今日好き滝本光。 #12 蜘蛛は企みます

第6話 銀河鉄道の夜(滝本視点)

今日好き滝本光

こんにちは。 ホームデコアの滝本です。 ゴールデンウイークいかがお過ごしでしょうか。 我が家は… 夫は仕事、わたしは自宅で洗濯しながら仕事を片付けています^^。 今日は生地のブランド紹介。 「KURAGE」と書いて、クラゲではなくて「クラージュ」です。 北欧デンマークのブランド。 特徴はなんと言っても、ハンドプリント(手捺染)による制作です。 ハンドプリントって、なんでしょう?と思いますよね。 シルクスクリーンという版画の技法を使っているのですが、 「プリントゴッコ」の大型バージョンだと思っていただければOKです。 1色1版が基本なので、 このように色数の多いデザインは、 版の数とプリントの回数がその分多くなるので、手間がかかります。 デザイナーは、自然や暮らしの中からインスピレーションを得て デザインをしているとのこと。 びっくりして写真を撮りそびれてしまったのですが、 「おばあちゃんの下着のイメージ」という絵柄もありました。 繊細なレースのような、花のような模様でした。 薄地のシェード、生地を薄く抜くオパール加工も、 他の生地と同様に手捺染で薬剤を載せているそうです。 どれもシンプルなベースの生地に、シンプルな絵柄のデザインですが、 手捺染ならではの贅沢さを感じました。 カテゴリー: ,• こんにちは。 ホームデコアの滝本です。 数日前の夕方、茨城県内でお仕事して帰りに駅に向かっていたところ、 きれいな光の現象を見ました。 太陽を隠す雲に丸い穴が開いていて、 そこから光が真下にさしていて、 まるで光の傘のようでした。 携帯電話で撮影したので鮮明には撮れなかったのですが、 住宅の屋根よりも遠いところに、 傘のように光が広がっているのが…伝わるでしょうか? 駅に着いた頃には、もう見られなくなっていたので、 ほんの一瞬のことでした。 空を見上げると、不思議だなあ、きれいだなあ、ということが 沢山ありますね。 来月21日の金環食も、楽しみにしています。 カテゴリー:• こんにちは。 ホームデコアの滝本です。 ひたちなか市の新築住宅 その3です。 その1、その2を読んでいない方は、 そちらを先に読んでくださるとありがたいです。 今日は、細かな工夫の部分をお話します。 まず、キッチンカウンター上の窓につけたブラインド。 このブラインドは1台ですが、 左右別々に上げ下げやハネの角度調整が出来ます。 お客様とのお打合せの際に、 室内に自然の風を入れるのがお好きだということが印象的でした。 水周り、火のそばには布地のカーテンよりはブラインドが向いています。 しかしブラインドは、下げたままで窓を開けると 窓に当たったりしてバタバタ音がします。 窓を開けるとき、左右別々にブラインドを上げることが出来れば、 窓を開けるほうのブラインドだけを調整すればいいので、 夜など、外にシルエットが出てしまうのではないかと気になるときに 安心です。 また、バタバタするのも半分だけになるので、 音も少し小さくなるのではないかな~?と思います。 続いて、フサカケです。 このフサカケ、とってもスグレモノなのです。 このフサカケにタッセルを通すときは、 縦棒の部分の長さを短くすることができます。 普段は棒の部分が長いので、 フサカケに通したタッセルは手前に引いただけでは抜けません。 風が強い日に窓を開けていて、 タッセルが床に散らばっていたというような経験はありませんか? そのストレスがなくなるスグレモノなのです。 やはり、自然の風を入れるのがお好きというお客様に合わせて 提案しました。 さて、3日に渡ってご紹介したひたちなか市の新築住宅でした。 明日は番外編として、ひたちなか市の寄り道をご紹介します。 カテゴリー: , ,• こんにちは。 ホームデコアの滝本です。 昨日お話した新築住宅の、施工写真をご紹介します。 今日のブログからはじめて読む方は、 昨日のブログから先に読んでくださると助かります! それでは、まず…、 シューズインクローゼットの間仕切りには、こんなカーテンをつけました。 縦方向にランダムな細かいプリーツが入っているボイル生地です。 色は淡いグリーン。 程よく光が透けて、目線はしっかりカットするスグレモノです。 そして、風が入ったときにはさらさらと揺れ、とってもきれいです。 (動画でご紹介できず残念です!) では、リビングルームへ… カーテンが付きました。 …が、逆光でとっても見にくい状態ですね。 このようになっています。 ドレープは、グリーンのタフタ。 レースの柄に合うグリーンを探し、コーディネートしました。 リビングとプレイルームに取り付けたこのカーテンが、 このおうちのカーテンの主役です。 続きまして、 リビングからインナーテラスへと続く窓の前には階段。 そこには 縦型ブラインドをつけました。 階段の左側の扉の向こうに見えるのは、 玄関からインナーテラスへと続くドアです。 そこにはグリーンの縦プリーツカーテンが付いています。 縦ブラインドとは色合いと縦ラインがそろっているので、 インナーテラスから見たときも、印象がちぐはぐになりません。 まだまだあります。 キッチンから続くパントリーには イエローベージュの縦プリーツカーテン。 壁の色とあわせているので一体感があり、 程よく光を通すので軽やかです。 カーテンを半開きにしたこの場所に冷蔵庫が入る予定。 お客様が来るときなど、冷蔵庫を隠すことができます。 他にも、キッチンに付けたブラインドの工夫や、 スグレモノのフサカケなど、 ご紹介したいことがあるのですが、 続きはまた明日。 カテゴリー: ,• 2012年4月 月 火 水 木 金 土 日 1 2 4 5 6 7 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 24 26 28 29 最近の投稿• プロフィール• カテゴリー• アーカイブ• 最近のコメント• に takimoto より• に 多賀 より• に takimoto より• に 社長 より• に takimoto より リンク• FACEBOOK.

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応募総数1800名!『今日好き』公開生オーディション決定、候補者男女16名が公開

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旧校舎の部室に異世界からのゲートが突如開いた。 驚く僕の前に、猫耳の探索者と闇の吸血鬼、そして光の天使が現れる。 彼女たちは世界を救うある使命を担っていた。 少年の運命の出会いと目覚めの物語。 名作『NHKにようこそ!』から17年。 そこから這い出てきたのは、猫耳やしっぽを身につけた美しい女の子だった。 以来ふみひろの前には、美少女という名の天使が次々と現れる。 普通の少年に突然訪れるハーレムな日常。 純文学やライトノベルを読んでも救われない。 青春の蹉跌も存在しない。 だが、確かにこれは滝本竜彦の作品なのだ」(「本の旅人」2018年12月号より) 未だに一体何をどう説明したら良いのかわかりませんが…。 おそらく、この作品を待ち望んでいた方々は、今まで滝本さんの作品に触れていると思います。 そして、彼がエクストリームな暗黒青春を表現してしまった反動で、長きにわたるスランプに悩まされてきたことも、スピリチュアルな瞑想やナンパの実践を経て、心を作り直していたこともご存じでしょう。 であれば、今まで滝本竜彦という作家を悩ませてきた「あれ」を、彼の文章を通じて体験したことがあるはず。 「あれ」ですよ。 鏡に映った自分がいつも立ちはだかっていて、そいつが自分の惨めさや恥を突きつけてくる。 だから部屋のドアから一歩も出ていけない…。 出て行けるのは、どうしようもなく追い詰められたクライシス的精神状態の時だけ…。 そうしてようやく出ていったにしても、目に映るのは悲惨な、どうしようもない無常な現実ばかり…。 素晴らしいと思ったものも、輝いていた時代も何もかもが色あせて、目の前に浮かぶのは人生の砂漠、あるいはグロテスクな地獄…とでもいうような感覚。 その感覚からどうやって再生していったのかという、彼のたどったその軌跡が、小説中の登場人物と奇妙にリンクして、いつしか自分までも「それ」を体験しているような気がします。 かつて滝本竜彦に触れた方にとっては、必読ではないでしょうか。 作風の変化に戸惑う人は多いでしょうが、そんな人にこそ、最後まで読んでもらいたいと思います。 ボクはそれが伝えたくてこの文を書いていますが…伝わるのでしょうか…NHKにようこそのような作品に共感し、今なお心の中に佐藤君やチェーンソー男やムーの少年達を持っている人にこそ、この作品を読んでもらいたい…。 最後まで。 そう思います。 作者である滝本竜彦の作品は初期の三作「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」「NHKにようこそ!」「超人計画」を読んで以来。 特に前二作は15年経っても本棚に並べているぐらいには気に入ったのだけど、その後すっかり疎遠に。 この度久しぶりに新作を出したと聞いて「いったいこれまで何をしていたのだろう?」と過ぎた時間の長さに驚きながら拝読してみる事に。 物語は若干不登校気味というか遅刻の常習者である主人公のふみひろが珍しく顔を出した学校で担任の吉岡から「一国一城の主にならないか?」と旧校舎にある使われていない部屋を「部室」としてあてがわれる所から始まる。 元は写真部の部室だったと思しきその部屋の様子を確かめたふみひろだったが、照明に使っていたスマホのバッテリーも切れた事もあり帰ろうとするものの何故かドアが開かない。 真っ暗な部室の中に閉じ込められていたふみひろだが、その目の前で備品のロッカーから光が漏れ、扉が開くと中から猫耳と尻尾を生やした女性が登場。 ミーニャと名乗るその女性は自らを「エクスプローラー」と名乗り「闇の迷宮」の中を探索してその最奥にいる「闇の魔術師」に大切な伝言を届けようとしていたらしい。 ミーニャからエクスプローラーの祝福を受けたふみひろは「真の自分」に気付くという不思議な叡智を得るが、部屋を出てしまうとこの叡智は失われてしまうらしい。 部屋の外から声を掛けてきた幼馴染のクラスメイト・耶麻川だったが、帰り道で突如三つ編みを解き、黒ぶち眼鏡を投げ捨てて「優等生は今日で終わり」と宣言。 それを証明するかのように冬になった頃、耶麻川が本当に不良になって旧校舎の部室に不良を集め「カジュアルな性行為」に耽っているという信じがたい噂が伝わってくる事に…… ……またえらく作風変わったなあ、と15年という時間の中で滝本竜彦が遂げた変貌に呆然とさせられた。 少なくとも「NHKにようこそ!」とか「超人計画」の頃の作風を期待して読むと「え、何これ」と戸惑うのは間違いないかと。 特にストーリーラインが明確だった「NHK」みたいな作品を期待していると「これはどう楽しんだら良いんだ」となりそうな取っ付きにくさがある。 ストーリーの方を紹介させて貰おうと思っても、明確な筋立てというものがあまり存在していないので紹介の仕方に非常に困る。 序盤でふみひろが出会うミーニャが探索していた「闇の迷宮」に自分もエクスプローラーとして目覚めた幼馴染の耶麻川が旅立つのを見送るまではそれなりに「筋」という物を追えたのだけど、そこから先はふみひろの日常に入れ替わり立ち代わりで奇妙な少女たちが絡んでくる様子が描かれる事になる。 一応話の方は基本的に主人公であるふみひろの語りで進められるのだけど、所々で語り手が作中で登場する複数のヒロインに代わって進められる場面も多い。 何しろ追うべき「筋」らしい「筋」があまり無いので中盤までは「いったい何なんだ、これは」と戸惑いながら読む事になった。 それじゃ全く詰まらん作品だったのかと言うと登場人物がのキャラがやたらと立っているので、前半から中盤にかけては次々と登場する奇妙なヒロインの言動を中心に楽しませて貰う事になった。 特にふみひろの母親のキャラは異様と言うか「よくまあ、こんな訳の分からんキャラを思い付くもんだ」と若干呆れる位に特異。 何しろ事あるごとに息子であるふみひろに「今日こそはママとセックスしましょうね」と性行為を求めてくるのだからぶっ飛んでいる。 基本的に対人恐怖症の気があって、その一方で高校生の頃から性欲を持て余し、究極のオナニーを探し求めていたというこの母親の回想シーンが中心となる第二章は圧巻。 冷凍精子を買い求めてふみひろを処女懐胎するまでの流れは現実と妄想の被膜がどこで破れてしまったのかと目を白黒させながら読む羽目に。 そんな筋を追えんながらも「変なキャラ」を楽しみながら読み進めていくと、中盤あたりからようやく「ああ、これは創作についての話なのか」という事が朧気ながらに見えてくる。 ヒロインたちの言動や現実と妄想の被膜を飛び越えながら描かれる作中の世界の様子から「自分の内面を探索し、自分の奥の方にある『何か』をつかみ取り、形にする」という創作の在り方を描こうとしているのだな、という事が何とはなしに読者に伝わってくる仕様になっている。 序盤から出てくるエクスプローラーやふみひろの母親のオナニー狂いなんかもこういう「創作」に繋がっていたんだな、という事が見えてくるのである(「創作は作家のオナニー」と言ったのは筒井康隆だったか?) この迷宮の様な自分の奥から何かをつかみ取り、持ち帰ろうとする探索者の描かれ方を見て伝わってくるのは「長い事書く苦しみを味わっていたんだなあ」という疎遠になっていた15年間に滝本竜彦が味わった苦労みたいなものだろうか?無論、創作の苦しみは滝本竜彦だけが味わう物では無いのだろうけど、それでも自らの内側からまだ形になっていない「ことば」を小説という形にして産み出すまでに作家が味わうものを独特の形で描ている事は確かである。 なので半分小説であり、半分は滝本竜彦なりの創作論みたいな物なのかなあと思って読んだ方が良いのかも。 そういう意味で純粋に「小説」としての面白さを求める人にとっては「うーん?」となってしまう代物ではあるし万人向けの作品であるかと言えばかなり明確に「NO」と言わざるを得ない。 2010年頃に出した二作には縁がなく、どんな風に過ごしているかまるで掴めなくなっていた滝本竜彦が立て続けに三作出した後、どれだけ「生みの苦しみ」に喘いでいたかを知る手掛かりになる「創作を巡る物語」であった。 すごく面白かった。 ファンタジーノベルで、騎士団長の村上春樹より全然上だった。 村上作品を読むときの解釈や謎解きが不要だからだ。 読めば滝本が書きたかった光が素直に感じられた。 だがそれは滝本竜彦の迷走というわかりやすい物語に熟知していたからでもあるが。 ファンタジーノベルとしては筋が入り組んで、物語としてもあえて放り投げたきらいもあるからわかりずらかったが、滝本竜彦という書き手の迷走を知る読み手には色々返ってわかりやすい。 村上春樹について述べるとカフカなどは普遍的テーマで謎解きもできてわかりやすい。 だが騎士団長は謎解きができずわかりずらい。 この作品について述べると滝本の自らの生き様が謎解きになってわかりやすかった。 やはり謎は謎解きがないとダメだ。 それができてた点で騎士団長の春樹より上だった。 滝本竜彦はその意味で私小説的な作家なのだろう。 この本を読んで訳がわからなかった読者は過去作やネットの履歴を見ればいいだろう。 そういう外部の物語に依存するのがダメだという向きにはもっと私小説的な私小説やトルーキンのような本格ファンタジーを読めばいいだろう。 滝本竜彦に提案なのだが村上春樹のようにジョギングして私生活をできる限り健康にし、そこから溢れる闇と光を書いたらいいんじゃないだろうか。 私小説的に太宰の真似をすると本気で破綻しそうだ。 私は令和の村上春樹を新キャッチコピーにジョギングするといいと思う。 今更太宰ってのもなあ。 光だが届くんだが弱い気がした。 でも読後感は良かった この作品を語るには、まず、作者である滝本竜彦自身について述べなくてはならないだろう。 彼の作品は全般を通して、「自我を形成するシステムそのものを理解する眼差し」をテーマに据えており、その考えの根本には投影と抑圧というフロイト流の無意識の概念とが密接に絡みついている。 この点で重要なのは、著者はある種自らテーマとする無意識にすら、アイロニーに満ちた嘲笑を投げかける点にある。 著者がスピリチュアルに傾倒し、頭がおかしくなった……という理解をしている人も多いだろうが、そうではない。 元々滝本竜彦は、自らのテーマを作品にするために、瞑想など無意識を上手く取り扱う術を身につけることで、自我の問題を克服しようとしたのだ。 それら全ては単に創作論に還元されている。 一般の人の目から見れば無意識の理解というテーマはどうにも理解し難く、事実著者自身も、それに対して嘲笑的に対峙せざるをえなかった。 だからこそ、深くこの問題を取り扱った「ムーの少年」では日常からの遊離を全面に押し出したはいいものの、それはどこかぎこちなく、結局は日常に帰ってきてしまう。 この挫折の経験こそ、著者が長い時間をかけ、ゆっくりと創作=無意識というテーマに向き合うに至った経緯なのだろう。 そしてその目論見は、ある部分では成功している。 では「ライト・ノベル」の感想に移る。 本作を読んだ人の多くが抱くであろう感想は、まず、『意味が分からない』だろう。 これには大きく分けて三つの理由が存在する。 一つ目は物語の展開上の問題だ。 エンタメ小説にあるべき軸というか、目的が存在しない。 これはかなり顕著で、言ってしまえば、どこを重心的に読み進めればいいかの基準が小説内部ではなく、著者のテーマを同じくする別冊「NHK」や「ムーの少年」に依拠している。 なにせ、この物語単独で創作それ自体を物語の軸として読み進めることができるのは物語が半分以上進んでからなのだ。 二つ目は、『これまでの滝本作品と比べて変わりすぎている』からだ。 非日常こそ前提として存在しており、帰ってこない。 これは現実を舞台にしたある種のファンタジー小説と見るべきだろう。 これまでの滝本作品は徹底して現実に帰っていた。 この大きな齟齬が、不理解への足がかりだろう。 さて三つ目は、『結局何の物語だったのか』という消化不良にある。 文中でそれを否定してようやく違うと理解することもできるが、これまで追ってきたファンとしては肩透かしも歪めない。 著者の掲げる光の小説に対して、一読者の私は、私自身ではなく、滝本竜彦本人がこのような作品を書ききったことに多大な称賛を送りたいが、私自身に関しては、未だぼんやりとした高揚感と不安とが入り混じり、困惑している。 「面白かった?」と問われれば、「えぇ」と答えるだろうが、それは恐らく、本単体での評価ではなく、二十年近くかかったこの本の経緯と滝本竜彦という作家の存在ゆえだろう。 あと、ハーブ園を踊るところはとてもよかったです。

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旧校舎の部室に異世界からのゲートが突如開いた。 驚く僕の前に、猫耳の探索者と闇の吸血鬼、そして光の天使が現れる。 彼女たちは世界を救うある使命を担っていた。 少年の運命の出会いと目覚めの物語。 名作『NHKにようこそ!』から17年。 そこから這い出てきたのは、猫耳やしっぽを身につけた美しい女の子だった。 以来ふみひろの前には、美少女という名の天使が次々と現れる。 普通の少年に突然訪れるハーレムな日常。 純文学やライトノベルを読んでも救われない。 青春の蹉跌も存在しない。 だが、確かにこれは滝本竜彦の作品なのだ」(「本の旅人」2018年12月号より) 未だに一体何をどう説明したら良いのかわかりませんが…。 おそらく、この作品を待ち望んでいた方々は、今まで滝本さんの作品に触れていると思います。 そして、彼がエクストリームな暗黒青春を表現してしまった反動で、長きにわたるスランプに悩まされてきたことも、スピリチュアルな瞑想やナンパの実践を経て、心を作り直していたこともご存じでしょう。 であれば、今まで滝本竜彦という作家を悩ませてきた「あれ」を、彼の文章を通じて体験したことがあるはず。 「あれ」ですよ。 鏡に映った自分がいつも立ちはだかっていて、そいつが自分の惨めさや恥を突きつけてくる。 だから部屋のドアから一歩も出ていけない…。 出て行けるのは、どうしようもなく追い詰められたクライシス的精神状態の時だけ…。 そうしてようやく出ていったにしても、目に映るのは悲惨な、どうしようもない無常な現実ばかり…。 素晴らしいと思ったものも、輝いていた時代も何もかもが色あせて、目の前に浮かぶのは人生の砂漠、あるいはグロテスクな地獄…とでもいうような感覚。 その感覚からどうやって再生していったのかという、彼のたどったその軌跡が、小説中の登場人物と奇妙にリンクして、いつしか自分までも「それ」を体験しているような気がします。 かつて滝本竜彦に触れた方にとっては、必読ではないでしょうか。 作風の変化に戸惑う人は多いでしょうが、そんな人にこそ、最後まで読んでもらいたいと思います。 ボクはそれが伝えたくてこの文を書いていますが…伝わるのでしょうか…NHKにようこそのような作品に共感し、今なお心の中に佐藤君やチェーンソー男やムーの少年達を持っている人にこそ、この作品を読んでもらいたい…。 最後まで。 そう思います。 作者である滝本竜彦の作品は初期の三作「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」「NHKにようこそ!」「超人計画」を読んで以来。 特に前二作は15年経っても本棚に並べているぐらいには気に入ったのだけど、その後すっかり疎遠に。 この度久しぶりに新作を出したと聞いて「いったいこれまで何をしていたのだろう?」と過ぎた時間の長さに驚きながら拝読してみる事に。 物語は若干不登校気味というか遅刻の常習者である主人公のふみひろが珍しく顔を出した学校で担任の吉岡から「一国一城の主にならないか?」と旧校舎にある使われていない部屋を「部室」としてあてがわれる所から始まる。 元は写真部の部室だったと思しきその部屋の様子を確かめたふみひろだったが、照明に使っていたスマホのバッテリーも切れた事もあり帰ろうとするものの何故かドアが開かない。 真っ暗な部室の中に閉じ込められていたふみひろだが、その目の前で備品のロッカーから光が漏れ、扉が開くと中から猫耳と尻尾を生やした女性が登場。 ミーニャと名乗るその女性は自らを「エクスプローラー」と名乗り「闇の迷宮」の中を探索してその最奥にいる「闇の魔術師」に大切な伝言を届けようとしていたらしい。 ミーニャからエクスプローラーの祝福を受けたふみひろは「真の自分」に気付くという不思議な叡智を得るが、部屋を出てしまうとこの叡智は失われてしまうらしい。 部屋の外から声を掛けてきた幼馴染のクラスメイト・耶麻川だったが、帰り道で突如三つ編みを解き、黒ぶち眼鏡を投げ捨てて「優等生は今日で終わり」と宣言。 それを証明するかのように冬になった頃、耶麻川が本当に不良になって旧校舎の部室に不良を集め「カジュアルな性行為」に耽っているという信じがたい噂が伝わってくる事に…… ……またえらく作風変わったなあ、と15年という時間の中で滝本竜彦が遂げた変貌に呆然とさせられた。 少なくとも「NHKにようこそ!」とか「超人計画」の頃の作風を期待して読むと「え、何これ」と戸惑うのは間違いないかと。 特にストーリーラインが明確だった「NHK」みたいな作品を期待していると「これはどう楽しんだら良いんだ」となりそうな取っ付きにくさがある。 ストーリーの方を紹介させて貰おうと思っても、明確な筋立てというものがあまり存在していないので紹介の仕方に非常に困る。 序盤でふみひろが出会うミーニャが探索していた「闇の迷宮」に自分もエクスプローラーとして目覚めた幼馴染の耶麻川が旅立つのを見送るまではそれなりに「筋」という物を追えたのだけど、そこから先はふみひろの日常に入れ替わり立ち代わりで奇妙な少女たちが絡んでくる様子が描かれる事になる。 一応話の方は基本的に主人公であるふみひろの語りで進められるのだけど、所々で語り手が作中で登場する複数のヒロインに代わって進められる場面も多い。 何しろ追うべき「筋」らしい「筋」があまり無いので中盤までは「いったい何なんだ、これは」と戸惑いながら読む事になった。 それじゃ全く詰まらん作品だったのかと言うと登場人物がのキャラがやたらと立っているので、前半から中盤にかけては次々と登場する奇妙なヒロインの言動を中心に楽しませて貰う事になった。 特にふみひろの母親のキャラは異様と言うか「よくまあ、こんな訳の分からんキャラを思い付くもんだ」と若干呆れる位に特異。 何しろ事あるごとに息子であるふみひろに「今日こそはママとセックスしましょうね」と性行為を求めてくるのだからぶっ飛んでいる。 基本的に対人恐怖症の気があって、その一方で高校生の頃から性欲を持て余し、究極のオナニーを探し求めていたというこの母親の回想シーンが中心となる第二章は圧巻。 冷凍精子を買い求めてふみひろを処女懐胎するまでの流れは現実と妄想の被膜がどこで破れてしまったのかと目を白黒させながら読む羽目に。 そんな筋を追えんながらも「変なキャラ」を楽しみながら読み進めていくと、中盤あたりからようやく「ああ、これは創作についての話なのか」という事が朧気ながらに見えてくる。 ヒロインたちの言動や現実と妄想の被膜を飛び越えながら描かれる作中の世界の様子から「自分の内面を探索し、自分の奥の方にある『何か』をつかみ取り、形にする」という創作の在り方を描こうとしているのだな、という事が何とはなしに読者に伝わってくる仕様になっている。 序盤から出てくるエクスプローラーやふみひろの母親のオナニー狂いなんかもこういう「創作」に繋がっていたんだな、という事が見えてくるのである(「創作は作家のオナニー」と言ったのは筒井康隆だったか?) この迷宮の様な自分の奥から何かをつかみ取り、持ち帰ろうとする探索者の描かれ方を見て伝わってくるのは「長い事書く苦しみを味わっていたんだなあ」という疎遠になっていた15年間に滝本竜彦が味わった苦労みたいなものだろうか?無論、創作の苦しみは滝本竜彦だけが味わう物では無いのだろうけど、それでも自らの内側からまだ形になっていない「ことば」を小説という形にして産み出すまでに作家が味わうものを独特の形で描ている事は確かである。 なので半分小説であり、半分は滝本竜彦なりの創作論みたいな物なのかなあと思って読んだ方が良いのかも。 そういう意味で純粋に「小説」としての面白さを求める人にとっては「うーん?」となってしまう代物ではあるし万人向けの作品であるかと言えばかなり明確に「NO」と言わざるを得ない。 2010年頃に出した二作には縁がなく、どんな風に過ごしているかまるで掴めなくなっていた滝本竜彦が立て続けに三作出した後、どれだけ「生みの苦しみ」に喘いでいたかを知る手掛かりになる「創作を巡る物語」であった。 すごく面白かった。 ファンタジーノベルで、騎士団長の村上春樹より全然上だった。 村上作品を読むときの解釈や謎解きが不要だからだ。 読めば滝本が書きたかった光が素直に感じられた。 だがそれは滝本竜彦の迷走というわかりやすい物語に熟知していたからでもあるが。 ファンタジーノベルとしては筋が入り組んで、物語としてもあえて放り投げたきらいもあるからわかりずらかったが、滝本竜彦という書き手の迷走を知る読み手には色々返ってわかりやすい。 村上春樹について述べるとカフカなどは普遍的テーマで謎解きもできてわかりやすい。 だが騎士団長は謎解きができずわかりずらい。 この作品について述べると滝本の自らの生き様が謎解きになってわかりやすかった。 やはり謎は謎解きがないとダメだ。 それができてた点で騎士団長の春樹より上だった。 滝本竜彦はその意味で私小説的な作家なのだろう。 この本を読んで訳がわからなかった読者は過去作やネットの履歴を見ればいいだろう。 そういう外部の物語に依存するのがダメだという向きにはもっと私小説的な私小説やトルーキンのような本格ファンタジーを読めばいいだろう。 滝本竜彦に提案なのだが村上春樹のようにジョギングして私生活をできる限り健康にし、そこから溢れる闇と光を書いたらいいんじゃないだろうか。 私小説的に太宰の真似をすると本気で破綻しそうだ。 私は令和の村上春樹を新キャッチコピーにジョギングするといいと思う。 今更太宰ってのもなあ。 光だが届くんだが弱い気がした。 でも読後感は良かった この作品を語るには、まず、作者である滝本竜彦自身について述べなくてはならないだろう。 彼の作品は全般を通して、「自我を形成するシステムそのものを理解する眼差し」をテーマに据えており、その考えの根本には投影と抑圧というフロイト流の無意識の概念とが密接に絡みついている。 この点で重要なのは、著者はある種自らテーマとする無意識にすら、アイロニーに満ちた嘲笑を投げかける点にある。 著者がスピリチュアルに傾倒し、頭がおかしくなった……という理解をしている人も多いだろうが、そうではない。 元々滝本竜彦は、自らのテーマを作品にするために、瞑想など無意識を上手く取り扱う術を身につけることで、自我の問題を克服しようとしたのだ。 それら全ては単に創作論に還元されている。 一般の人の目から見れば無意識の理解というテーマはどうにも理解し難く、事実著者自身も、それに対して嘲笑的に対峙せざるをえなかった。 だからこそ、深くこの問題を取り扱った「ムーの少年」では日常からの遊離を全面に押し出したはいいものの、それはどこかぎこちなく、結局は日常に帰ってきてしまう。 この挫折の経験こそ、著者が長い時間をかけ、ゆっくりと創作=無意識というテーマに向き合うに至った経緯なのだろう。 そしてその目論見は、ある部分では成功している。 では「ライト・ノベル」の感想に移る。 本作を読んだ人の多くが抱くであろう感想は、まず、『意味が分からない』だろう。 これには大きく分けて三つの理由が存在する。 一つ目は物語の展開上の問題だ。 エンタメ小説にあるべき軸というか、目的が存在しない。 これはかなり顕著で、言ってしまえば、どこを重心的に読み進めればいいかの基準が小説内部ではなく、著者のテーマを同じくする別冊「NHK」や「ムーの少年」に依拠している。 なにせ、この物語単独で創作それ自体を物語の軸として読み進めることができるのは物語が半分以上進んでからなのだ。 二つ目は、『これまでの滝本作品と比べて変わりすぎている』からだ。 非日常こそ前提として存在しており、帰ってこない。 これは現実を舞台にしたある種のファンタジー小説と見るべきだろう。 これまでの滝本作品は徹底して現実に帰っていた。 この大きな齟齬が、不理解への足がかりだろう。 さて三つ目は、『結局何の物語だったのか』という消化不良にある。 文中でそれを否定してようやく違うと理解することもできるが、これまで追ってきたファンとしては肩透かしも歪めない。 著者の掲げる光の小説に対して、一読者の私は、私自身ではなく、滝本竜彦本人がこのような作品を書ききったことに多大な称賛を送りたいが、私自身に関しては、未だぼんやりとした高揚感と不安とが入り混じり、困惑している。 「面白かった?」と問われれば、「えぇ」と答えるだろうが、それは恐らく、本単体での評価ではなく、二十年近くかかったこの本の経緯と滝本竜彦という作家の存在ゆえだろう。 あと、ハーブ園を踊るところはとてもよかったです。

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