工商会社が誕生しました。 その後1873(明治6)年のウイーン、1876(明治9)年のフィラデルフィアなど、次々に万博への出品が行われ、香蘭社、精磁会社、深川製磁などが金賞・金牌などを獲得しました。 この時代の万博への積極的参加が、海外での有田焼の評価に影響を与えたことは、言うまでもありません。 大正時代以降の有田焼 大正時代には、工業用製品や碍子の需要が増大し、この分野の生産が伸びます。 また、1896(明治29)年から行われている陶磁器品評会の協賛行事として1916(大正5)年に公式に始まった「陶器市場」は、有田陶器市として発展し、現在に至っています。 昭和に入ると、日本国中を襲った不景気の影響を受け、また生産規模の大きな瀬戸地区や美濃地区の陶磁業に価格面で押され、磁器生産は縮小し、失業者を生み出します。 これら職場を失った技能者の中から、これを機に独立する人たちが現れます。 いわゆる陶芸作家の出現です。 1930(昭和5)年の末頃には、30名を超えるようになったと松浦陶時報は報じています。 戦時中は、統制経済が進み、窯元も軍需工場への転換を強いられました。 陶磁器の流通価格には統制が設けられ、また陶貨、手りゅう弾、ロケットの部品なども有田で作っています。 そうした中、高度な製造技術が失われていくのを恐れ、「芸術保存(通称:マルゲイ)」・「技術保存(通称:マルギ)」の指定を受けた窯元や作家が、統制下の一般製品とは別に、流通することになります。 「マルゲイ」は芸術品、「マルギ」は芸術品と日用品の間にある伝統技術を持って作られる精巧なもののことです。 有田で指定を受けたのは、「マルゲイ」は松本佩山、「マルギ」は柿右衛門窯、今右衛門窯、香蘭社、深川製磁、川浪喜作、満松惣市でした。 戦後、昭和30年代から40年代には生産量・売上共に大きく躍進します。 1976(昭和51)年に柿右衛門製陶技術保存会および色鍋島今右衛門技術保存会が国の重要無形文化財保持団体として認定され、さらに1980(昭和55)年には天狗谷窯跡、山辺田窯跡、原明窯跡、泉山磁石場跡が国の史跡に指定。 また1991(平成3)年には上有田地区の町並みが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されるなど、有田焼をとりまく文化が全国的に認められてきました。 現在の有田焼は、食器や美術工芸品の生産が中心であることに変わりはありませんが、タイル、碍子、耐酸磁器など工業製品の製造も行われています。 有田焼ができるまで 有田焼の製作は、基本的に分業で行われています。 技術や道具の進歩により製法は徐々に変化してきましたが、成形、施釉、絵付、焼成などの各分野のスペシャリストたちが伝統の技法を継承しつつそれぞれの工程を担っています。 アリタノヒビキ 有田焼はもちろん、これまでの観光パンフレットでは紹介できなかった有田の食や自然・人などの隠れた魅力を発信しています。 また、有田でみつけた可愛いモノなども紹介し、若い女性にも抵抗なく読んでいただける文化情報誌です。 (1年に1回発行).

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