坂口宅。 坂口健太郎の自宅(同棲マンション)の場所はどこ?港区の噂や間取り(画像)についても!

高畑充希と坂口健太郎が結婚?熱愛報道の時系列をまとめてみた!

坂口宅

、安方町の自宅二階にて 撮影: 誕生 坂口 炳五(さかぐち へいご) ・西大畑通28番戸(現・579番地) 死没 1955-02-17 (48歳没) ・本町2丁目266番地 墓地 新潟県(現・新潟市大安寺) 職業 、 言語 国籍 教育 () 最終学歴 科第二科卒業 活動期間 - ジャンル 、、 主題 、行雲流水、大悟徹底 絶対の孤独、偉大なる落伍者 歴史探訪 文学活動 、 代表作 『』(1931年) 『』 1942年 『』(1946年) 『』(1946年) 『』(1947年) 『』(1948年) 『』(1947年 『』 1952年 主な受賞歴 (1948年) (1950年) デビュー作 『木枯の酒倉から』(1931年) 配偶者 (旧姓・梶) 子供 親族 坂口得太郎(曾祖父)、ミタ(曾祖母) 坂口得七(祖父)、ユウ(祖母) 吉田久平(母方の祖父) (父)、アサ(母) (長兄)、千鶴(妹) 村山セキ(五姉)、喜久(姪) シウ、ユキ、ヌイ(異母姉) キヌ、アキ(養女姉、六姉) 七松、成三(次兄、三兄) 上枝、下枝(四兄、七姉) 影響を与えたもの• 、 、 、 、 、 、 、 坂口 安吾(さかぐち あんご、〈39年〉 - 〈30年〉)は、の、、。 本名は 坂口 炳五(さかぐち へいご)。 昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家の一人である。 科卒業。 で習得。 のみならず、やも執筆し、や時代からまで広範に材を採るなど、多彩な活動をした。 戦前は的作品『』でに注目され、一時低迷した後、直後に発表した『』『』により時代の寵児となり、、、らと共に、・と呼ばれ地歩を築いた。 文学においての新人賞であるの選考委員を第21回から第31回の間務め、、などの作家を推した。 歴史小説ではを主人公とした『』、推理小説では『』が注目された。 坂口安吾はだけでは無く、や、、時代からまで広範な歴史における題材を扱ったや、の出版、、におけるの観戦記など、多彩な活動をした一方で気まぐれに途中で放棄された未完、未発表の長編も多く、小説家としての観点からはけっして「器用な」小説家とはいえないが 、その作風には独特の不思議な魅力があり、じみた爆発的性格とが吹き通っている「」のような風格の稀有な作家だといわれている。 晩年に生まれた一人息子のはである。 また、アンコウを共食いと言い好んで食べた。 生涯 [ ] 生い立ち [ ] 1906年(明治39年)10月20日、西大畑通28番戸(現・579番地)に、所属のの父・(当時45歳)、母・アサ(当時37歳)の五男、13人兄妹の12番目として難産で生まれる。 本名「炳五」(へいご)の由来は、「」年生まれの「五男」に因んだもの。 血液型はA型。 本籍である新潟県大字(現・新潟市大安寺)の坂口家の高祖は、碁所の坂口仙得家の末裔という代々の旧家で、「坂口家のを積み上げればの嶺までとどき、の水が尽きても坂口家の富は尽きぬ」と言われたほどの富豪であり、遠祖・治右衛門(のち甚兵衛)はの陶工であった。 しかし祖父・得七のの失敗により明治以後に没落した。 父・仁一郎は政治活動に金銭を注ぎ、炳五の生まれた頃、家は傾きかけていた。 邸内の広さは520坪で、松林の巨木に囲まれた邸宅は母屋と離れを合わせ90もある寺のような建物で、裏庭の松林を抜けるとが広がり、を見渡せた。 祖父・得七は、炳五誕生の10日後に死去(79歳で没)。 父・仁一郎は、「阪口五峰」「七松山人」の号で集の著書『北越詩話』(1918-1919年)、『舟江雑誌』のあるでもあり(の門下)、(春城)、と親交があった。 新潟米穀株式会社取引所理事長、社(現・)社長なども務め、衆議院議員のとしては、のもとで憲政擁護に尽力し、、、、(咢堂)らと政友であった。 安吾は父について、「三流の政事家であった」としている。 10歳年上の長兄の献吉は、後にやラジオ新潟(現・)の社長などを務めた。 母・アサの実家は、新潟県大字五泉(現・本町)の大・吉田家であった。 吉田一族は皆〈的な鷲鼻〉を持ち、特に母・アサの兄()の眼は青く、〈まつたくユダヤの顔で、の何物にも似てゐなかつた〉という。 アサは仁一郎の後妻で、傾いた家計を支えるのに苦労していた。 炳五は、5歳の時に生れた・千鶴に母親を奪われたという思いが強く、気丈でヒステリックな母から愛されなかったという孤独を抱き、見知らぬ街を彷徨うこともあった。 炳五は、自分ばかり憎み叱責する母に対する反抗心を増し、砂丘に寝転んで光と小石の風景を眺めながら、海と空と風の中にふるさとと愛を感じ、その中にふるさとの母を求めていた。 幼少時の炳五は破天荒な性格で知られ、ガキ大将として近所の子供を引き連れ、町内や砂丘、林、異人池で遊び回り、の『』を愛読しごっこに興じて忍法を研究していた。 炳五のの徳(アサの妹の娘。 のちの献吉の妻)によると、ある叔父が「炳五はとてつもなく偉くなるか、とんでもない人間になるか、どちらかだ」と言っていたという。 小学校での成績は優秀で、ほとんどの科目が10点満点だったが、(現・)に入学するとでの字が読めなくなり、やの成績も下がった。 家計は遣り繰りがうまくいかずにを受けていたため、母から眼鏡を買ってもらえず、炳五はその真相が級友に分かるのが恥ずかしく、ほとんど授業に出なくなる。 また横暴な上級生への反抗の気持ちも強く学校を休み、放課後のなどの練習だけ通った。 ようやく眼鏡も買ってもらうが、炳五の不注意で黒眼鏡を買ってしまい、友人たちが珍しがって引ったくり、いじっているうちに壊れてしまう。 授業が面白くなく、野球漫画を描き、海岸の砂丘の松林で寝転がるなどして過ごし、雨の日は学校近くのパン屋の二階で()に興じる。 この頃、の『ある少年の怖れ』などを読む。 「偉大なる落伍者」への決意 [ ] 中学2年の時に、4科目(英語、博物など)で不合格となりしたため、をつけられたりしたが、逃げ回っていた。 勉強をしない炳五にの教師が、「お前なんか炳五という名は勿体ない。 自己に暗い奴だから アンゴと名のれ」とに「 暗吾」と書いたとされ、これが「 安吾」の由来とされる。 (11年)、反抗的な落伍者への畏敬の念が強く、やの影響を受けていた炳五は、試験の際に答案を配られた直後、白紙で提出するなど反抗的態度を取る。 この時、「学校の机の蓋の裏側に、 余は偉大なる落伍者となつていつの日か歴史の中によみがへるであらうと、キザなことを彫つてきた」と安吾は自伝小説『いづこへ』に記しているが、実際は柔道部の板戸に彫ったという。 炳五が再び落第濃厚で、放校されることを危惧した父や兄・献吉が、9月に東京の(現・)3年に編入させたことがきっかけで、父や長兄夫婦、四兄・上枝と共に大字諏訪(現・2丁目)の借家に移り住み、のにも出かけた。 秋頃、仁一郎はと診断される。 母と離れて暮しはじめ、炳五は世の中の誰よりも母を愛していることをのちに知る。 文学作品は、兄・献吉の影響もあり早くから読んでおり、私立豊山中学校編入後は同級生の、の影響でにも目覚める。 、、、、、などを愛読した。 また、ではやなどを愛読し、を作っていた。 その他にも、に興味を持ち、『雑誌』を愛読していた。 自伝小説『風と光と二十の私と』には、小説「人心収攬術」の翻訳を、友人Sの名前で雑誌『』に掲載したとあるが(結局掲載されなかったのか)、その掲載記事は見当たらない。 文学に自信が持てず、豊山中学時代は、野球や陸上競技に熱中、大会に入賞し、5年次の(大正13年)に第10回全国中等学校陸上競技会(の前身)ので1メートル57センチの記録で優勝した。 悟達への想いと求道 [ ] のあった(大正12年)11月2日に父・仁一郎が細胞、後で死去(64歳で没)。 戸塚を離れ、などを転々と引っ越し、(大正14年)から兄と字元芝849(現・)に転居。 本当は山に入って暮らすことを考えていたが、父の財産管理で10万円の借金があったことから、3月に豊山中学校を卒業後はになることを決心し、の荏原尋常高等小学校(現・)に採用され、その分教場(現・)の代用教員となり、5年生を担当する。 分教場主任の家にし、月給は45円であった。 生徒への教育方針は「温い心や郷愁の念を心棒に強く生きさせる」ことで。 優しいが怖い先生だったという。 この頃、を書く時の名前を「安吾」と称するようになる。 「安吾」とは、心安らかに暮らすことを意味する「 安居」のことである。 のちに安吾は、〈僕は荒行でを開いたから、安吾にした〉とに語っている。 、、、の『退屈な話』など、多くの文学書を愛読する。 卒業した豊山中学校がの中学で、在学中から友人らの影響でに目覚めていた安吾は、ますます求道への想いが強くなり、(大正15年)からの本格研究を志すため代用教員を辞め、4月に科第二科(現・インド哲学科)に入学。 住いは荏原郡大井町字元芝に戻ったり、四兄・上枝と婆やと共に大字池袋(現・)に転居する。 大学では読書会(原典研究会)を行なったりした。 に影響を受け、「意識と時間との関係」「今後の寺院生活に対する私考」を原典研究会刊『涅槃』に発表する。 この頃、に遭い、後遺症でやが起こりがちになる。 睡眠時間をわずか4時間にし(午後10時に寝て午前2時に起床)、仏教書や書を読み漁る猛勉強の生活を1年半続けた結果、に陥る。 (昭和2年)の芥川龍之介のがさらに安吾の神経衰弱に拍車をかけ、創作意欲を起こしつつ書けない苦悩の中で、自殺欲やの予感を感じ 、錯乱症状が悪化して、兄も安吾の病状に気づくようになる。 しかし、古今の哲学書や、、、など語学学習に熱中することで妄想を克服した。 フランス語と同人『言葉』 [ ] 大学でサンスクリット語などの辞書を読むために、さらに、を学び、(昭和3年)にの初等科に通い始める。 そこで、フランス語を成績優秀で「賞」をもらうほど習熟し、同校に通う、とも知り合う。 当時の安吾は服にを押しつぶしたようにかぶり、まだ酒も飲まず、講義に欠かさず出席して神経衰弱を治すために勉強に打ち込んでいたと江口清は述懐している。 安吾は彼らと読書会を開き、、、、 などに惹かれた。 当時隆盛であった文学やには全く魅力を感じず、、、、を愛読し、小説家への夢を本格的に固める。 この頃に第2回『』懸賞創作に小説を応募するが落選する。 翌(昭和4年)、アテネ・フランセ中等科へ進んだ安吾は、校友会に参加し、、らとも知り合った。 11月に再び、第3回『改造』懸賞創作に応募し落選したとされる。 (昭和5年)3月に東洋大学を卒業した安吾は、既成の文学者のようになれない自分に煩悶し、書くべきものの必然性を求めてや、を観たり、音楽(など)を聴いたり、有名になりたいという野心と裏腹にの支配人になろうともするが、アテネ・フランセ高等科に進み、本格的にを学ぶ。 5月には荏原郡字安方127番地(のちに安方町。 現・)に新築した家に、兄・献吉夫婦と、前年1929年(昭和4年)に妹・千鶴と上京してきた母・アサと移住した。 母は、自分の実家から資金援助し安吾をへさせてやろうと真剣に考えていたが、安吾自身は自信がゆらぎがちで、〈途中で自殺しそうな気配の方を強く感じて〉しまい、留学に踏み切れなかったという。 11月に、アテネ・フランセの友人葛巻義敏、長島萃、江口清、山田吉彦()らと同人誌『言葉』を創刊。 創刊号に「に就てのクロッキ」(マリイ・シェイケビッチ)を掲載した。 この頃から同人仲間と、、、に飲みに行くようになる。 同月14日には、兄妹の中で一番好きだった異母姉・ヌイが黒色肉腫のため死去(40歳で没)。 新進ファルス作家へ [ ] (昭和6年)1月に『言葉』第2号に、的な処女小説「木枯の酒倉から」(副題は「聖なる酔つ払ひは神々の魔手に誘惑された話」)を書き、が褒めているという話を聞いて、小説家としての資質に自信を持つようになる。 『言葉』を2号で廃刊後、5月に『青い馬』と改題してから新創刊し、創刊号に風の小説「ふるさとに寄する讃歌」(副題は「夢の総量は空気であつた」)、随筆「ピエロ伝道者」、翻訳「ステファヌ・マラルメ」()、「エリック・サティ」()を発表した。 「エリック・サティ」 は葛巻義敏との共訳であった。 続いて6月、『青い馬』2号にとも言うべき「」を発表。 3号に、新潟県、を舞台にした「黒谷村」を発表する。 この「風博士」をから激賞 、「黒谷村」もとにも認められ、一躍新進作家としてに注目された。 安吾は、〈私は短篇小説をたつた三つ書いただけで一人前の文士になつてしまつた〉と述懐している。 次いで9月に「海の霧」を雑誌『』、10月に「霓博士の頽廃」を『』に発表し、売れっ子作家となり、牧野信一主宰のの『』にも「竹薮の家」を連載した。 この作品にも音楽性、映像性が見られる。 『文科』同人には、、、らがいた。 (昭和7年)3月、『青い馬』は5号で廃刊、この最終号には評論「FARCEに就て」を掲載し、〈文学全般にわたつての〉について論じた。 3月からに1か月半ほど滞在し、河上徹太郎の紹介で卒業間際のを訪ねて、の、らと知り合い交遊して帰京。 文学上のことで口論となることのあった牧野信一とは徐々に疎遠となる。 6月、「母」を『東洋・文化』に発表。 8月、行きつけのの酒場ウヰンザアで、加藤の紹介で美人女流作家・と知り合い交際が始まる。 この酒場でとの交友も始まった。 12月にはで療養中の・村山喜久(姉・セキの娘)を見舞い、詩画集「小菊荘画譜」を作り、〈菊は娘の娘也と叔父安吾 世に推して憚らず〉などの健康回復の祈願を書く。 (昭和8年)3月に、、、、矢田津世子らと同人誌『櫻』創刊に参加し、「新しき文学」を掲げ、5月から「麓」を連載するが、『櫻』は第3号以降の刊行が難しくなり、6月に矢田と共に脱退した。 11月、小説論「と」を『行動』に発表。 不安と流転の日々 [ ] (昭和9年)1月に何度もを繰り返していた親友・長島萃がでし夭折したことに衝撃を受け、2月に「長島の死に就て」を『紀元』に発表。 同月には河田誠一(詩人)も急性で死去した。 この2人の友人の死は、安吾に生命の不安を与え、生活態度にも影響を及ぼした。 安吾は前年に知り合った蒲田新宿の酒場ボヘミアンのお安さんと3月から半ば生活に入り、のちに堤方町555(現・中央)の十二天アパートに移住。 5月、「姦淫に寄す」を『行動』に発表。 9月に「麓」(未完)を『』に発表するが、文学的転機に悩み、夏には、地方に放浪し、流転の生活を送る。 (昭和10年)4月に「蒼茫夢」、5月に随筆「枯淡の風格を排す」を『作品』に発表。 を批判したこの随筆が縁で、と知り合う。 6月に『黒谷村』(「木枯の酒倉から」など6編収録)をから刊行し、出版記念会を開く。 に赴き、弥津村(現・)の奈良原鉱泉で一夏を過ごし、7月、「金談にからまる詩的要素の神秘性について」を『作品』、8月に「逃げたい心」を『文藝春秋』に発表。 この小説の主人公の逃走(蒸発)願望は、などの同時代作家に共通するものであった。 12月、母や母性について書いた「をみな」を『作品』に発表。 お安さんと別離し、安方町の家へ戻る。 (昭和11年)3月、の菊富士ホテルで執筆中にが来訪し再会するが、その後矢田から絶縁の手紙が来る。 このことや同月24日にのに衝撃を受けたことから、1月から『』に連載していた長編「狼園」を中断し、5月に牧野への追悼随筆「牧野さんの祭典によせて」を『』、「牧野さんの死」を『作品』に発表する。 6月には、5年間交際していた恋人・矢田津世子に絶縁の手紙を送った。 矢田との間にははなく、5年目の冬に一度しただけだという。 11月末から、矢田との恋愛を主題にした長編「」の執筆に取りかかり、翌(昭和12年)2月、に見送られて東京を発つ。 稲荷鳥居前町22に下宿し、「吹雪物語」の執筆に専念しながらも絶望に陥り、移った下宿先の上田食堂の二階にを開くなど三昧、飲酒に明け暮らす生活を送る。 切支丹物との出会い [ ] (昭和13年)5月に、安吾作品では最も長い700枚の渾身作「吹雪物語」を脱稿して上京し、本郷の菊富士ホテルに滞在。 竹村書房から長編『吹雪物語』を7月に刊行するが、失敗作と評され失意に陥る。 6月には可愛がっていた姪の村山喜久がの自宅の池の前で自殺し二重の苦悩の中、執筆に専念し、12月にの雑誌『文体』に説話体小説「閑山」を発表した。 日本の古典文学や昔話に親しみ、(昭和14年)2月にも、説話体小説「」を『文体』、3月は「木々の精、谷の精」を『文藝』に発表した。 同年5月、安吾は〈人々のいのちとなるやうな物語〉を書くべく 、新たな小説の腹案を練るため、の取手病院の離れに住み込むが、何を書いても本当の文学が書けない思いで空漠とした生活を送る。 翌(昭和15年)1月には取手の寒さに悲鳴をあげ、の誘いで橋付近の亀山別荘という患者のための家に転居する。 の『』を読み、絶望の必要性を教えられたことと、三好の勧めで『日本切支丹宗門史』など物を読み始め、執筆意欲を取り戻し、7月に「イノチガケ」を『文學界』に発表する。 12月に上京し、「風人録」を『現代文學』に発表。 歴史小説への意欲は同人雑誌の頃の若い時代にも潜在していたが 、ここで新たに歴史人物への共感と視野が広まる。 絶対の孤独と「ふるさと」 [ ] にと浅草で会い、意気投合し『現代文學』同人となる。 翌(昭和16年)1月に大井宅で歴史書を耽読し、蒲田区安方町の家に戻る。 8月に評論「」を『現代文學』に発表。 版『』の残酷な〈救ひ〉のない結末を鑑み、〈生存それ自体が孕んでゐる絶対の孤独〉が〈文学のふるさと〉だと考察し、〈モラルがないといふこと自体がモラル〉というところから文学は出発するのではないかと論じられ 、自身の孤独な半生をとして結晶させている。 8月、小田原から蒲田区安方町94に移り、再び母や兄たちと住むようになったが、小田原の借家は9月に暴風雨で流失する。 歴史長編小説『島原の乱』(未完)を構想し、10月に『現代文學』に「島原の乱雑記」を発表、11月は「ラムネ氏のこと」を『都新聞』に発表する。 同月、石川淳と識る。 (昭和17年)2月に母・アサが息を引き取る(73歳で没)。 3月に評論「」を『現代文學』に発表。 6月に「」を『文藝』に発表。 「真珠」はのの勇士・を主題にした小説で、彼らの死を目前にしたゆえの透明な明るさと、安吾自身の飲んだくれの無頼の生活を対比させた作品である。 兄・献吉夫婦が1丁目に転居したため、『島原の乱』に執筆を兼ねて一夏を新潟で過ごす。 11月に「青春論」を『文學界』に発表。 独自の文学観や思想を確立してゆく。 (昭和18年)9月、最初の自伝小説「二十一」を『現代文學』に発表。 10月に創作集『真珠』(「古都」「孤独閑談」など所収)を刊行したが、「孤独閑談」の一部の表現が時局に合わないとして再版を禁じられた。 この頃、「猿飛佐助」の構想を立てるが中断する。 12月に『』をから刊行。 戦時中は作品発表の場が大幅に減り、や『』を読み漁った。 (昭和19年)1月にを主人公にした歴史小説「黒田如水」(『』の原型)を『現代文學』、2月に「鉄砲」を『文藝』に発表。 のためにのとなる。 3月14日に矢田津世子が38歳で病死。 安吾はしばらく打ちのめされた。 (昭和20年)4月にを受けるが、応召せず、6月に、『黄河』などのを書いたが映画化はされなかった。 2月26日にを受けたが、家は焼け残った。 戦災に遭った親戚筋の大野璋五()一家4人が坂口家と同居する。 終戦後の9月に日本映画社を退社。 世話になった友人のがで追及されることを危惧して奔走する。 安吾は尾崎士郎の秘書という名目で事務所に同行して弁護をした。 時代の寵児 [ ] 1946年、自宅にて執筆中 (昭和21年)、雑誌が復刊され出し、1月に「わが血を追ふ人々」(『島原の乱』構想の一部を独立させたもの)を『近代文學』に発表。 4月に『』に発表した評論「」は、終戦後の暗澹たる世相の中で戦時中の倫理や人間の実相を見つめ直し、〈堕ちきること〉を考察して、に打ちのめされていた日本人に大きな影響を与えた。 同誌に6月に発表した小説「」も大きな反響を呼び、この2作によって脚光を浴びた安吾は一躍人気作家となる。 続いて7月に「外套と青空」を『』、9月に「女体」を『文藝春秋』、「欲望について」を『』、「我鬼」(のち『』に挿入)を『社会』を発表。 「女体」は、の作品を〈全然肉体を生活してゐない〉とし、〈一組のの心のつながりを、心と肉体とその当然あるべき姿に於て歩ませる〉という主題の作品である。 10月に自伝小説「いづこへ」を『』、「魔の退屈」を『太平』、「デカダン文学論」を『新潮』、「」を『新生』に発表。 11月に自伝小説「石の思ひ」を発表。 12月に「続戦争と一人の女」を『サロン』に発表し、旺盛な活動を見せる。 この頃、やと座談会で面識をもつ。 写真家と酒場ルパンで知り合い「を飲む会」を通じ交友し、12月に安方町の自宅の二階の紙屑だらけの仕事場で撮られた写真も後に有名になった。 2年間ほど掃除をしていない部屋を見て、林忠彦は「これだ!」と叫んだという。 同月には『座談』でと対談する。 多忙な人気作家へ [ ] (昭和22年)1月に独特の歴史観による歴史小説「道鏡」を『改造』に発表。 との恋の道程を描いた作品である。 戦前の史観では悪逆非道とされていた人物を取り上げた安吾らしい作品としてセンセーショナルに迎えられたが、内容はむしろ女帝としての孝謙天皇を描いたものだった。 同月には、「恋をしに行く」(「女体」の続編)を『新潮』、「私は海を抱きしめてゐたい」を『』、を題材にした歴史小説「家康」を『新世代』、自伝小説「」を『文藝』に発表。 20代の青春期の精神遍歴を描いた小説は、3月の「二十七歳」もあり、それに続く連作的な「三十歳」(翌年5月発表)では当時新進女流作家であったとの恋愛について描かれ、安吾自身も年代記の眼目としている。 人気作家となった安吾は、太宰治、織田作之助、石川淳らとともに「」「」と呼ばれて、時代の寵児となり注目される反面、「痴情作家」とレッテルを貼られることもあった。 2月、随筆「」を『ホープ』に寄稿したが、ので全文削除となり未発表作となる。 同月には初の新聞連載小説「花妖」を、の挿絵で『』に連載開始するが、新聞小説としては型破りであったために読者の評判は悪く連載中断となってしまい5月で未完となった。 6月には虚無の極北、絶対のを凝視した「」を『肉体』、自伝小説「暗い青春」を『潮流』、評論「教祖の文学」を『新潮』、ファルス的な連作「金銭無情」「失恋難」「夜の王様」「王様失脚」(のちに長編『金銭無情』)を『別冊文藝春秋』他各誌に発表するなど旺盛な活動を見せた。 作品の反響は大きく執筆のペースは大幅に増え、次々と作品を発表し、を服用しながら4日間一睡もしないこともあった。 安吾には強気の反面、神経の弱い面が多分にあったという。 9月からは「」を雑誌『』に連載し始める(挿絵は)。 作中に登場する巨勢博士は短編「選挙殺人事件」(1953年)、「正午の殺人」(1953年)でも活躍させている。 安吾は少年時代から推理小説、探偵小説を愛好し、としてはを最高の作家として挙げ、も好んでいる。 飲みに行くこともままならなかった戦争中には、、、、らと邸に集まり、犯人あてのに興じていたが、推理に一番熱心であったが一番当らなかったという。 大井広介は、「彼(安吾)の推理は不可思議な飛躍をする」ことが多かったと回想している。 安吾は推理小説を、の魅力やゲームとして楽しむ理知的な娯楽と捉えているが 、それを成立させるためには、「作家的、文学的、洞察と造型力」が必須であり、「いやしくも犯罪を扱う以上、何をおいても、第一に人間性についてその秘奥を見つめ」ていなければならないと語り。 が先にありきで後から登場人物を当てはめたような、「有りうべからざる人間心理をデッチあげ」、「人間性を不当にゆがめている」作品には批判的である。 10月に「」を『愛と美』(『』25周年記念号)に発表するが、この作品のモデルと自称するとは、3月に新宿の酒場チトセで知り合い、毎週水曜日にとして手伝いをしてもらうようになり、9月から結婚生活に入った(正式なはのちの1953年8月24日)。 なお、安吾自身は「青鬼の褌を洗う女」について、〈特別のモデルといふやうなものはない。 書かれた事実を部分的に背負つてゐる数人の男女はゐるけれども、あのを歩いてゐる女は、あの作品の上にだけしか実在しない〉としている。 ヒロポン・アドルム中毒 [ ] 1948年(昭和23年)1月に『』(九州書房)を刊行。 「淪落の青春」(未完)を『ろまねすく』に発表。 や、らのいる『ろまねすく』は前年8月に同人となった。 2月に『金銭無情』をから刊行する。 この頃からヒロポンに加え、を服用するようになり、ちょうど太宰治の自殺した6月頃から、的精神状態に陥る。 これを克服するために、短編やエッセイの仕事は断り、長編「にっぽん物語」(のち『火』)の連載執筆に没頭する。 しかし不規則な生活の中でアドルム、ヒロポン、を大量に服用したため、病状は更に悪化し、、も生じるようになる。 12月、執筆取材のためにへ行くが発熱し旅館に病臥する状態だった。 翌(昭和24年)1月に戻った後にはアドルム中毒で狂乱状態、幻視、神経衰弱となり、夫人や友人達の手により2月23日に に入院した。 4月に薬品中毒症状と鬱病は治まり、「僕はもう治っている」を『』に発表。 「にっぽん物語」の完成を目指し、置手紙を残して外出先から電話をかけて病院を自主退院する。 6月には「精神病覚え書」を『文藝春秋』に発表。 8月に推理小説「復員殺人事件」を『座談』に連載開始し、本格推理小説で新境地を拓くが、載誌が廃刊となったため翌年3月に第19章までで中絶となる。 未完となった「復員殺人事件」はその展開を惜しまれ、他の探偵小説を書く暇があるのなら、これを完結させるべきだったと大井広介はのちに安吾に苦言を呈している。 生活のために執筆を再開するが、軽く使用した薬物のために病気再発し発狂状態となる。 やむなく夫人とともにに転地療養し、治療でなんとか健康を取り戻し、11月に伊東市岡区広野1-601の借家に移転し、犬を飼いはじめる。 なお、この1949年(昭和24年)から1954年(昭和29年)まで5年間、選考委員を勤め、『喪神』、『』を強く推すなど新風を吹き込んだ。 巷談師の自覚と珍騒動 [ ] (昭和25年)1月には、ファルス的小説「」を『文學界』に発表。 続いて戯作者精神を発揮した社会時評「」を『文藝春秋』を発表し、文藝春秋読者賞を受賞するが、この頃、再び睡眠薬を服用し、中毒症状の発作を起こした。 5月から「街はふるさと」を『』に連載し、執筆のためたびたび上京して林町のモミジ旅館に宿泊した。 8月に「巷談師」を『別冊文藝春秋』に発表。 10月からは探偵小説「」を『』に連載。 この作品は、探偵・結城新十郎がとの談話を交えながらシリーズで解決役となる。 安吾は、短編の推理の理想的な形式として日本流のを書こうとし、日本では『』のような成功作があるということで「捕物帳」になった。 同月には、らとの合作によるラジオ小説『』をより刊行した。 翌(昭和26年)3月から歴史考察を記した「」を『文藝春秋』に連載する。 に関する大胆な仮説も提唱した鋭い感性からくる歴史観は、その後の作家(、など)が古代史を論ずる際の嚆矢となった。 を傍聴する坂口安吾(最前列右から2人目)、1952年1月18日 しかし安吾は流行作家としての収入があっても全て使い切ってしまい、5月に滞納により家財や蔵書、原稿料も差し押さえとなる。 に腹を立てた安吾は6月に、「差押エラレ日記」、「」を『』に書き、税金不払い闘争を行なった。 夏から・地方を旅行し、日本古代への新たな興味を抱く。 一方、この頃から場に通い出し、のあるレースの着順判定(写真判定)に不正があったのではないかと調査、当時の運営団体である静岡県をに告訴するという伊東競輪不正告訴事件を9月に起こす。 監督官庁であるは「坂口氏の思い違いである」として断定する が、11月にはこれについて書いた「光を覆うものなし」を『新潮』に発表し、その中で再度写真のすり替えによる不正を主張したが、12月に嫌疑不十分で不起訴となった。 この時代の競輪は、の巣窟だったという。 この競輪告訴事件の泥沼化により疲れ果て、アドルムを多量に服用し伊東市から離れて、から邸など転々と居場所を変えることになり、妻・三千代の実家やの宅に居候する。 檀一雄の家に身を寄せていた頃、安吾は「を百人前頼んでこい」と妻に言いつけ、三千代夫人は仕方なく、近所の食堂や(「ほかり食堂」と「辰巳軒」)に頼み、庭に次々と出前が積み上げられていくという「ライスカレー百人前事件」を引き起こす。 檀一雄はその時の安吾について、「云い出したら金輪際にひかぬから」と語っている。 その後安吾は、(昭和27年)2月末、『現代文學』同人だったの紹介で本町2丁目266番地の書上又左衛門邸の離れに身を隠す。 この頃、この地で巡りやをはじめた。 小説の執筆は激減するが、同年1月からは歴史人物譚「安吾史譚」を『』に連載し、として活躍、巷談師を自称する。 同月には、を林房雄らと共に傍聴し、「チャタレイ傍聴記」を『読売新聞』に載せた。 6月に「」、9月に戯曲「輸血」を『新潮』に発表。 10月からは歴史小説「信長」を新聞『』に覆面作家として連載。 連載と並行して作者名を当てる懸賞募集も行われ、応募総数2784通のうち正解は1299名だった。 歴史探訪と途絶 [ ] (昭和28年)1月、「屋根裏の犯人」を『』に発表。 4月ころからが再発し、アドルム、の大量服用で錯乱状態となったことで、南川潤とも絶縁する。 8月に、文藝春秋新社の企画で、安吾がで、がという想定でを再現するために旅行するが、ここで暴れてのに入れられ、釈放された8月6日の朝、長男()の誕生を知る。 薬物の発作が治まると、子供の親だという自覚が芽生え、生活が変化する。 (昭和29年)1月、子供が出来たために、が無いことを案じた「人の子の親となりて」を『キング』に発表。 50歳近くで初めての子ができたことに惑いながらも、子供の成長の伴い愛情を深め、をしようかという気になり始め、また子にはパパ、ママと呼ばせる。 同年8月、歴史小説「真書太閤記」を『知性』に連載開始。 「信長」と対をなし、を描いた作品である(未完)。 10月にのため、初めて妻と息子を連れて新潟に帰省し、幼少時代の地を歩く。 11月に行きつけのの店「染太郎」で、知人たちと食事をし、トイレに立つ時に熱いに手をついてしまうという「染太郎未遂事件」を起こす。 ジュっと音がして焼けた安吾の手のひらを、すばやくで冷やして手当をしてくれた店の女主人に感謝した安吾は、「テッパンに手をつきてヤケドせざりき男もあり」というを贈った。 12月には、「安吾日本風土記」の構想のために九州のに赴き、を訪れた。 『中央公論』編集長・笹原金次郎によれば、安吾はの声を綴ろうと、「日本全国歩こう。 地方を廻って、古老から話を訊くんだ。 日本人の、全く新しい歴史を書きたいんだ」と意欲を持って、「安吾日本風土記」に臨んでいたとされる。 (昭和30年)1月、歴史小説「狂人遺書」(「真書太閤記」の後継をなす作品)を『中央公論』、2月に推理小説「能面の秘密」を『小説新潮』に発表。 夜にの自宅へ戻り、早朝に、「舌がもつれる」と言いながら突然痙攣を起こし倒れ、7時55分ににより死去。 48歳没。 葬儀は2月21日にで行われ、、や、らが弔辞を読む。 川端康成は、「 すぐれた作家はすべて最初の人であり、最後の人である。 坂口安吾氏の文学は、坂口氏があってつくられ、坂口氏がなくて語れない」とその死を悼んだ。 安吾は生前、葬式は退屈で不要だから「バカ騒ぎを一晩やりなさい。 あとは誰かと恋をしてたのしく生きて下さい。 遺産はみんな差しあげます。 お墓なんか、いりません。 」と語っており 、墓は故郷の(現・新潟市大安寺)の坂口家墓所に葬られたが墓には安吾の名や戒名は一切印されていない。 小説としてのは「狂人遺書」となった。 没後にエッセイとして3月に「諦めている子供たち」が『』、「砂をかむ」が『風報』、4月に「育児」が『』、「青い絨毯」が『中央公論』、「世に出るまで」が『小説新潮』に掲載される。 「狂人遺書」について安吾は生前、〈誰にもわかってもらえなかった秀吉の哀しさと、バカバカしいほどの野心とを書くんだよ〉と言い、53歳の高齢となって初の子供()ができた晩年のに自己を投影して、長男・への気持ちを表現すると同時に、大きな執筆意欲を示していた。 死後 [ ] (昭和32年)、新潟市寄居浜の境内に「 ふるさとは語ることなし」の詩碑が建立された。 また毎年2月17日は「 安吾忌」が催されている。 未完成であった推理小説「樹のごときもの歩く」が、1957年(昭和32年)8月から11月まで4回『』で連載された。 これは、掲載雑誌廃刊のために第19章までで未完のままであった推理小説「復員殺人事件」(1949年8月-1950年3月)を「樹のごときもの歩く」と改題して 再掲載したものであり 、その後を同年12月からが続きを書き継いで、翌1958年(昭和33年)4月に完結させた。 高木が書き継いだ新稿の後半部は第20章から第30章となる。 高木は安吾夫人から、犯人のことや事件解決の決め手などの「安吾の意図」を聞いていたという。 しかし結果的には、「解決編」(最終回の第28章から第30章 )は安吾の遺志どおりには展開されてはいないとされている。 評価 [ ] は解説「坂口安吾とフロイト」において、安吾が自らのの原因を「自我の理想的な構成、その激烈な祈念に対する現実の」(「精神病覚え書」)と自己分析していたことに触れた上で、その「自我の理想的な構成、その激烈な祈念」という反復強迫に、の言う「」があると分析している。 また同時に柄谷は、日本の近代文学の「」や「」といった戦後の作家や、とは隔たる安吾の特異な面を見ながら、「何が彼を近代文学=的な一般性から隔てているのか」の答えとして、安吾には、「と」(と)、「と」といったわかりやすい二元論とは異質な「死の欲動」があり、その反復強迫にたえず追い詰められていた作家だとしている。 そして柄谷は、安吾が文壇に注目された時期に掲げていた(全的に人間存在を肯定 )ではない、いわゆる近代小説的な、意識による抑圧の理論の「まともな長編小説」を書こうとして鬱病を再発させ、その長編「吹雪物語」の完成後、鬱病を回復させた時期に執筆した「イノチガケ」という作品(がいかに日本に到来し広がったかを政治的背景の中で示した作品)に着目し、その中の、幕府が考案した穴つるしの刑によってが繰り返される光景の「無味乾燥な書き方」や、その「滑稽な」処刑によりの死の尊厳を封じることができたと書いている随筆「文学と国民生活」を関連させつつ、その滑稽さが「死の欲動」を抑制したと解析している。 そのため、その「イノチガケ」(ある意味でファルスの反復)以後の安吾は、初期にファルスを唱えながらもなお抱いていた「近代小説の形態へのこだわり」を捨て去り、多彩なジャンル(「」のようなエッセイや「織田信長」などの歴史小説)に及ぶ重要な執筆活動を広げ、その活動を通して安吾の中で「近代小説を優位におくハイアラーキー()」が消失したとして、柄谷は以下のように安吾の作品総体を評価している。 彼はもはやファルスを唱えない。 が、その作品総体がファルス的なのである。 その結果として、近代的小説を中心として見る戦後の文学史家において、安吾は二流の作家と見なされてきた。 実際、彼の作品では、エッセイが小説的で、小説がエッセイ的である。 どんな作家にもあるような代表作というべきものがない。 しかし、安吾が今もわれわれを惹きつけるのは、まさにそのためである。 安吾の作品を一冊にまとめるとき、このようなジャンル的区別を否定すべきである。 そして、それこそが安吾のいう「全的肯定」にほかならない。 — 柄谷行人「坂口安吾とフロイト」。 また、の論考によると、坂口安吾は多彩な活動をする一方で、気まぐれに放棄された未完作、未発表作も多く、その烈しい精神の振幅の個性を全的に表現しうる方法論を模索しながらも十全に開花させた純文学においてのは書かれることは無かったが 、いわゆる文壇の巨匠や名人と言われるような器用な作家の作品からは得られない特異な魅力のある作家として、広くジャンルを越えて他の多くの作家、創作者からも親しまれている傾向があり 、奥野はその安吾の魅力を、他の小説家からは求めることができない「不思議な人間的魅力にあふれている」「ある時は人間の魂の底まで揺がすようなすさまじい感動を、ある時は澄みきった切ないかなしみに似た憧れを与えてくれる」と評しつつ、「失敗作を含めて、坂口安吾の作品の中に、未来の文学へのさまざまな貴重な実験や発想や方法、そして全人的なヴァイタリティをぼくたちは見いだすことができる」としている。 また、文学作品だけではなく、そのやも評価され愛好されている。 無頼派、新戯作派であり、坂口安吾との交流も多かったは安吾の特異な作家性について以下のように評している。 安吾は優れた作家であると同時に、一流のエッセイストであった。 彼はエッセイにおいても、ある時は志を語り、またある時は、ゆったりした余裕と現実洞察力をもって、世のさまざまな事象について語っている。 安吾の書き残した作品群が、世の人生案内ふうの本とは根本的に異なっていることに気づくためには、事によったら読者の年齢と成熟とを必要とするかもしれない。 しかし、一流の文学というものは、おおかたそういう性格のものなのである。 — 磯田光一「坂口安吾 人と作品」 は、安吾の「風と光と二十の私と」を始めとする自伝的小説群を解説しながら、「無頼派と呼ばれるにふさわしいな行状を含みながらも、これほど真面目に生きた人は稀ではないかと思わせられる」として以下のように安吾の作品を評価している。 (安吾は)いつでも人生いかに生くべきかを真剣に考え、求道の念が強すぎて時にくずおれそうになる弱い心も隠さずさらけ出す。 文章のはしばしに滲む悲しみは、青春の純粋な魂を失わずにいる人にだけ沁みとおっていく清水のようなものかもしれない。 つまり、それは他人に頼らないことです。 その意味では、いわゆるは無頼とはほど遠い。 組織に依存し親分に従い、他人にたかるのだから。 その意味で、安吾はヤクザではなく、まさに「無頼」だった。 太宰はそうではない。 「無頼」であれば、そもそもに入党しないし、転向もしない。 彼は頼りっぱなしの人だった。 自殺するときまで、他人に頼っている。 そういうものを「無頼」とはいいません。 言語の本来の意味では、「無頼派」は安吾だけだったと思います。 最初に読んだときから、自分には安吾が性に合っていた。 」と評している。 また、坂口安吾の作家生活は約24年間(1931年-1955年)であるが、戦後10年間の後半生(的成功、恋愛、酒と遊び、狂気、長編小説の失敗、社会的事件、死)と、戦前14年間の前半生の経過が非常に似ていることが指摘されている。 は、安吾が自身の前半生を戦後の後半生に対応させて、同じ人間が生まれ変わり、「解放された人間」として同じ経過のコースをもう一度生きてみようとしたのではないかと考察している。 そして、前段の節でも記述したように、安吾の葬儀の際にはが、安吾の個性的な文学について触れ、「すぐれた作家はすべて最初の人であり、最後の人である。 坂口安吾氏の文学は、坂口氏があってつくられ、坂口氏がなくて語れない」と述べた。 また、作家同士の交流が多かった無頼派、新戯作派の中でも特に坂口安吾と深い交流があったは自らの随筆『安吾のいる風景』の中で「安吾はよく書き、よく褒めた。 褒めるのは自分の書いたものに決まっている。 それはもっと、もっとと、自分を先のほうへせきたてる調子のようにもきこえた」と、創作時における安吾の印象を述べている。 さらに、は『この巨大なるもの』と題した以下のような評を安吾の全集に寄せている。 一たび堰を切つた安吾全集は奔流だうだうと諸君のたましひに鳴りひびく。 高貴なるもの、通俗なるもの、深くしづもるもの、派手にみだれるものを併せて、文學の精髓はすべて混沌としてここにある。 全巻至るところに安吾がゐて、大いに笑ひ大いに慨く。 その点、太宰治のどこまでも頽廃的でいぶしのかかつたセンチメンタルなものよりわたくしは坂口の文学の方が文学の本筋だと思つてゐる」とした上で以下のように評している。 坂口は世俗的などんな先入観念にも煩はされるところなくぢかに人間を見た。 そのため人間の心理は彼は可なり深く知るところである。 それ故、彼の文学は、創作とばかりは限らず、雑感随筆のたぐいまで、その囚はれないものの見方、濶達な人がらがよく出てゐて、おもしろい。 太宰のものが現代青年のものであるのに対比して坂口の文学は将来のおとなの文学だとも思へる。 わたくしは素直に人智の進歩発達を信じて年来、文学の常識も年々に健全な発達を遂げてゐると見てゐるものであるが、一般の読者が太宰の文学に堪能してこれを卒業したころになつて、坂口文学の真価がもう一度見直され、やがて正常に理解され愛読されるものとなるのを疑はない。 この「ガランドウ」という言葉は、小田原に安吾を招き共に生活をしたこともあるが安吾を評して、「かれは堂々たる建築だけれども、中へはいってみると、畳が敷かれていない感じだ」と言った評を受け、安吾自身が笑ってしまい、自分のことを、「まったくお寺の本堂のような大きなガランドウに、一枚のも見当たらない。 大切な一時間一時間を、ただなんとなく迎へ入れて送りだしてゐる。 実の乏しい毎日であり、一生である。 土足のままスッとはいりこまれて、そのままズッと出ていかれても、文句のいいやうもない。 どこにもくぎりのないのだ。 ここにてをぬぐべしといふやうな制札が、まつたくどこにもないのである」と述べたことから来ている。 も安吾を「敬愛する作家」として以下の言葉を選集に寄せている。 私は坂口安吾氏に、たうたう一度もお目にかかる機会を得なかつたが、その仕事にはいつも敬愛の念を寄せてゐた。 戦後の一時期に在つて、混乱を以て混乱を表現するといふ方法を、氏は作品の上にも、生き方の上にも貫ぬいた。 氏はニセモノの静安に断じて欺かれなかつた。 言葉の真の意味においてイローニッシュな作家だつた。 氏が時代との間に結んだ関係は冷徹なものであつて、ジャーナリズムにおける氏の一時期の狂熱的人気などに目をおほはれて、この点を見のがしてはならない。 — 三島由紀夫「私の敬愛する作家」 そして、「がもてはやされて、坂口安吾が忘れられるとは、石が浮んで、木の葉が沈むやうなものだ」として、三島は安吾について以下のようにも評している。 坂口安吾は、何もかも洞察してゐた。 底の底まで見透かしてゐたから、明るくて、決してメソメソせず、生活は生活で、立派に狂的だつた。 坂口安吾の文学を読むと、私はいつもトンネルを感じる。 なぜだらう。 余計なものがなく、ガランとしてゐて、空つ風が吹きとほつて、しかもそれが一方から一方への単純な通路であることは明白で、向う側には、夢のやうに明るい丸い遠景の光りが浮かんでゐる。 この人は、未来を怖れもせず、愛しもしなかつた。 未来まで、この人はトンネルのやうな体ごと、スポンと抜けてゐたからだ。 太宰が甘口の酒とすれば、坂口はだ。 純粋な分はこちらのはうにあるのである。 — 三島由紀夫「内容見本」(『坂口安吾全集』) 囲碁・将棋好き [ ] 坂口安吾は以外に、やも好んでおり、特に囲碁は強く、1937年(昭和12年)の京都府滞在時には席主として生活していたほどであったが、その後に三段に五子で勝ったこともある。 囲碁ののとの十番碁の第一局、将棋のがに名人を奪われた第6期名人戦の最終局(第七局)、木村ととの三番勝負の第一局、木村が塚田から名人を奪回した第8期名人戦の最終局(第五局)、それぞれのを執筆していて、評価が高い。 「勝負の鬼」として十年間不敗だった木村義雄が、1947年(昭和22年)の第6期で、勝負師根性を捨てたため塚田正夫にて敗北した時の、木村を厳しく批判した『散る日本』は名作として名高く、1950年に第一期に勝利したを主人公にした小説『九段』もある。 また、で升田幸三が木村義雄との香落ち番の対局を拒否したについても、事の詳細を記した随筆『升田幸三の陣屋事件について』が安吾の死後に見つかった。 この中で安吾は、升田の処分を決める棋士総会を傍聴したと記している。 この随筆は、関係者の間で証言が食い違うことの多かった陣屋事件における、貴重な考証資料のひとつとして注目を浴びた。 主要作品 [ ] 推理小説 [ ] 巨勢博士 [ ]• (1947年) - 長編• 復員殺人事件 (第19章までで未完、1949年)• 選挙殺人事件 (1953年)• 正午の殺人 (1953年) 結城新十郎 [ ]• (上下) ノンシリーズ [ ]• 投手殺人事件 (1950年)• 孤立殺人事件• 屋根裏の犯人 (1953年)• 南京虫殺人事件 (1953年)• 山の神殺人 (1953年)• 影のない犯人 (1953年)• 心霊殺人事件 (1954年) - 中編• 能面の秘密 (1955年) 海外翻案 [ ]• 組立殺人事件 (1951年) - ロイ・ヴィカース作品 歴史小説 [ ]• 黒田如水(『』の原型)• 島原の乱雑記• 織田信長(未完)• 真書太閤記 その他小説・自伝 [ ]• 『黒谷村』竹村書房 1935年6月• 「木枯しの酒倉から」「ふるさとに寄する讃歌」「」「黒谷村」「竹薮の家」「蝉」収録• 『吹雪物語』竹村書房 1938年7月(改訂版は、新体社 1947年7月)• 『炉辺夜話集』スタイル社 1941年4月• 「閑山」「紫大納言」「勉強記」「盗まれた手紙の話」「イノチガケ」収録• 『』大観堂 1943年10月• 「母」「古都」「孤独閑談」「木々の精、風の精」「風人録」「波子」「真珠」収録• 『日本文化私観』文体社 1943年12月• 「青春論」など6編収録• 『』九州書房 1947年2月• 『逃げたい心』銀座出版社 1947年4月• 「海の霧」「蝉」「小さな部屋」「麓」「姦淫に寄す」「淫者山へ乗りこむ」「逃げたい心」「禅僧」「篠笹の陰の顔」収録• 『白痴』 1947年5月• 「風博士」「孤独閑談」「外套と青空」「閑山」「紫大納言」「勉強記」「盗まれた手紙の話」「」「二十一」収録• 『いづこへ』真光社 1947年5月• 「石の思ひ」など9編収録• 『堕落論』銀座出版社 1947年6月• 「日本文化私観」「青春論」「」「続堕落論」「デカダン文学論」「戯作者文学論」「FARCEに就て」「文学のふるさと」「萼堂小論」「文芸時評」「風俗時評」「長島の死に就て」収録• 『吹雪物語』(改訂版)新体社 1947年7月• 『いのちがけ』 1947年7月• 「黒谷村」「竹薮の家」「木々の精、風の精」「イノチガケ」「風人録」「波子」収録• 『道鏡』八雲書店 1947年10月• 「木枯しの酒倉から」「霓博士の廃頽」「蒼茫夢」「金談にからまる詩的要素の神秘性に就いて」「をみな」「土の中からの話」収録• 『欲望について』 1947年11月• 「大阪の反逆」など20編収録• 『外套と青空』地平社 1947年12月• 「風博士」「禅僧」収録• 『青鬼の褌を洗う女』山根書店 1947年12月• 「散る日本」など4編収録• 『二流の人』(改訂版)思索社 1948年1月• 『風博士』山河書院 1948年1月• 「木枯しの酒倉から」「風博士」「閑山」「勉強記」「盗まれた手紙の話」「土の中からの話」「」収録• 『金銭無情』 1948年2月• 「金銭無情」「出家物語」併録• 『吹雪物語』(改訂版)山根書店 1948年2月• 『教祖の文学』草野書房 1948年4月• 『風と光と二十の私と』日本書林 1948年10月• 「黒谷村」「孤独閑談」「古都」収録• 『竹薮の家』文藝春秋新社 1948年11月• 『ジロリの女』秋田書店 1948年12月• 「無毛談」など5編収録• 『』イブニングスター社 1948年12月• 『不良少年とキリスト』 1949年1月• 「戦争論」など11編収録• 『不連続殺人事件』岩谷書店 1949年9月• 『堕落論』(改訂豪華版)銀座出版社 1949年12月• 『勝負師』作品社 1950年1月• 「精神病覚書き」「日月様」「勝負師」「行雲流水」「わが精神の周囲」「小さな山羊の記録」「退歩主義者」収録• 『火 第一部』1950年5月• 『現代忍術伝』大日本雄弁会講談社1950年9月• 「現代忍術伝」「投手殺人事件」併録• 『』(らと合作。 日本放送協会編)宝文館 1950年10月• 『安吾巷談』文藝春秋新社 1950年12月• 『街はふるさと』 1950年12月• 『明治開化 安吾捕物帖』日本出版協同 1953年4月(第一巻)、1953年5月(第二巻)、1954年1月(第三巻)• 『信長』筑摩書房 1953年5月• 『夜長姫と耳男』大日本雄弁会講談社1953年12月• 「」「梟雄」「水鳥亭」など7編収録• 『狂人遺書』 1955年3月• 『保久呂天皇』大日本雄弁会講談社 1955年3月• 『明日は天気になれ』 1955年4月• 『わが人生観』筑摩書房 1955年5月• 『投手殺人事件』東方社 1955年5月• 『精神病覚え書』ダヴィッド社 1955年5月• 『安吾人生案内』春歩堂 1955年6月• 『安吾史譚』春歩堂 1955年7月• 『花妖』池田書店 1955年8月• 『二流の人』大日本雄弁会講談社1955年8月• 『安吾捕物帖』(全4巻)春歩堂1955年9月-12月 選集・全集 [ ]• 『坂口安吾選集』(全9巻)銀座出版社 1947年12月-1948年8月• 解説:• 『坂口安吾選集』(全8巻)創元社 1956年7月-1957年6月• 解説:• 『定本坂口安吾全集』(全13巻) 1967年11月-1971年12月• 解説:。 解題:• 『坂口安吾評論全集』(全7巻)冬樹社 1971年12月-1972年3月• 解説:関井光男• 『坂口安吾選集』(全12巻)講談社 1982年2月-1983年2月• 解説:。 解題:関井光男• 『坂口安吾全集』(全18巻)〈〉1989年-1991年• 『坂口安吾歴史小説コレクション』(全3巻) 2018年• 解説:• 『坂口安吾エンタメコレクション』(全3巻)春陽堂書店 2019年• 解説:七北数人 文庫・新書 [ ]• 『白痴』1949年10月、『堕落論』2000年、『不連続殺人事件』2018年、『不良少年とキリスト』2019年• 『信長』1955年3月• 『堕落論』1955年4月• 『真書太閤記』1955年4月• 『白痴・二流の人』1970年、『道鏡・狂人遺書』『堕落論』『暗い青春・魔の退屈』『ふるさとに寄する讃歌』『外套と青空』『ジロリの女』『夜長姫と耳男』『散る日本』『安吾巷談』『安吾史譚』『安吾新日本地理』『不連続殺人事件』『明治開化安吾捕物帖』『能面の秘密』『復員殺人事件』『私の探偵小説』• 『信長』1974年• 『日本探偵小説全集10 坂口安吾集』1985年• 『安吾史譚』1989年、『安吾新日本地理』、『安吾新日本風土記』、『日本論』、『心霊殺人事件:安吾全推理短篇』、『復員殺人事件』• 『桜の森の満開の下』1989年、ほか9冊• 『堕落論』1990年• 『勝海舟捕物帖』2006年• 『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』2008年、『桜の森の満開の下・白痴 他十二篇』『風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇』• 『信長』2008年• 『堕落論・特攻隊に捧ぐ』2013年• 『真書太閤記』、『信長』、『安吾史譚』2017年• 『夜長姫と耳男』、『桜の森の満開の下』2017年• 『勝負師 将棋・囲碁作品集』2018年 家族・親族 [ ] 曾祖父・坂口得太郎 3年(1803年)生 — 10年(1839年)没 曾祖母・ミタ 9年(1812年)生 — 1875年(明治8年)没 祖父・坂口得七(村長) 10年(1827年)3月11日生 — 1906年(明治39年)10月30日没 坂口得太郎の長男。 新潟県大字(現・新潟市大安寺)の村長を務める。 失敗で、明治以降に没落する。 安吾誕生の10日後にで発病し死去。 坂口家は代々の旧家。 高祖は江戸時代の囲碁棋士の家の末裔という説もある。 新潟での遠祖は坂口治右衛門(のち甚兵衛)。 治右衛門は、元はので、のちにのへ移りの陶工となり、多くの従者を伴ってから大安寺に移住したという。 そして大安寺の地で、「甚兵衛」「津右衛門」の二家に分れ、津右衛門が「友伯」「津右衛門」の二家に分れた。 坂口得七は、「友伯」の四代目にあたる。 祖母・ユウ 5年(1834年)生 — 1897年(明治30年)没 父・(衆議院議員、漢詩人) 6年1月2日生(1859年2月4日) — 1923年(12年)11月2日没 坂口得七の長男。 諏訪山のの塾・絆己楼に学び、数え年の15歳の時に、玉井ハマ(元年3月12日生)と結婚。 東京に上京したが新潟に戻り、新潟米商会所(新潟米穀株式会社取引所)で働く。 ハマとの間に三女を儲ける。 所属のとして県会議長を務める。 新潟米穀株式会社取引所理事長。 社(現・)社長を歴任。 社中のとしての号は、「阪口五峰」「七松山人」。 細胞、後により64歳で死去。 母・アサ 1869年(明治2年)1月21日生 - 1942年(17年)2月16日没 旧姓・吉田アサ。 新潟県大字五泉(現・本町)の弁護士で県会議員・[5年(1834年)2月18日生 - 1901年(明治34年)3月20日没 ]の次女。 吉田家は大の素封家で、高祖はの末裔にあたる。 父・吉田久平はで、坂口仁一郎と政治活動を共にしていた。 坂口仁一郎の先妻・ハマの没後、1891年(明治24年)9月19日に後妻として22歳で仁一郎に嫁ぎ、五男四女を儲ける。 家門を重んじ、一子(腹の子)・キヌを養女にする。 長兄・(ラジオ局社長) 1895年(明治28年)8月3日生 — 1966年(昭和41年)8月13日没 坂口仁一郎とアサの長男。 13人姉弟の6番目。 上に姉5人(養女・キヌを含め)がいる。 安吾とは10歳離れている。 絵が得意で、安吾の勉強部屋や父親の肖像画を描いている。 在学中の1915年(大正4年)にとなり、5年間ほどのや、の伝肇寺で療養生活し、大学を一時休学する。 この時期にを描いたり、を訪ねる。 1922年(大正11年)6月19日に、五泉町の吉田徳()と結婚。 1924年(大正13年)に早稲田大学を卒業後、東京支店に入行。 翌年、横浜鶴見の日英醸造株式会社に転職。 新潟日報社、ラジオ新潟(現・)社長。 父・仁一郎の追悼録漢詩集『五峰遺稿』と『五峰余影』をそれぞれ、1925年(大正14年)10月、1929年(昭和4年)11月に編集刊行している。 五姉・セキ 1893年(明治26年) - 1984年(昭和59年)没 坂口仁一郎とアサの長女。 13人姉弟の5番目。 献吉のすぐ上の姉。 父・仁一郎の妹(叔母)が明治24年に新潟県の村山政策に嫁ぎ、その間に出来た長男・村山真男と明治43年に結婚し、娘・喜久を儲ける。 姪・村山喜久 1918年(大正7年)2月3日生 - 1938年(昭和13年)6月29日没 五姉・セキの娘。 嵐の夜に松之山の自宅の池の前で、20歳で。 安吾は、喜久を愛しんでいた。 六姉・アキ 1897年(明治30年) - 1967年(昭和42年)没 坂口仁一郎とアサの次女。 13人姉弟の7番目。 1919年(大正8年)12月に越後川口の古田島和太郎に嫁ぐ。 次兄・七松(夭折) 1900年(明治33年) - 1907年(明治40年)9月17日没 坂口仁一郎とアサの次男。 13人姉弟の8番目。 7歳で夭折。 三兄・成三(夭折) 1902年(明治35年) - 1904年(明治37年)没 坂口仁一郎とアサの三男。 13人姉弟の9番目。 2歳で夭折。 四兄・上枝(双子) 1903年(明治36年) - 1976年(昭和51年)没 坂口仁一郎とアサの四男。 13人姉弟の10番目。 上枝(ほづえ)と読む。 持ちの炳五(安吾)がをふりあげて、この3つ違いの兄を追い回したことがあった。 1922年(大正11年)に機械工学科に入学。 卒業後、の製作所にエンジニアとして入社。 1932年(昭和7年)に12月に、(現・)の須藤雪子と結婚。 七姉・下枝(双子) 1903年(明治36年) - 1984年(昭和59年)没 坂口仁一郎とアサの三女。 13人姉弟の11番目。 下枝(しづえ)と読む。 上枝とはの兄妹。 1910年(明治43年)12月、6歳で(現・上野)の星名佐藤治(定太郎)の養女になる(1922年に協議離縁)。 下枝は生まれて間もない頃からとともに星名家に同居。 1927年(昭和2年)1月に海東村(現・小川町)出身の和田成章に嫁ぐ。 妹・千鶴 1911年(明治44年)3月27日生 - 1967年(昭和42年)没 坂口仁一郎とアサの四女。 13人兄妹の13人目。 1929年(昭和4年)に母・アサと共に上京し、安吾と献吉夫婦らと同居する。 長姉・シウ(異母姉) 1876年(明治9年) - 1946年(昭和21年)没 坂口仁一郎とハマ(先妻)の長女。 13人姉弟の1番目。 献吉と安吾にとり、腹違いの姉にあたる。 1896年(明治29年)2月に(現・新潟市岡方)の曽我直太郎に嫁ぐ。 炳五(安吾)とは同居せず。 1920年(大正9年)10月に、未遂疑惑が発覚する。 次姉・ユキ(異母姉) 1888年(明治21年) - 1935年(昭和10年)没 坂口仁一郎とハマ(先妻)の次女。 13人姉弟の2番目。 献吉と安吾にとり、腹違いの姉にあたる。 1896年(明治29年)1月に北蒲原郡(現・北区上土地亀)の新保巽に嫁ぐ。 炳五(安吾)とは同居せず。 1920年(大正9年)10月に、姉・シウの姑毒殺未遂疑惑が発覚した際に、を調達した疑いで新津警察署の取り調べを受ける。 三姉・ヌイ(異母姉) 1889年(明治21年) - 1930年(昭和5年)没 坂口仁一郎とハマ(先妻)の三女。 13人姉弟の3番目。 献吉と安吾にとり、腹違いの姉にあたる。 安吾より18歳上。 1908年(明治41年)12月に(現・村上市山辺里)の小田喜一郎に嫁ぐ。 娘・綾子を儲ける。 黒色肉腫のため40歳で死去。 娘・綾子は、1930年(昭和5年)にに入学し、毎週土日にの坂口家に遊びに寄る。 安吾は兄妹の中で、この異母姉・ヌイが、「私の悲しさのたつた一人の理解者だつた」だったと語っている。 四姉・キヌ(養女) 1891年(明治24年) - 1984年(昭和59年)没 坂口仁一郎と・五泉キチとの間の長女。 実母はの芸妓をしていた。 1916年(大正5年)に仁一郎とアサの養女となるが、それ以前から坂口家に同居。 1917年(大正6年)11月に新潟市の・行形行三郎に嫁ぐ。 妻・ 1923年(大正12年)2月7日生 — 1994年(平成6年)11月2日没 旧姓は梶三千代。 父親は梶仙治。 実家はの。 1947年(昭和22年)9月、24歳の時に坂口安吾と結婚生活に入る。 安吾の死後、銀座に文壇バー「クラクラ」を開店。 長男・(写真家) 1953年(昭和28年)8月6日生 - 本町で出生。 8月17日に、「チャック世に現れ また世に現ろともの用の絶ゆることなかるべし 汝一本の綱たらば足らむ 綱なるはまた巨力を要す 父 綱男君」と命名書が書かれた。 1978年(昭和53年)からフリーとして活動。 略年譜 [ ]• (39年) - 西大畑通28番戸(現・579番地)で誕生。 (明治44年) - 5歳。 西堀幼稚園に入園。 (2年) - 7歳。 新潟入学。 (大正7年) - 12歳。 新潟尋常高等小学校卒業。 (大正8年) - 13歳。 県立新潟中学校(現・)入学。 (大正10年) - 15歳。 英語、博物などが不合格となり、落第する。 (大正11年) - 16歳。 再落第の惧れがあり、県立新潟中学校からの(現・)に編入。 父と長兄・献吉と共に東京府大字諏訪(現・西早稲田2丁目)に移住。 (大正12年) - 17歳。 父・が細胞のため自宅で死去(64歳で没)。 兄と池袋などを転々とする。 (大正13年) - 18歳。 第10回全国中等学校陸上競技会(の前身)ので1メートル57センチの記録で優勝。 (大正14年) - 19歳。 私立豊山中学校卒業。 の荏原尋常高等小学校(現・)の分教場(現・代沢小学校)の代用教員となる。 (大正15年) - 20歳。 代用教員を辞し、科第二科入学。 睡眠4時間の生活を1年半続ける。 (3年) - 22歳。 初等科入学。 を学び、、、などを愛読した。 小説家への夢を本格的に固める。 (昭和5年)- 24歳。 東洋大学卒業。 卒業生は16人だった。 アテネ・フランセの中等科から高等科に進む。 荏原郡字元芝(現・)の借家から同郡字安方127番地(現・)に新築した家に、兄・献吉夫婦と母・アサと転居。 アテネ・フランセの友人たちと同人雑誌『言葉』創刊。 (昭和6年)- 25歳。 『言葉』2号に処女作「木枯の酒倉から」発表。 後継誌『青い馬』に「ふるさとに寄する讃歌」、「」、「黒谷村」など発表。 の主宰雑誌『文科』同人となる。 (昭和7年)- 26歳。 酒場ウヰンザアでと知り合い、交際が始まる。 この酒場では、とも知り合っている。 ウヰンザアの女給・坂本睦子と肉体関係を持つ。 (昭和8年)- 27歳。 、矢田津世子らと同人誌『櫻』を創刊。 (昭和9年)- 28歳。 酒場ボヘミアンのマダム・お安と同棲し、堤方町(現・大田区中央)の十二天アパートに移る。 8月に、地方を放浪。 (昭和10年)- 29歳。 処女小説集『黒谷村』出版。 に赴き、弥津村(現・)の奈良原鉱泉で一夏を過す。 お安と別かれ、安方町の家へ戻る。 (昭和11年)- 30歳。 1月から「狼園」を『』に連載するが、3月にの自殺に衝撃を受けて連載を中絶。 6月に矢田津世子に絶交の手紙を送り、長編小説の構想を始め、11月に「吹雪物語」の執筆を開始。 (昭和12年)- 31歳。 京都府京都市伏見区で「吹雪物語」に専念するが、間借り先で碁会所を開き、や飲酒に興じる。 (昭和13年)- 32歳。 帰京しての菊富士ホテルに滞在。 にいる・村山喜久(20歳)が自殺。 『吹雪物語』が刊行されるが、失敗作と見なされる。 失意の中、日本の古典文学や昔話を読み、12月に「閑山」を雑誌『文体』に発表。 (昭和14年)- 33歳 - 「」を『文体』に発表。 の取手病院の離れに住み込み、新たな小説の腹案を練る。 (昭和15年)- 34歳。 に誘われ、橋付近の亀山別荘に移り住み、物を読む。 7-9月に「イノチガケ」を『』に発表。 12月に「風人録」を同人誌『現代文學』に発表。 と親しくなり、『現代文學』同人となる。 (昭和16年)- 35歳。 8月に「」を『現代文學』に発表。 (昭和17年)- 36歳。 2月に母・アサ死去(73歳で没)。 3月に「」を『現代文學』に発表。 (昭和18年)- 37歳。 『辻小説集』に「伝統の無産者」寄稿(『知性』5月号)。 12月にエッセイ集『』をより刊行。 (昭和19年)- 38歳。 1月に「黒田如水」を『現代文學』に、2月に「鉄砲」を『』に発表。 の目的での嘱託社員になる。 (昭和20年)- 39歳。 2月26日にに遭うが、家は焼け残る。 3月にが死去(36歳で没)。 (昭和21年)- 40歳。 4月に「」、6月に「」を『』に発表。 10月に「」を『新生』に発表。 12月に『座談』でと対談。 (昭和22年)- 41歳。 1月、「」を『文藝』に、「戯作者文学論」を『近代文学』に発表。 4月にと新宿の酒場チトセで知り合い、9月に結婚。 6月に「」を『肉体』に発表。 7月から「」を『日本小説』に連載開始。 10月に「」を『愛と美』(『週刊朝日』25周年記念号)に発表。 (昭和23年)- 42歳。 『るまねすく』の同人となる。 『』(「黒田如水」の発展)、『風と光と二十の私と』、『不連続殺人事件』を刊行。 『不連続殺人事件』は翌年第2回受賞。 (昭和24年)- 43歳。 アドルム中毒によりに入院。 8月から『座談』に「復員殺人事件」の連載を始めるが翌年雑誌廃刊のため中絶(翌年3月まで)。 で転地療養するため、伊東市岡区広野に移住。 (昭和25年)- 44歳。 「安吾巷談」を『』に連載し、翌年を受賞。 10月から「」を『』に連載。 (昭和26年)- 45歳。 「安吾新日本地理」のため全国を旅行し、3月から『文藝春秋』に連載。 滞納や不正告訴事件で世間を騒がす。 被害妄想から友人宅や妻の実家を転々とし身を潜める。 (昭和27年)- 46歳。 「安吾史譚」を『オール読物』に連載開始。 の紹介で本町の書上邸の離れに移住。 6月に「」を『新潮』に発表。 (昭和28年)- 47歳。 に取材旅行中、アドルムと酒で酔い暴れて、のに入る。 釈放された8月6日に長男・が誕生。 (昭和29年)- 48歳。 8月から「真書太閤記」を『知性』に連載開始。 10月に初めて家族そろってに帰省する。 「安吾新日本風土記」の構想を得て、12月に九州・宮崎県日向に赴く。 (昭和30年)- 49歳。 「安吾新日本風土記」を『』に連載開始。 、、を取材し、2月15日に桐生市の自宅に戻り、17日の朝、突如のため永眠。 48歳で没した。 ドッグシュガームービーズ 評伝・研究・関連文献 [ ]• 坂口献吉編『五峰余影』社 1929年11月• 『諸国畸人伝』 1957年、 新版2014年 - 父・(阪口五峯)についての評伝• 『晩年の坂口安吾』 1964年1月• 『治右衛門とその末裔』事業社 1966年6月• 『クラクラ日記』 1967年3月、ちくま文庫 1989年10月• 『太宰と安吾』 1968年7月、角川ソフィア文庫 2016年1月• 『坂口安吾』 1968年8月• 檀一雄『小説坂口安吾』 1969年10月• 『カストリ時代』 1970年。 以下は各、安吾の仕事場の写真を収録。 『文士の時代』朝日新聞社(元版の大判) 1986年。 、1988年。 中公文庫(新版) 2014年• 新版『文士と小説のふるさと』ピエ・ブックス 2007年• 『日本の写真家25 林忠彦』 1998年• 『坂口安吾』文藝春秋 1972年9月、文春文庫、1996年• 『坂口安吾論』 1972年12月• 『坂口安吾研究』(I・II)冬樹社 1972年12月-1973年5月• 森安理文・『坂口安吾研究』 1973年6月• 兵藤正之助『坂口安吾』 1976年1月• 日本近代文学会新潟支部会『坂口安吾』 1976年4月• 関井光男『坂口安吾の世界』 1976年4月• 『わが坂口安吾』昭和出版 1976年6月• 『小説 坂口安吾』 1978年9月、 1984年• 『坂口安吾 鑑賞日本現代文学22』 1981年1月• 坂口三千代『安吾追想』冬樹社 1981年2月• ・矢島道弘『坂口安吾研究講座』(I、II) 1984年7月-1985年11月• 『新装版文芸読本 坂口安吾』河出書房新社 1984年• 『蘇る坂口安吾』株式会社企画室 1986年2月• 『新潮日本文学アルバム35 坂口安吾』 1986年6月• 『人間坂口安吾』:人物文庫 1996年• 『坂口安吾と中上健次』 1996年、講談社文芸文庫 2006年• 『安吾と三千代と四十の豚児と』 1999年• 『評伝坂口安吾 魂の事件簿』集英社 2002年• 『坂口安吾論集』(1-3) 2002年、2004年、2007年• 坂口綱男『安吾のいる風景』 2006年。 フォトエッセイ• 『坂口安吾-百歳の異端児』 2006年• 『坂口安吾-戦後を駆け抜けた男』 2006年• 『 太宰治・坂口安吾』 2008年8月号• 『坂口安吾と太平洋戦争』 2009年、PHP文庫 2013年• ・「坂口安吾『堕落論』」『西部邁と佐高信の快著快読』 2012年。 191-227頁• 『戦争と一人の作家 坂口安吾論』河出書房新社 2016年• 編『安吾のことば 「正直に生き抜く」ためのヒント』集英社新書 2016年 派生関連本 [ ]• 『ちゃんどら』 1983年 - 風博士という人物が登場する• 『アイ・ラブ安吾』 1992年/朝日文庫、1995年• 『坂口安吾・人生ギリギリの言葉』PHP研究所 2009年。 対談形式で作品名言集を引き出す。 『血をわたる』 2011年• 『安吾探偵控』 2003年、、創元クライム・クラブ - 昭和12年、Y女との破局の痛手を抱えて、京都の食堂の二階に下宿しながら執筆活動を続ける安吾を探偵役にした。 続編に、『イノチガケ 安吾探偵控』(2005年)、『オモチャ箱 安吾探偵控』(2007年)がある 共に、東京創元社、創元クライム・クラブ。 『弥勒戦争』 1976年 - 焼跡の酒場で自身の経験による恋愛論などを語る安吾が登場する。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 母・アサの兄で、吉田一族の中でもとりわけ顔で眼の青い伯父が炳五ににじり寄り、「お前はな、とんでもなく偉くなるかも知れないがな、とんでもなく悪党になるかも知れんぞ、とんでもない悪党に、な」と言った〈薄気味悪さを呪文のやうに覚えてゐる〉と安吾自身も語っている。 『言葉』の同人は、坂口安吾、、、、、、、、、、、、、、、、山田吉彦()、、らであった。 牧野信一は『風博士』を、「私は、フアウスタスの演説でも傍聴してゐる見たいな面白さを覚えました。 奇体な飄逸味と溢るゝばかりの熱情を持つた化物のやうなではありませんか」と賞讃した。 『文科』の同人は、坂口安吾、、、、、、、、、、らであった。 「小菊荘画譜」は、喜久の父・村山真雄の弟での村山政司と共に作ったもの。 『櫻』の同人は、坂口安吾、、、、、、、、(の妹)、らであった。 『現代文學』の同人は、坂口安吾、、、、、、、、赤木俊()、、、、、、、らであった。 安吾は、「現下の探偵小説界は、洋の東西を問わず、実はアベコベに、や算式がないことを利用して、勝手なデタラメをかき、クダラヌ不合理をデッチあげて、同じ穴のが、馴れ合って、埒もないものをヤンヤと云っているだけなのである」と批判している。 『ろまねすく』の同人は、坂口安吾、、、、、、、らがいた。 は、ヤクザ者に命を狙われ、追われていると思っていた安吾が、自分側の味方の仲間には、相当数の人間がいるんだというハッタリをかますために、100人前もライスカレーを頼んだのではないかと推察している。 柄谷は、「彼の作品では、エッセイが小説的で、小説がエッセイ的である」と述べているため、この場合の「どんな作家にもあるような代表作」は、近代的小説を中心として見る戦後の文学史における小説らしい小説であり、柄谷が言うところの、「近代小説の形態」をなしている小説(エッセイ的でないもの)を含意している。 その意味で、奥野は、「坂口安吾は、ついに十全の自己表現の場を見いだしえなかった、永遠に未完成、未熟な悲劇の小説家といえよう」と述べている。 初出は『坂口安吾全集15』(筑摩書房 1999年)• その少し前にから仁一郎宛に手紙を出していたため、瀬波村大字浜新田字青山519番地(現・浜新田)で死去したという説もある。 出典 [ ]• 改版1989年、2008年、2012年)• 改版1989年、2008年、2012年)• , p. 609に所収• 『明日天気になれ』• 改版1989年、2008年、2012年)• 『諸国畸人伝』(、1957年、、2014年)• 坂口安吾「風と光と二十の私と」( 1947年1月号に掲載)• 「わが師友」(『坂口安吾選集第8巻』月報)(、1957年)。 『評伝坂口安吾 魂の事件簿』(、2002年)• 坂口安吾「山口修三宛ての書簡」(昭和3年4月)• 坂口安吾「世に出るまで」( 1955年4月号に掲載)• 『エリック・サティ』新版はにより改訂刊行(深夜叢書社、1977年、新版1990年)• 「『風博士』」( 1931年7月号に掲載)• 坂口安吾「宛ての書簡」(1936年6月16日付)• 坂口安吾「二十七」(新潮 1947年3月号に掲載)• 坂口安吾「古都」(現代文學 1942年1月号に掲載)• 坂口安吾「かげろふ談義」(文体 1939年1月号に掲載)• 坂口安吾「ぐうたら戦記」(文化展望 1947年1月号に掲載)• 渡辺喜一郎『石川淳傳説』右文書院、2013年 pp. 151-153• 「私の探偵小説」( 1947年6月号に掲載)• 坂口安吾「推理小説論」(新潮 1950年4月号に掲載)• 坂口安吾「探偵小説とは」(明暗 1948年2月号に掲載)• 坂口安吾「推理小説について」( 1947年8月25日、26日号に掲載)• 坂口安吾「わが思想の息吹」(文藝時代 1948年3月号に掲載)• 「坂口氏の思い違い」『朝日新聞』昭和26年9月22日3面• 『小説坂口安吾』(、1969年)• 坂口安吾「砂をかむ」(風報 1955年3月号に掲載)• 再版1978年)• 283-302)• 「FARCE に就て」(青い馬 第5号、1932年3月)• 「作品解説」(, pp. 261-266)• 「坂口安吾 人と作品」(, pp. 255-261)• 391-402)• 「若き日の安吾君」(『路傍の秋』筑摩書房、1958年)• , p. 225に所収• 坂口安吾「私の碁」(囲碁春秋1948年12月号に掲載)• でも参照が可能である。 『坂口安吾全集』(全17冊、筑摩書房、1998-1999)ほか• 参考文献 [ ]• 坂口安吾 『坂口安吾全集08』 、1998年9月。 坂口安吾 『日本探偵小説全集10 坂口安吾集』 、1985年10月。 坂口安吾 『』 、2000年5月。 坂口安吾 『堕落論』 、1996年。 坂口安吾 『・』(改版) 角川文庫、2012年1月。 -初版は1970年3月• 坂口安吾 『』(再版) 角川文庫、1978-。 -初版は1977年10月• 坂口安吾 『・いずこへ 他十六篇』 、2008年11月。 『レイモン・ラディゲと日本の作家たち』 清水、1973年4月。 坂口綱男 『安吾と三千代と四十の豚児と』 、1999年2月。 編 『新潮日本文学アルバム35 坂口安吾』 、1986年6月。 『決定版 三島由紀夫全集29巻 評論4』 新潮社、2003年4月。 三島由紀夫 『決定版 三島由紀夫全集34巻 評論9』 新潮社、2003年9月。 James Dorsey and Doug Slaymaker, with translations by James Dorsey, Literary Mischief: Sakaguchi Ango, Culture, and the War. Lantham, MD: Lexington Books, 2010. 六つの学術論文 Doug Slaymaker, James Dorsey, Ogino Anna, Karatani Kojin, and Robert Steen , 四つの注釈付きの英訳 "A Personal View of Japanese Culture" 「日本文化私観」, 1942 , "Pearls" 「真珠」, 1942 , and "Discourse on Decadence" 「堕落論」parts 1 and 2, 1946. 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - 游邑工房•

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坂口拓が最強にアウト!引退から復帰でTAKに改名?結婚は?

坂口宅

2019年8月28日、2度目の逮捕となった元タレントの 坂口杏里さんは、元交際相手の男性宅に進入して逮捕されますが、2日後には釈放されています。 釈放の際、 家族であるお兄さんや継父である尾崎健夫 おざきたてお さんの姿はありませんでしたね。 坂口杏里さんの兄や父は何をしている?• 坂口杏里さんと兄や父との関係は? について調べてまとめました。 (どうやらお兄さんの情報については、嘘 ガセ だと思われる情報が出回っているようですね。 野沢姓は、坂口良子さんの旧姓であることもわかっており、「坂口」という名字は 芸名として良子さんと杏里さんが使用していただけだということですね。 芸能活動を一切していない兄が「坂口」を名乗って医者をしている可能性はほぼゼロと言えるでしょう。 (坂口姓の女性医師はいらっしゃいましたが) なお、慶應義塾大学の 医学部卒業という情報も、根拠となる情報は見つけられませんでした。 (個人ブログ等の伝聞情報のみでした) 「 ガセネタではない」としている方もいますが、その方はいずれも上記画像を根拠としているようです。 坂口良子さんの追悼 テレビ中継されました の際に「坂口直彦」さんという方が映っています。 その隣?か近くには坂口杏里さんの姿があることから兄だと断定されていますが、 坂口杏里同様、本名である『野沢姓』は明かせないため、「坂口直彦」という芸名を一度使用しただけと考えるのがスムーズです。 この画像が、ネットの噂でしかない「坂口杏里の兄は坂口直彦で、慶應大卒の医者」という情報の 証拠になるかは微妙ですよね。 「兄は医者である」という推測のもと、誰かが思いついてポロッとこぼしたストーリーであると思われます。 以上が 坂口杏里さんの兄についての噂について徹底調査した結果です。 「兄は医者」という証拠はありませんでした。 かつてのNEWSポストセブンによるインタビューでは「親に頼ってばかりもいられない」と話しており、言葉を聞く限り、 お兄さんはきちんと自立して自分の人生を歩んでいると思われます。 自立しているからこそ、騒動を起こす杏里さんとは距離をおいたり、たくさんくるであろう取材依頼も断って 口を閉ざしているのかもしれませんね。 が、現在どのように生活しているかの情報はほとんどありません。 過去のネットニュースの情報をまとめてみると、 坂口杏里さんと兄や父との関係は? 坂口杏里さんと、兄や父との関係ですが、 絶縁状態に近いと考えられます。 それぞれの過去の発言をまとめてみました。 坂口杏里の兄は「連絡をとっていない」 みなさん「しっかりした職業に就いているっぽいお兄さんが、実の家族なのに杏里を助けないのは何故?」と思いませんか? 実はお兄さんは 「 大人だから自己責任」だと考えているのです。 坂口杏里さんの兄は、一般人であるためインタビューなどにもほとんど答えていませんが、 2017年に坂口杏里さんが逮捕された際に 1度だけインタビューに答えています。 僕もそうだけど、杏里も父とは連絡を取っていないようです。 しかもそのインタビューでは、 僕ら兄妹は30歳前の大人ですから、親に頼ってばかりもいられない。 やってしまったことは仕方がない。 杏里はこの恐喝から何かを学んで人生に活かしてほしいです。 と語っていたので、 その後、兄 が杏里さんのために連絡をしたり、何か支援をしたりした可能性は低いと思います。 他人からみると、誰かが杏里さんをメンタル面でも支えてあげないと更生は難しいのでは…?と思うのですが、兄がそれになり得ることはなさそうです。 坂口杏里の父は「お父さまといわれても…」 一方、坂口杏里さんの継父である 尾崎健夫さんですが、尾崎さんが杏里さんとの関係について語ったのは、 2016年のインタビューが最後のようです。 2016年10月、坂口杏里さんがAV女優としてデビューする件について、記者に直撃インタビューされた際に、 「えっ……。 ちょっとびっくりですが、坂口杏里さんの「お父さん」という自覚はないようです。 あくまでも、「 坂口良子の夫。 杏里は、自分の子供ではなく妻の子供」という認識なのでしょう。 戸籍上もそうであるため 尾崎健夫さんと坂口杏里さんの戸籍は別 その認識であっても間違ってはいません。 そのインタビューでは、 「 相談は なかったですね。 良子さんの 三回忌に会ったきりで、 最近は連絡を取ってないんです。 本当に、何と言っていいのやら……。 コメントはないですね。 本当にビデオはもう出ちゃうの? 「えっ!? でも、 もう大人だからねえ。 連絡は取ってなかったけど、芸能界で頑張ってやってるものと思っていたんだけど……」 と、坂口杏里さんのAV女優デビューを気にするものの、 連絡は一切とっていなかった様子が伺えます。 尾崎健夫と兄からの支援は得られないのか 2019年時点での尾崎健夫さんや兄の情報がほとんど無いため、 坂口杏里さんが尾崎健夫さんや兄とどのような関係性になっているのかは わかりませんでした。 しかし、2016~2017年の情報と、 2019年8月30日の釈放時の状況を組み合わせて考えると、 現在も疎遠な状況にあると思われます。 しかも、2017年に比べると2年という月日が経ってしまっているため、さらに関係は薄れていっているかもしれません。 ネット上では、坂口杏里さんの更生について、• 坂口良子さんがいないと立ち直れないだろう• カウンセラーや精神科医師をつけてあげてほしい• 兄や継父の協力が必要 という意見が飛び交っていますが、兄や父と疎遠であるという現状を考えると、 カウンセラーや医師によるメンタルケアや支援が最も現実的かもしれません。 どちらにしても、 2017年にたった3万円を騙し取ろうとし、2019年にはタクシー代を返してもらうために男性宅に侵入するという荒れ様を考えると、誰かが サポートし、正しい道を示してあげるor一緒に考えてくれる必要があるのではないかなと思います。 坂口杏里やその兄・父に対する意見 坂口杏里さんの2度目の逮捕や、杏里さんの兄・父への意見をまとめてみました。 坂口杏里、まさに転落といった生き方だな。 フジテレビのザ・ドキュメンタリーで特集されていた時に、何となく素の性格が垣間見えてしまって、これでは…という印象を受けたけど。 28歳という年齢を、「まだ」とするか「もう」とするかは、これからの本人次第だが、立ち直るかねえ。 — 槇村 makimura1958 変に坂口杏里が気になる。 でも風俗も辞めず、ホストにも通い続けていた。 結果ホスト絡みで2度目の逮捕。 芸能界をなめすぎ。 釈放されたら病院でゆっくり休んで欲しい。 — きたえり z44KyhLsJVTUVtl 「ワケあって・・・坂口杏里」。 これだから親が有名人だと、と言われるけど坂口杏里の兄は堅実な生活をしてるし、義父の尾崎建夫も実の親のように厳しく優しく接してた。 母親が早くに亡くなったからといって決して不幸ではなかったはず。 — 藤丸@10年ぶりツイッター再開 bitteru69 坂口杏里ちゃんのニュース見る度に思う事があるんだけど、あんりちゃんの義理父親はどうしたんだろう、と思う。 もう全然関わってないのかな、見えない所でかかりあってるのかな。 表面だけ見たら、あんりちゃんのママが亡くなってから関わりが見えなくなってて、やっぱり義理父の愛情表現って — s〔Lv35〕 sunalee5 坂口杏里さんの 転落ぶりについては、多くの人が驚き、坂口良子さんのファンの方は残念がっているようでした。 同時に、 兄と比べたり、継父の責任を問う声もありました。 個人的には、 まず杏里さん自身が継父である尾崎健夫さんを受け入れたり、「変わりたい」という気持ちを強く持つ必要があると思いますが、そのような気持ちを持つためにも、杏里さんを 「絶対に裏切らない」という姿勢でサポートしてくれる人がいると良いなと思いました。

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【画像】千葉良祐は坂口杏里の最新彼氏?妹は元NMBの古賀成美でかわいい!

坂口宅

各業界の混乱の声をレポートする。 家電メーカーは外出自粛が響いたのか、3月の国内出荷額は2189億円と、前年同月比10. 4%減。 だが、なかには売り上げが大きく伸びた製品もある。 「調理にまつわる商品は非常によく出ています。 ホームベーカリーは3月以降で前年の約2倍。 お菓子作りで泡立てやみじん切りなどに使うハンドブレンダー、焼き魚や燻製作りに使えるロースターも好調です」(パナソニック広報) ステイホームで、自ら台所に立って料理を楽しむ人が増えたことが理由と考えられる。 また、テレワーク関連の機器も続々ヒット商品となった。 「ヘッドセットやウェブカメラ、自宅用のノートパソコンや作業効率を上げるためのキーボード、テンキー、液晶ディスプレイなどの周辺機器も売れている」(ビックカメラ広報・IR部) 営業を自粛していた百貨店など、実店舗での売り上げが落ち込む中、好調なのがネット通販。 「業界全体として前年比20%くらいに伸びている」(ECビジネスコンサルタントの竹内謙礼氏)というが、売れ行きは商品によってバラツキがあるそうだ。 「新生活にどうしても必要となるベッドやソファなどの家具は好調だった。 一方で衣料品は、外に出ないから服を買う気分になれないということで、売り上げが大きく低下しています。 そのひとつが酒類メーカーだろう。 どちらの影響が大きかったのか。 「ビールは売り上げの約半分を占めていた業務用需要激減の影響のほうが大きく、3月は大手4社で前年同月比27%減、4月は52%減。 巣籠もり消費の拡大で発泡酒はプラス1%、新ジャンルはプラス7%(ともに4月)と伸びたものの、ビール類合計では3月が13%減。

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