羅生門 老婆 の 論理。 解説付きでよくわかる、羅生門のあらすじ

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羅生門 老婆 の 論理

全ての運命は、その人の性格に宿る とは 芥川龍之介の言葉ですが、それを彼は小説で見事に描き切っています。 天災や解雇など、同情できる部分はもちろんあります。 平和な、安定した状況ならばどうとでも言えるという批判もあるでしょう。 けれど、 この下人は盗人になるより仕方がないと言いながら、その勇気が持てないでいた。 本文より と書いてあります。 犯罪者にも、それぞれの言い分があるでしょう。 そんなつもりはなかった。 けれども止められなかったと、周囲の理解を求めることが殆どです。 人は、悪行を覚悟の許で出来る人間はとても少ないです。 非難されることを解っていて、何らかの目的の為に行動を起こす場合と比較して、人は -老婆に対する豹変- 下人は太刀で老婆を脅します。 「何をしていたのだ」と問い詰めながら、そのぶるぶる震える一人の人間の姿を見て、正義の心に突き動かされていたはずの下人の心に、 看過できない気持ちの変化が見られます。 これを見ると、下人は初めて明白に、この老婆の生死が、全然、 自分の意志に支配されているという事を意識した。 そうして、この意識は、 今まで険しく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。 あとに残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就したときの、安らかな得意と満足があるばかりである。 そこで、下人は、老婆を、見下ろしながら、 少し声を和らげてこう言った。 本文 人の命を握っているという、優越感。 老婆一人に対してのみですが、生殺与奪権を握っているという、絶対権力に酔う様が、克明に描かれています。 恐怖に慄いていた姿も、門の下で盗人になる勇気が持てずに堂々巡りをしていた下人の姿も、ここにはありません。 暴力で相手の全てを支配し、悦に入る。 同じ人間でもここまで変わるかというほどの、豹変です。 悪を憎む心から動いたとしても、この瞬間。 下人の顔は醜く歪んでいたでしょう。 悪を正すことが目的なのではなく、自分の好奇心を満足させ、相手よりも自分が上であるという優越感の心地よさに酔っている姿は、醜悪そのものです。 この相手を意のままに操れるという感覚。 自分が上だと意識した瞬間、人間は全てを自分の思い通りに動かそうとします。 歴史上、権力を握った後の実力者が暴君になってしまうのも、原因はこれです。 自分が行う事は全てが正しいと思ってしまった瞬間。 相手のことを思いやる気持ちが薄れ、そして強烈な自己正当化が始まるのです。 自分が成敗するのに相応しい悪行であるのならば、悪を切り捨てた自分の価値も上がるだろうに、こんな平凡な理由でこの老婆を切って捨てても、意味など何一つない。 そんな 虚栄心にも近い下人の本音が、この言葉の裏に隠れています。 そして、老婆への侮蔑がわき上がってくる。 自分勝手にもほどがある考えですが、下人は気付きません。 気付けません。 老婆は続けます。 皆が皆、生き延びるために仕方なく罪を犯している。 だから、わしのしていたことも、悪いこととは思わぬ。 飢え死にしない為には、仕方がないのだと。 老婆も、下人と同じ論理で動いている。 仕方がない。 どうしようもない。 だからやっているだけで、悪いことをしているわけではないと。 その言い訳を聞きながら、下人はむしろ冷めていきます。 冷静になっていき、けれど その冷静さが、下人にある「勇気」を与えてしまう。 「きっと、そうか。 」 本文 下人は一言、こうつぶやきます。 そして、老婆から引剥ぎをする。 盗みを働くのです。 「仕方がないから」俺が罪を犯しても、許されるだろうという、責任転嫁と自己弁護が一瞬でなされてしまったのです。 つまり、下人は私たちでもあるわけです。 人は、誰でも簡単に犯罪者になってしまう。 その可能性を常に含んでいる。 【まとめ】 -「仕方がない」という究極の自己正当化- 老婆も下人も、「仕方がない」と悪行をします。 けれど、どんな状況であったとしても、それを自分の責任で行うと自覚しているかどうか。 選ぶ、という行為を私たちは繰り返しているはずなのに、「これしかなかった」と言い出した時、責任を放棄する「自己正当化」が始まります。 -犯罪を犯す人間とは- 自分が正しいと、思い込んでしまったとき。 正義を行っていると感じているとき。 それが、一番犯罪者に近い状態であり、何かのきっかけで超えてはならない一線を人は簡単に超えてしまう。 そして、そのあと。 「仕方がなかった」 と自己正当化を繰り返すのです。 人は、そんな弱い存在であるという不都合な真実を含め、全体的にまとめていきます。 ここまで読んで頂いてありがとうございました。 続きはこちら.

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老婆に説得されない

羅生門 老婆 の 論理

故事的主要情節改編自日本的《》,敘述一個和在遠行途中被攔截並捆綁,其妻被強盜強姦,之後武士又不明原因地死去的故事;發生的場景和部分情節則來自的《》。 電影通過多人對此事件的不同描述表達了「人言不可盡信」的意涵。 劇中強盜、武士妻子、武士分別由、、扮演,且獲得1951年、義大利電影評論獎、奧斯卡榮譽獎(相當於今日的)等眾多獎項。 這是一部在史上具有里程碑意義的作品,也被眾人認為是歷史上最偉大的電影之一。 劇情 [ ] 因為一場滂沱大雨,一名奔進了破落的城門「」內避雨,而在門內,早已有一個和一個也在門內等待天晴。 然而,因樵夫的一句自言自語「不懂、真是不懂」勾起乞丐的好奇心,經再三追問樵夫說出了一件耐人尋味、撲朔迷離的奇案: 原來樵夫與和尚剛為三天前一件武士被殺案在衙門作供。 三天前樵夫進山林中砍柴,在草叢間見到一頂武士帽,旁邊發現有一具,嚇得他趕緊去報官。 和尚因在武士死亡當日,見過武士與他的妻子在山下走過,也被找去作證。 不久,差役在城外河灘發現一名墜馬受傷的人,原來該人是官衙通緝多時的強盜,和尚證明強盜的馬匹及弓箭是武士所有,故官衙認定強盜殺死了武士並盜取他的物品,後來官衙更尋找到武士妻子,結果眾人一同進行審訊。 在公堂上,強盜承認因見武士妻子美貌而起了賊心,故向武士訛稱深山內發現了大量武器及財寶,引誘武士到深山中並將他制伏綑綁,再在武士面前強暴了他的妻子。 強盜說他強暴完武士妻子後,武士妻子指強盜只是乘人之危,有本事理應在決鬥中打敗她的丈夫,堂堂正正贏取她,結果強盜將武士鬆綁,再與武士決鬥了廿三回後,殺死了武士,但武士妻卻趁機逃走了;強盜以此誇耀自己武藝高強。 武士妻子的供詞前部份大致與強盜相同,但當她說到受到強盜污辱後,強盜很快已離開現場。 她撲到身上哭訴,而武士卻鄙視地看著她,毫無憐惜之意。 因此她悲傷地昏了過去,手中所持的短刀因而誤刺武士。 這時公堂上讓女將武士的靈魂招來審問,武士卻說強盜污辱其妻後,妻子竟主動要求跟強盜一起,並唆使強盜殺害武士,她和強盜才無後顧之憂。 強盜亦覺武士妻子太狠心,把她踏在地上,問武士究竟殺死這個狠心人還是放過她,武士表示不欲傷害妻子,要求強盜放過她,此時武士妻子趁機逃走,強盜亦追趕,剩下武士一人在山林中。 武士感到十分絕望,便拿起妻子留下的短刀。 最後,樵夫表示其實他是在山林中看到整件事的過程,卻害怕惹上麻煩而不敢在官府說出真相。 樵夫表示,當時他躲在山林一角,看到武士妻子被玷污後,本來強盜想與武士決鬥,勝方可帶走女人,但武士卻指發生妻子在丈夫面前與其他男人交合這種羞事,為人妻者理應自殺,自己不想為此失貞的女人賭上性命,原先想將武士的妻子佔為己有的強盜見此狀亦覺索然無味,不想帶走武士妻子。 武士妻子見兩人皆不願為了自己而戰,感到沒面子進而挑撥離間,指責武士及強盜都是懦夫,武士與強盜為了面子勉強作出「決鬥」,原來兩人的刀法都非常不濟,最後強盜在胡亂的打鬥中僥倖殺死武士,而武士妻子趁機逃去。 乞丐、樵夫和和尚三人正談至尾聲時,忽然聽到城門內傳出嬰兒哭聲。 乞丐首先找到被遺棄的嬰兒,立即剝去棄嬰的外衣打算變賣,卻被樵夫阻止。 乞丐便說人們都是很自私的,包括樵夫也是為了自己的利益而活。 乞丐質疑案件中鑲滿珠寶的短刀不知去向,猜中了是樵夫因為貪婪,在案發後私下偷走了武士妻子的名貴短刀,所以才不敢向官府說出事件的真相。 最終乞丐還是搶走了孩子的衣服,樵夫想去抱孩子,和尚誤以為他還想剝去孩子的貼身衣裳,引起了爭吵。 最後樵夫說:「我已有六個孩子,不在乎養第七個孩子,讓我領養吧!」和尚這才知道自己誤會了他的好意,將孩子交給了他。 原本因人性自私邪惡而萬念俱灰的和尚,終仍相信世界上還是存在值得相信的人。 此時滂沱大雨終於停止,夕陽照著樵夫離去的背影。 角色 [ ] 角色 演員 備註 多襄丸 在京都臭名遠揚的盜賊。 好色,被真砂的美貌和性情吸引,因此襲擊了金澤夫婦。 金澤武弘 旅行的武士,被多襄丸巧言帶到深山裡,後被殺。 真砂 金澤的妻子。 乍一看老實貞淑,但內心性情激烈。 樵夫 金澤遺體的第一發現者。 行腳僧 案發前曾遇見金澤。 下人 避雨時與樵夫交談。 巫女 本間文子 差役 在河灘外捉住倒在地上的多襄丸 拍攝製作人員 [ ]• 導演:• 原作:• 腳本:黑澤明、橋本忍• 攝影:宮川一夫• 錄音:大谷巖• 美術:松山崇• 燈光:岡本健一• 音樂:早坂文雄 影片藝術特色 [ ] 影片《羅生門》是一部,描述的是當時社會人們的自私以及人與人之間的互不信任的一種極不和諧的人際關係。 整個故事都以黑灰色調為基礎,表現出一種嚴肅、神秘而又淒涼的氛圍。 《羅生門》中多採用平衡構圖法,人物多出現在畫面中央。 人物單獨出現時,特別是他們在糾察署提供證詞時,不管是樵夫、雲遊和尚、衙役、強盜、武士妻子都出現在畫面的中心。 即使是衙役和強盜同時出現時也是一左一右構成畫面主體,是一種。 其次也採用了,在糾察署和女巫做法時,樵夫和雲遊和尚總是端坐在後面,是畫面的次要主體,構成畫面的背景。 也有、構圖和等等。 參見 [ ]• 外部連結 [ ]• 《 ( 英語 : )》(1949年)• 《 ( 英語 : )》(1950年)• 《》(1951年)• 《》(1952年)• 《 ( 英語 : )》(1954年)• 《 ( 英語 : )》(1955年)• 《 ( 英語 : )》(1957年)• 《 ( 英語 : )》(1958年)• 《 ( 法語 : )》(1960年)• 《》(1961年)• 《 ( 義大利語 : )》(1963年)• 《 ( 義大利語 : )》(1964年)• 《 ( 義大利語 : )》(1965年)• 《 ( 義大利語 : )》(1966年)• 《 ( 法語 : )》(1967年)• 《 ( 德語 : )》(1968年) 1980—2000• 《 ( 德語 : )》(1981年)• 《》(1982年)• 《》(1983年)• 《 ( 波蘭語 : )》(1984年)• 《 ( 法語 : )》(1985年)• 《》(1986年)• 《 ( 法語 : )》(1987年)• 《 ( 義大利語 : )》(1988年)• 《》(1989年)• 《 ( 英語 : )》(1990年)• 《》(1991年)• 《》(1992年)• 《 ( 英語 : )》(1995年)• 《》(1996年)• 《》(1997年)• 《 ( 義大利語 : )》(1998年)• 《》(1999年)• 《》(2000年) 2001—2020• 1932• 1934• 1935• ( 英語 : ) 1943• 《》 1955• 1956• 1958• ( 英語 : ) 1964• 1965• ( 英語 : ) 1967• 1969• 1971• 1975 1976—2000• ( 英語 : ) 1977• 1980• 1981• 1982• ( 英語 : ) 1983• ( 英語 : ) 1986• 1989• 1991• 1992• 1993• 1994• ( 英語 : ) 1996• 1997• 1998• 1999• 2002• 2003• 2004• 2005• 2006• ( 英語 : ) 2007•

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芥川龍之介『羅生門』を徹底解説!|下人はどこへ行ったのか?

羅生門 老婆 の 論理

そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷ややかな侮蔑と一緒に、心に中へ入ってきた。 すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。 老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんなことを言った。 老婆には刃が突きつけられている。 その刃の持ち主が自分に対して憎悪と侮蔑を抱いたらしい……それを感じ取った老婆が「このままでは殺される」という恐怖を覚えたであろうことは想像に難くない。 つまり、この後語られる「老婆の論理」…「悪いことをした者には悪いことをしても許される」「自分が生きるために仕方なくする悪は許される」…は、殺されたくないがために苦し紛れに口にした論理に過ぎない。 その理論に基づいて女の髪の毛を抜くことを決めたわけではない。 しかし、そんな苦し紛れの理論でありながら、特に破綻したものではないし、素直に我々読者の胸に入ってくる。 それは、老婆が明確に言語化することはなくても日頃から感じていたことだからであり、我々にとってもそうであるからだ。 はっきり意識することはなくとも、そういうものだ(あるいは、そういう考えもあるだろう)、と思って我々は生きているのだ。 では、なぜ我々は「老婆の論理」を「そういうものだ」と思っているのか。 生まれつき備わっている本能的な考え方なのか。 教育によってすり込まれたのか。 生きているうちに自然に身につけたのか。 それとも……。 今年度の授業ではそんなことを考えさせてみた。 (感想は書いた生徒自身に著作権があると思われるので隠しました。

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