チェチェン 戦争。 チェチェンの歴史

カフカスの主要なモスク、「チェチェンの心」についての7つの事実(写真特集)

チェチェン 戦争

ロシアにおいて、その大きさと収容人数で右に出るのは、モスクワ中央モスクと、チェチェンに隣接するダゲスタン共和国にあるマハチカラ・ジュマ・モスクだけである。 そして「チェチェンの心」は世界で最大のイスラム教の礼拝堂の一つである。 面積5,000平米の礼拝堂では、1万人以上の信者が祈ることができる。 そして隣接する広場と夏用の礼拝所にも同じ数の信者が集まることができる。 モスクには高さ63メートルの4つのミナレット(光塔)があり、中央の大きなドームは高さ32メートル、直径16メートルという大きさである。 記録的なスピードで建設された。 Salman CC BY-SA 3. 「チェチェンの心」の照明は3段階となっている。 その3つとは、信者の安全のための「全体的」な照明、建物の個別の部分をポイントで照らすアクセント的な照明、それにドームとミナレットの高さを強調する特殊な照明である。 とくに大きな特徴となっているのが豪奢なシャンデリア。 その数は36個で、エルサレムの岩のドームやサウジアラビアのマディーナにある預言者のモスクなど、世界の主要なモスクへのオマージュとしてデザインされた。 もっとも大きな中央のシャンデリアは、イスラム教の最高の聖地とされるメッカのカアバ神殿をイメージしている。 シャンデリアのユニークなオーナメントには2. 5キロの金が使われ、スワロフスキのクリスタルで飾られている。 「果てしない」ミフラーブがある。

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第二次チェチェン紛争

チェチェン 戦争

コーカサス(カフカース)地方は山がちで歴史的に多様な民族が入り込み、山の向こうとこっち側で民族が違うという混在した状況であった。 これがロシア帝国に征服され、さらにソ連に移行すると、民族浄化まがいの虐殺や強制移住、さらにロシア人の殖入などが行なわれ、さらに多様な民族が混在するようになった。 こうした状況下でソ連が崩壊した。 南コーカサスはソ連においてはソ連加盟の共和国がおかれていたため、ソ連崩壊後に独立国家共同体に移行すると同時に、グルジア・アゼルバイジャン・アルメニアが正式に独立した。 北コーカサス(現・南部連邦管区)ではロシア人が多数派になり、またほとんど共和国がおかれていなかったのでロシア残留を望む声が多くその通りとなった。 問題だったのが中部コーカサス(現・北カフカース連邦管区)で、この地域にはソ連ではなく、ロシア内共和国がいくつも設置されていた。 ソ連から問題なく独立できるのはソ連加盟共和国だけであり、ロシアは崩壊していないのでこれらは法的には独立できなかった。 さらにソ連時代の強制移住とロシア人殖入、それ以前からの民族混在により、中部コーカサス内でも足並みは揃わなかった。 この状況下で、チェチェンでは独立運動から過激闘争、そして独立戦争へと進んでいった。 ソ連崩壊の影響により、ロシア軍は大幅に弱体化指定折り大苦戦し、第一次チェチェン紛争では5年間の停戦とその後の独立交渉の約束という屈辱的内容で停戦した。 しかしその後も断続的に戦闘が続いた。 1999年に強硬派のチェチェン人武装勢力が隣国ダゲスタン共和国へ侵攻、さらにモスクワで大規模テロを行なうなどすると、ほぼ同時に強硬派のプーチンがロシア大統領になる。 プーチンは圧倒的に有利な航空戦力を投入してチェチェン側を圧倒した。 しかしチェチェン側は勢力を減退しながらもゲリラ化して紛争は長期化した。 話せば長くなりますが、きっかけは、モンゴルの征西です。 モンゴルの征西時に、ジュチウルスは、モンゴル系住民をジュチ・ウルスの首都サライ近郊に移住させました。 これがカルムイク人(チベット仏教)になるわけですが、カルムイク人が移住した地には、元々オセット人(正教徒キリスト教)というイラン系住民が住んでいました。 カルムイク人の移住により、オセット人が南に押しやられ、チェチェン人(イスラム教スンニ派)と接することになります。 オセット人は、現在の北オセチア(南オセチアも)の住民になるわけですが、チェチェン人と接したことにより、一部地域でチェチェン人と土地の取り合いが起こります。 オセット人にはジュチ・ウルスが味方し、チェチェン人にはフレグ・ウルスが見方したため、チェチェン人とオセット人の相手に対する反感が強まります。 ジュチ・ウルスは分裂し、フレグ・ウルスはサファヴィー朝に滅ぼされると、チェチェン人は、オスマン・トルコに支援を求め、しだいにチェチェン人を圧倒するようになります。 国土の大半がチェチェン人に奪われたため、多くのオセット人が南のグルジアに逃れます。 この人達が、南オセチア人になります。 南に逃れなかった人達は、当時カフカス近くまで侵攻してきたロシアに支援を求め、ロシア軍がオセット人の地に駐留するようになります。 それが現在の北オセチア共和国の首都ウラジアフカスです。 ロシア軍の駐留により、オセット人とチェチェン人の対立は、ロシア対トルコの露土戦争の一環となってゆきました。 露土戦争では、ロシアが優勢で、チェチェンもロシア軍に制圧されてしまいます。 これによりチェチェンは、ロシアに対してテロ攻撃をしかけ、チェチェン、ロシア双方に対立感上が増長することになります。 ロシアがソ連となり、ソ連が崩壊すると、チェチェン人はロシアからの独立を意図します。 ロシアが独立を認めなかったため、チェチェンは、ロシアに対してテロ攻撃を中心とした独立戦争となります。 この段階では、同じくロシアからの独立を願う、タタルスタン、ダゲスタン、アブハジア、イングーシなどがチェチェンと同盟してロシアと戦い、ロシアの厭戦気分から、チェチェンはロシアから当面独立しないが、大幅な自治を獲得することになり、第一次チェチェン紛争は終結します。 第一次チェチェン独立戦争後、チェチェン国内にはイスラム過激派のワッハーブ派が入り、厳格なイスラム国家の樹立を訴える勢力と、チェチェン文化を守ろうとする勢力の対立が激化します。 チェチェンの内紛は、イスラム原理主義とチェチェン民族主義が統合された、チェチェン至上主義へと統合されることとなり、チェチェン対ロシア、チェチェン対オセット、チェチェン対ダゲスタンなどが加わります。 これは、チェチェン側がロシア人や周辺集数民族に無差別テロをしかけた結果でした。 第一次チェチェン独立戦争の時見方したタタルスタンやダゲスタン、アブハジア、イングーシは、今度は見方せず、第二次チェチェン独立戦争が開始されます。 ロシアは、テロ組織の拠点をひとつひとつ潰してゆくやりかたでチェチェンを制圧したため、チェチェンに大きな被害がでることになりました。

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第一次チェチェン紛争

チェチェン 戦争

もっと見る 閉じる チェチェン共和国には99年3月に陸路で通過以来、19年ぶりのことだ。 前回は第一次チェチェン戦争と第二次チェチェンの狭間、第二次チェチェンが開始する半年前の非常に混沌としていた時だった。 チェチェンと言えば、ロシアから独立を試みた第一次チェチェン戦争、そして第二次チェチェン戦争を経験し、国土が廃墟となった。 またその後もモスクワや北オセチア、ダゲスタンでもテロを引き起こすなど、北コーカサスの治安や政情を大きく揺らがせた。 2014年にチェチェン共和国の首長、カディロフとプーチンによる正常化宣言し、幹線沿いの町はまるで今までとは別の町のように整備された町に変わった。 市民は町で買い物を楽しみ、ショッピングモールでカフェをしていたりする姿をみると、チェチェンで過激派が一掃され、平和が訪れ本当に良かったと感じた。 しかし、こうした「普通の生活」を謳歌しているのはプーチンに忠誠を誓ったカディロフの派閥だけなのかもしれない。 とはいえ、市民の生活が一定してきたことは歓迎すべきことなのだろう。 町を歩いていても戦争によって破壊された痕跡は全く残っておらず、治安も良好だ。 ダゲスタンからチェチェンまで私を車で送ってくれたサーシャは「このチェチェンを見て、市内の何処にテロリストがいて、テロが発生して、危険だと思う? 見ての通り平和だ。 」と私に話していた。 一方でまるで戦争がなかったかのように復興した町をみると、改めてロシアの恐さを感じた。 チェチェンの山岳部にはまだ過激派がいると言われていたので旅行も制限され、観光名所のある山岳部にはFSB 旧KGB に登録しなければ旅行ができなかった。 今回訪れてみると、グロズヌイで滞在したHotel Nocho Starホテルでは山岳部への観光もアレンジしてもらえ、1万円程度で丸一日山岳部も旅できることがわかった。 まさか山岳部が開放されているとは思わなかったので、ホテルにも山岳部へのアレンジを問い合わせていなかったことに非常に悔いが残った。 解っていれば最低2泊はしていただろう。 私がチェチェンに訪れる前、様々なロシアのサイトを検索したが、FSBの登録が必要であることが記載されているものもあれば、間もなく登録も不要になり、旅行者にも開放される 2016年時点 ともあった。 いずれにせよ情報が不明瞭だったので首都のグロズヌイには一泊だけにしたが、ホテルには山岳部へのツアーも出しており それも場所にもよるが10000円もせずやすかった! 、外国人旅行者も容易く足を踏み入れやすくなった。 チェチェンでは小さな子供を連れたロシア人家族の旅行者も見かけたので治安はかなり安定しているのだろう。 町を歩いていても危険な要素はなかった。 現在こんなコーカサスの地方都市にバンバンと高層建築が建ち、「コーカサスのドバイ」とも言われているチェチェン共和国のグロズヌイ。 今後どのような変貌を遂げるのか注目したい。 何処で仕入れたのか、乗客から略奪したのかわからないが、 あらゆるものを手に持ち列車内の乗客に売っていたが乗客は誰一人買っておらず、チェチェン人たちに対する冷たい視線は手に取るようにわかった。 同じイスラム教を信仰する乗客すらもチェチェン人に対する視線は厳しいものだった。 今でもその光景は忘れられない。 ただでさえ、ロシアが力を失い機能不全を起こしていた時代なのに、第一次チェチェン戦争でチェチェンが勝利したとはいえ、市民の生活はますます苦しくなっていた事は容易に想像できる。 都市部の市民は普通の生活を望んでいたのではないのか?と思えてならない。 worldspanさま、素晴らしいお写真、有難うございます。 カザフスタンのガイドさんが、グロズヌイを訪れたらチェチェンの治安は大丈夫だったと言っていたのですが、私は半信半疑でした。 でも本当に平和になったんですね。 チェチェン人には、スターリンによる強制移住の歴史がありますが、ソ連時代には何の問題もなかったと、元ナリチクで教師をしていた方がおっしゃってました。 そして「ドダーエフの奥さんはロシア人だよ」とも。 ドダーエフ将軍はロシアという敵を作ることで、分裂していたチェチェンの権力を握ろうとしたと言ってました。 一方、タタールスタンのシャイミーエフが、独立をチラつかせて、連邦政府から多くの譲歩を勝ち取ったやり方を、「お見事」と言ってました。 名古屋大学に留学に来ているカザフ人の学生さんは「タタール人は頭のいい(ずる賢い)民族なので、戦争なんて馬鹿なことはしませんよ」と言ってました。 友人のことを、知人のロシア人主婦の人は、カディロフさんを「ポリトコフスカヤさん殺し」とか言ってますが、カザフスタンのガイドさんは、「彼はとても頭いい」と高い評価をしています。 でもチェチェンが平和になって良かったですね。 クロズヌイへ行かれた旅行記を拝見しました。 って、二つの街マハチカラと比べながら見たのですけれど、全然違うって思いました。 未来都市?というか、全然違うっていう気がします。 まず、ショッピングセンターがあるのが驚きました。 うちの相方と撮ってみたいです 笑。 タジキスタンとウズベキスタンで警察官にパスポートチェックされるかヒヤヒヤされた思い出があったのですけれど、気にせずに歩けそうですね。 そのため、戦争から復興した町というイメージを国内外に示す必要もあり、その一方でチェチェン人にも雇用を与え、旧態依然とした反ロシアの濃いイスラム色からの脱却を考えているのだと思います。 北コーカサス諸国は保守的な共和国が多いので、チェチェン諸都市の取って付けたような町並みにただただ驚かされました。 しかし、モールで子供たちの笑い声が聞こえてくるのを聞いたり、家族連れでフードコートで食事を楽しんでいるのを見ると、それでも平和になって良かったと思います。 いつも大変興味深い旅行記を拝見させて頂いております。 もうだいぶ前なので、どのようにworldspanさんの旅行記に遭遇したかも記憶は定かではないですが手探り感、そして前人未踏とまでは行かずとも情報の少ない地域にグイグイ行くスタイルはどことなく現代版深夜特急を拝読しているような気にすらなっております。 その中でも特に印象的だったのが20世紀も終わろうとしている頃の混乱から立ち直らぬままのチェチェンで綱渡りな国際列車に乗車されたあのエピソード。 文章を読むことが苦手で写真眺め序でで旅行記を読む私が、食い入るように読んだ事、鮮明に覚えております。 今回の旅行記で訪れた駅舎は当時の車窓とは打って変わって危険な香りが漂わない閑散とした雰囲気に妙な拍子抜けを感じましたが、あの場所にworldspanさんが戻ったのだな、と思うと何とも感慨深いです。 自分の中で最も再訪したかった場所であり、もっとも行きたかった場所はやはりチェチェンでした。 ずっとチャンスをうかがっていたのですが、北コーカサスがかなり安定しているのがロシアの観光サイトで確信を持つことができたので今回訪れてみました。 ただSalaamのおっしゃる通り、情報が非常に少なく、FSBの許可が必要なのかなど不明瞭なことが多かったのも事実です。 宿泊するホテルから情報収集をしておけば、チェチェンで誘拐されていれば連れて行かれてたかもしれない山岳部にも行けてました。 自分がここで命を落としていたのかもしれない、とグロズヌイを歩きながら思いましたが、チェチェン人に当時の雰囲気や面影もなく、本当にここで戦争があったのか不思議な感覚でした。 グロズヌイに驚かされたのはあの再建の力の入れようです。 人口約30万人のグロズヌイだけでなく、人口5万人にも満たないアルグンという街にバンバンビルを建てたり。。 企業を誘致しているならともかく、こんなにビルを建てても空室が多いのではないかとなりません。 ロシアの再開発により、雇用を生み出せれば、一層治安が安定すると思うのですがもし失業率が改善されなければ、その不満は反政府化し治安悪化につながりそうでとても懸念しています。 今回の旅では隣国のイングーシの山岳部にも行くことができす、チェチェンとイングーシに忘れ物をしてしまいました。 もう一度時間を開けて再再訪しようと思います。 worldspan.

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